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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百二十六話 軍神之春

第百二十六話 軍神之春


 泥が鳴っていた。

 天正六年、三月。冬の間、越後の山々を重く押さえつけていた雪は、ようやくその傘を縮め始めていた。だが、それが消え去ったわけではない。陽の届かぬ山陰には、未だぶ厚い白い塊が残り、それが昼の熱に溶けては夜の寒気に凍る。その執拗な繰り返しが、春日山城の麓を走る街道を底なしの泥濘へと変えていた。

 薄暗い朝靄のなか、諸国からの物資を積んだ荷車の列が、木枠の車輪を軋ませながら進んでいた。ぐしゃり、ぐしゃり、と車輪が泥を深く噛み、重い音を立てて撥ね上げる。先頭の荷車には米俵、二台目には塩樽、三台目には固く引き締まった青苧の束。

 不意に、先頭の車輪が古い轍にはまり、荷車が大きく傾して止まった。連鎖するように後ろの車輪も止まる。

 馬が不機嫌そうに鼻を鳴らし、御者が短く舌打ちをした。

「おい、前を早く動かせ! 日が昇りきる前に港へ着かねえだろうが!」

 三台目の荷車の御者は、片頬を両手で強く押さえたまま、痛みに顔を歪めていた。朝から猛烈に歯が痛むのだ。

 先頭の御者は荒縄を手に泥の中へと降り立った。足を踏み込むたびにぶつぶつと音を立てて吸い付いてくるぬかるみのなか、二台目の塩を積んだ荷車から男が二人、無言のまま降りてきた。三人で車輪の横に回り込み、泥まみれの木枠に肩を当てる。

「せえの」

 力を込めるが、泥の底は深く、容易には動かない。もう一度、泥を蹴って強く押す。車輪がわずかに回った瞬間、撥ね上がった赤黒い泥が、一人の顔面を容赦なく汚した。男たちの間にどっと笑い声が上がった。

 車輪が轍を抜けた。先頭の車がゆっくりと前へ進み始めると、男たちはそれぞれの位置へと戻っていく。後続の車輪が、再び泥を噛み始める。

 道の脇では、古い手拭いを頭に巻いた、背中の曲がった老婆が一人しゃがみ込んでいた。先ほどの車輪の衝撃で、二台目の荷車から転げ落ちた塩の塊を、一つ、また一つと拾い上げている。

 老婆は泥だらけになった表面を痩せた手で拭い、愛おしそうに胸に抱えた。荷車の列はそのすぐ横を通り過ぎていくが、誰も老婆を見ようとはせず、老婆もまた、通り過ぎる男たちに視線を向けることはない。

 少し離れた民家の軒下では、二羽の鶏が肥だめの周りをせわしなく歩き回っていた。そこへ、裸足の子供が歓声を上げて飛び出してくる。子供が鶏を追いかけ、ぬかるみに足を取られて派手に転倒した。泥を撥ね上げて泣き出した子供の声を聞きつけ、家の中から煤まみれの女が飛び出してきた。しかし、女の視線は泥まみれの子供ではなく、散り散りに逃げる鶏の方へと向かう。女はすぐさま鶏を追って走り去り、残された子供は泥の中に座り込んだまま、大声で泣き続けた。

 どこからともなく、痩せ細った犬が一匹、荷車の下から姿を現した。子供が泣き叫ぶすぐ横を通り抜け、老婆が拾い損ねた小さな塩の欠片を不審そうに嗅ぐと、すぐに先へと進む荷車の列に沿って静かに歩き始めた。

 朝の光が差し込み始めた直江津の港へ、荷車の列が滑り込んできた。

 桟橋の荷受けはすでに逼迫し始めていた。北前船から下ろされる物資をめぐって、乾いた算盤の音が急き立てるように響いている。船倉から運び出される物資が桟橋に積み上がるたびに、煤けた帳面を持った港の詰所の男が低い声で数を読み上げ、隣に座った若い丁稚が冷たい指先で算盤の玉を弾く。

 ざぶり、と波が岸壁にぶつかって砕け、引いていく。その音の合間に、算盤の鋭い音が混ざる。

 港の端の静かな場所には、一人の老漁師がいた。

 膝の上に目の粗い網を広げ、竹の網針を黙々と動かしている。針を刺し、糸を引き、また刺す。周囲では荷役たちが走り、船頭が怒号を上げているが、老人はただの一度も顔を上げようとはしなかった。老人の足元には、さっきの犬がいつの間にか座り込み、老人が放り出した小さな魚の骨を静かに咥え込んでいた。

 その喧騒から少し離れた薄暗い詰所の中では、泥のついた荷札の束を前に、港の男が一人座っていた。表面には塩分を含んだ泥が乾き、薄茶色の層を作っている。

 男は親指の腹でその泥を無造作に拭い、荷札の表面に荒く彫られた文字を睨んだ。

 男は手元の分厚い帳面を開いた。使い古された筆を墨に浸し、さらさらと、慣れた手つきで文字を帳面の行へ書き写していく。その間、男の表情には何の感慨もない。文字が帳面の白地を埋めていくが、男の目が追っているのは意味ではなく、ただの輪郭だった。

