第百二十七話 三月九日
第百二十七話 三月九日
朝の光は、前日とまったく同じ色をして春日山城の奥御殿へ差し込んでいた。
瓦の隙間に残った残雪はさらに痩せ、軒先から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと規則正しい音を立てて石畳を濡らしている。山の斜面にはまだ白い塊が残っているが、その輪郭は日に日に泥の色に侵食され、境界を失いつつあった。
城下からは、まだ遠く頼りない鍛冶屋の槌の音が、等間隔に響いてきている。
カン。
カン。
冷たく、しかし乾いた金属音は、春のぬるい空気に吸い込まれてどこか遠い。
城の中もまた、いつも通りに朝を迎えていた。二の丸の井戸端では、小姓たちが手桶をぶつけ合う音が響き、奥向への渡り廊下では、女房たちの衣服の擦れる音が途切れることなく流れていく。役人たちは煤けた帳面を小脇に抱え、それぞれの持ち場へと小走りに急いでいた。
誰もが忙しい。誰もが今日も昨日の続きを生き、明日もまた同じ朝が来ることを一塵も疑っていない。その光のなかに、異変の兆しは微塵もなかった。
直江津の港は、すでに泥の混じった潮の匂いと、男たちの生々しい汗の気配で満ちていた。
能登から着いたばかりの帆船の脇では、厚い板を渡された船縁から、藁の煤けた米俵が次々と運び出されている。
「あと三十二!」
日焼けして首の皮の剥けた若者が、喉を鳴らして声を張り上げ、濡れた板敷きにどんと荷を落とした。その衝撃で、俵の隙間から数粒の初米がこぼれ落ち、泥水の中に沈んでいく。
そのすぐ横で、老役人が墨の乾きかけた筆を執り、小刻みに算盤の珠を弾いていた。
パチ、パチ、パチ。
指先が泥で汚れたその老人は、昨日の夕刻、脇の机に退けられた「直江津青苧 三束不足」と書かれた木札のことなど、すでに忘れている。木札は新しく引き上げられた塩俵の影に埋もれ、完全に視界から消え去っていた。老人にとって重要なのは、今この瞬間に目の前を通り過ぎる米俵の数であり、それ以上の世界は存在しない。帳面の数字は、何一つ滞ることなく、春の盤面を淡々と埋めていく。
「おい、そっちは東へ回す分だ。混ぜるな」
荷役の頭が、鼻をすすりながら指図を飛ばす。
「分かってるよ。二の丸の蔵だろ。来月にはまたここから吐き出すんだ、二度手間させんじゃねえ」
若者は笑い、腰に巻いた手拭いで額の汗を拭った。
その少し離れた馬場では、馬喰たちが、馬の足の裏に詰まった冬の泥を小刀の背で掻き出していた。
「今年は、長くなるかねえ」
一人が、馬の太い首筋を叩きながら呟く。馬は短く鼻を鳴らし、前脚を小さく震わせた。蹄から剥がれ落ちた黒い泥の塊が、地面の乾きかけた草の上にボトリと落ちる。
「さあな。だが、御屋形様が行くんだ。刈り取りの前には戻れるさ。あの人が動いて、戦が長引いたことなんてありゃしねえ」
もう一人の男が、懐から出した干し餅を噛み砕きながら応じた。
その足元を、昨日と同じ、片耳の先端が引きちぎれた野良犬が、尾も振らずに通り過ぎていった。犬は落ちた泥の塊に鼻を近づけ、格別の匂いもないと知ると、すぐに首を巡らせて、干し魚の匂いが漂う魚市場の方向へとトボトボと歩き去る。その歩調は、昨日と一寸の狂いもなかった。
直江信綱は、まだ夜気の残る奥御殿の長い廊下を歩いていた。
昨夜遅くまで続いた、諸将への動員令の文面確認と、兵糧の割り振りの疲れが、両肩の奥に重く残っている。
関東出陣の準備、街道の補修状況、青苧の運上金の計算。どれも春になるたびに、この十数年間繰り返されてきた仕事だった。
御屋形様がいる。
その厳然たる事実がある限り、越後という巨大な塊は、ひとつの生き物のように正確に動く。それは信綱にとって、吸う息や吐く息と同じ、考えるまでもない前提だった。だから、その前提が崩れるなど、夢想したことさえなかった。
懐には、昨日引き渡された兵糧の目録が入っている。来月、関東へ向けて発せられるはずの、数千俵の米の数字が並んだ紙。その和紙が、信綱が歩くたびに、衣の擦れる音に混じって微かにカサついた。
廊下の角を曲がったとき、御裏の世話を長年務めている老女の姿が視界に入った。
滅多なことでは声を荒らげることもなく、いつも影のように静かに立ち働く女である。しかし、今朝の彼女の歩調は、いつもより二寸ほど短く、そして不自然に乱れていた。白髪混じりの頭が、歩くたびに奇妙に左右に揺れている。
信綱は足を止めた。
近づいてきた老女の顔には、まったく血の気がなかった。唇が、寒風に晒された魚の腹のように白く剥け、小刻みに震えている。
「あ……」
掠れた声が、彼女の喉の奥で小さく爆ぜた。言葉になっていない。ただ、老女の膝が、着物の裾の向こうで目に見えて笑っていた。
信綱は何も訊かなかった。ただ、懐の目録を握る指に、じわりと力がこもる。紙の押し潰される音が、静かな廊下に小さく響いた。彼は表情を一切変えず、しかし地を踏む足の力を変えて、奥の寝所へと向かった。
御衾所の襖の前に立つと、そこに控えていた若い近習が、不審そうに顔を上げた。
「直江様、まだ御屋形様は――」
「どけ」
信綱の喉が、短く低く鳴った。
近習はそれ以上、言葉を続けることができなかった。その横をすり抜け、信綱の手が襖の縁にかかる。細い指先が、わずかに白く震えていた。
城下の飯屋では、昼前の小忙しい湯気が、煤けた梁に向かって白く立ち上っていた。
田起こしの手伝いを終えたばかりの農民たちが、泥のついた足のまま板敷きに腰掛け、大きな木椀に盛られた麦飯を威勢よく口に放り込んでいる。
「今年の雪は、しつこかったな。一時はどうなるかと思ったわ」
一人が、汁物の大根を噛み砕きながら言う。
「なに、山に雪が深く残ってるうちが、一番水が良くなるんだ。今年も米は上出来よ」
「そういや、二の丸のあたりで陣触れの触れ書きを見たぞ。また倅がいかれる」
「直江様のとこか。なら心配ねえ。あの人の後ろについていきゃ、勝ち戦しかねえんだからな。手柄首の一つでも持ってくりゃ、秋には新しい鍬が買えるわ」
箸が茶碗の縁を叩く軽い音が、男たちの濁った笑い声にかき消されていく。
店を出た通りの角では、行商の女たちが立ち話をしていた。
「昨日の干物、少し塩が強かったよ」
「何言ってるんだい、これくらい利かせなきゃ、陣中へ持っていく前に腐っちまうよ。今月はみんなこれを買っていくんだ」
米俵が積み上がった大店の日向には、今日もあの老人が座っていた。昨日と同じ破れ笠を膝に置き、深い皺の刻まれた顔を虚空に向けている。
そこへ、先ほどの片耳の欠けた犬がまたやってきて、老人の足元の匂いを嗅いだ。老人はピクリとも動かない。ただ、高く昇り詰めた太陽の光が、その老いた皮膚の皺の隅々までを、容赦なく白く照らし出していた。
部屋のなかの空気は、異様なほどに澱んでいた。
濃い香の匂いが残っている。昨夜、主君が静かに盃を干され、天下の盤面について静かに思考されていた、その瞬間の匂い。だが、その底に、別の、生々しく重い湿り気が混じっていた。
敷物の上の、一つの巨大な影。
上杉謙信。
つい数時間前まで、越後の、そして日ノ本の未来を当然のように見据えていたはずの肉体が、そこに横たわっていた。
その顔は赤黒く鬱血し、荒い息を吐き出すたびに、紫がかった唇の端から白い泡が小さく弾けている。数々の敵を震撼させてきたあの目は開いていた。だが、濁った白目を剥いたまま、天井の木目の、ただ一点を見つめてピクリとも動かない。
右手が、敷物の端を狂おしげに掴んでいた。
異様な力だった。爪が立ち、目の詰まった布地の繊維が、不自然に引き絞られて白くなっている。その指先はすでに冷え始めており、爪の隙間には、自身の肉を掻きむしったかのような、わずかな血の赤が滲んでいた。
信綱はゆっくりと膝をついた。
その巨大な肩へ、右手が伸びる。
しかし――触れる直前で、指先が空間に止まった。
信綱の喉が、ヒュー、と乾いた音を立てる。彼はそれ以上、手を動かすことができなかった。ただ、自身の呼吸が、急速に浅く、細くなっていくのを感じていた。
「誰も入れるな」
しばらくの後、信綱は立ち上がり、背後の近習に向かって声を絞り出した。その声には、怒りも悲しみもなく、ただ冷徹な硬さだけがあった。
「この部屋の半径十間に、近づく者は誰であれ許すな。不審な動きをする者は、その場で叩き斬れ」
「はっ」
「河田殿を呼べ。本庄殿もだ。息を上げて走るな。普段通りに歩いて、普段通りの顔で連れてこい。医師は、裏から入れろ」
近習が弾かれたように去っていく。
部屋のなかに、再び沈黙が戻る。主君の喉から漏れる、湿った蛇が這うような、細い呼吸の音だけが、頼りなく空間を削り続けていた。
二の丸の役所では、本庄秀綱の机の上に、関東への街道の整備図が広げられていた。
春になれば、軍勢が必ず通らねばならない道。どこの橋が落ち、どこの泥濘が深いか、それらが細かく朱筆で書き込まれている。秀綱は算盤の珠をいくつか弾き、図面の脇の木札に目をやった。
河田長親が、音もなく室内に踏み込んできたのはその時だった。いつも通りの、物静かで、どこか影のある佇まいだった。
「本庄殿」
「何だ、直江津の青苧の件か。あんなものは後回しだ。今は街道のほうが――」
「筆を置け」
秀綱は顔を上げた。
河田の目が、どこか一点を凝視したまま動いていなかった。その額に、朝の冷気には不釣り合いな、一筋の汗が流れている。
秀綱は何も言わずに、筆を硯の縁に置いた。
墨が、白い図面の上に一滴、ぽつりと落ちて、じわじわと黒い輪を広げていく。二人は、どちらも一言も発しないまま、部屋を出た。廊下を渡る二人の足音は、いつもと変わらぬ規則正しい間隔を刻んでいた。
城下の市場では、夕餉の仕込みのために、女たちが味噌や塩、根菜を買い求めて賑わっている。
「今日は良い魚が入ってるよ! 直江津に今朝上がったばかりだ。御屋形様の御膳にも出される上物だよ」
魚売りの若者の威勢のいい声が、荷車の軋む音と交差する。女たちは笑いながら小銭を差し出し、竹籠に魚を収めていった。
寺の鐘が、遠くで一つ、重く鳴った。いつもと同じ、一日の終わりを告げる、ありふれた音だった。
奥御殿の、固く閉ざされた襖の向こう。
直江信綱、河田長親、本庄秀綱の三人が、一言も発さずに床を見つめていた。部屋のなかの空気は、完全に凍りついている。
床の上で、あの苦しげな呼吸の音が、ふっと途切れた。
一度。
沈黙。
そして、二度と、次の息は来なかった。
謙信の右手が、掴んでいた敷物から離れ、板敷の上に力なく転がった。小さな、衣服の擦れる音がして、それから、完全な静寂が部屋を支配した。
信綱が、ゆっくりと膝をついた。
主君の、まだ微かに温かい胸の上に、静かに手を置く。その温もりは、もう二度と戻らない。
信綱は顔を上げた。その目は、昏い光を放っている。
「御屋形様が、お隠れになられた」
乾いた声だった。
河田長親も、本庄秀綱も、動かない。誰も泣かなかった。泣く隙など、どこにもなかった。三人の視線が、主君の遺体を挟んで、一瞬だけ交錯する。
誰も口を開かない。誰も動かない。
ただ、完全な沈黙だけが、冷えていく肉体のまわりに満ち満ちていた。
天正六年、三月九日。
春日山城の深い奥底で、巨星は、音もなくその光を失った。
春日山城の外では、いつものように夕方が始まっていた。
子供たちは、泥だらけの足を弾ませて、暮れなずむ畦道を家へと走っていく。
商人たちは店の重い戸を閉め、鍛冶屋の炉の火はゆっくりと小さくなって、灰のなかに赤黒い光を埋めていった。港の船頭たちは、船を繋いだ縄の結び目を一つ一つ確認し、満足そうに鼻を鳴らして引き上げていく。
どこかの家の竈から、汁物を煮る香ばしい匂いが漂ってきた。
城下の飯屋では、仕事を終えた足軽たちが、また板敷きに腰を下ろして笑い合っている。
「明日は、少し天気が崩れるかねえ。雲が出てきた」
一人が、濁酒の入った碗を傾けながら、開け放たれた戸口の向こうの空を見上げた。
「なに、御屋形様がついているさ。雨が降ろうが槍が降ろうが、あの人が前を歩いてりゃ、俺たちはただついていくだけよ」
もう一人が笑い、碗を合わせた。
山から吹く風は、どこまでも柔らかかった。
春日山城の斜面で、雪は、静かに溶け続けている。