 書き終えると、男は筆を硯の縁に置き、書き終えた行の上から軽く灰を振りかけて墨を乾かした。息を軽く吹きかけると、灰が飛び、乾いた墨の線だけが黒々と残る。男は、乾いた手つきで帳面を閉じた。脇に置いた、別の空欄の平らな木札を一枚取り上げると、先ほど書き写したばかりの数字を、今度は小刀の先で直接木肌に刻みつけ始めた。ガリガリと硬い音がして、白い削り屑が机の上に散る。削り屑を短く息で吹き飛ばし、その木札を机の端へ置いた。そこにはすでに、同じように削られた木札が十数枚、不揃いな山を作っている。

 城下では、鍛冶屋の火が朝から激しく燃え盛っていた。

 ふいごが鳴るたびに火床の炎が真っ赤に膨れ上がり、熱せられた鉄の塊が鈍く輝く。そこへ重い槌が落とされるたび、高い金属音が城下の空に響き渡った。

 親方はうつろで堅固な顔をしていた。ただ、煤まみれの腕だけが、生き物のように正確に動いている。

 そこへ、古い鍬を肩に担いだ百姓の老人がふらりと入ってきた。

「親方、この鍬の刃、裏を叩き直してくれ。明日からもう田起こしだ」

 親方は顔も上げず、ただ顎で床の一角を示した。

「そこへ置け」

 老人が錆びついた鍬の刃を外して置いた場所には、すでに焼き入れを終えた真っ黒な槍の穂先が数十本、乱雑に積み上がっていた。親方は再び槌を激しく振り下ろし、鼻の頭に浮いた汗を腕で手荒に拭った。槍の鋭利な鎬と、土の匂いがこびりついた鍬の平が、一つの床の上で細かな火花を浴びていた。

 大通りでは、足軽が歩き、荷が動き、馬が静かに進んでいた。誰もが急ぎ足であったが、誰も走ってはいなかった。

 飯屋の薄汚れた暖簾が、風に揺れていた。

薄暗い店内では、足軽たちが四人、胡坐をかいて大皿の煮魚を突ついていた。

「しょっぱいな、此度の魚は」

「そうか」

 別の男が短く答え、冷めた飯を口に運ぶ。外を荷車が通り過ぎ、縄が軋む音が聞こえた。馬が嘶き、飯屋の中では、大柄な男が一つ、大きなたらいのような欠欠伸をした。

 春の日は、まだ半分も終わっていなかった。

 春日山城では、廊下を歩く革履の足音が目に見えて増えていた。

 飛び交う書状も、諸国からの使者も、細々とした確認事も、すべてが膨れ上がっていく。誰かが走り、誰かが戻り、誰かが部屋の隅で待たされ、誰かが上役に怒鳴られている。

 長尾信綱は、自身の足音が板敷きの廊下に吸い込まれていくのを耳にしながら、歩度を緩めなかった。すれ違う小姓や近習たちの目が、一様に地面へ落とされているか、あるいは張り詰めた弓の弦のように硬い。誰一人として無駄口を叩く者はなく、ただ衣服の擦れる布の音と、佩いた太刀が鞘の中で小さく鳴る金属音だけが、冷え切った廊下に響いていた。

「景勝様は」

 すれ違いざま、声をかけてきたのは斎藤朝信であった。信綱は足を止めず、わずかに首を横に振るだけで応じた。

「奥のままだ。御実城様の御容体について、未だ何一つ確たる言葉は降りてこぬ」

「関東への陣触れはどうなっている。兵糧の集積がやや遅れているようだが」

「各郡の国衆へはすでに触れを出した。いつもの遅れだ。雪が完全に解ければ、嫌でも男どもは集まる」

「そうか。ならば良いが」

 信綱は斎藤朝信をその場に残し、二の丸の奥、勘定所へと続く重い杉戸を開けた。

 室内には、十数人の右筆や奉行たちが、それぞれ机を並べて黙々と筆を動かしていた。パチ、パチ、と算盤の玉が弾かれる音が、断続的に部屋の空気を叩く。誰もが自身の割り当てられた数字の山と格闘しており、長尾信綱が入ってきたことに対しても、会釈以上の反応を返す者はいない。

 その最奥に、本庄秀綱が座っていた。

 秀綱は机の上に何十冊もの帳面を広げ、右手には筆を握ったまま、凝固したように動かない。その眼窩は深く落ち込み、連日の不眠を物語る青黒い影が皮膚の下に張り付いていた。

「本庄殿」

 信綱が歩み寄ると、秀綱は視線だけをゆっくりと上げた。

「……長尾か。陣触れの件か」

「いや。それに伴う兵糧だ。三条の集積所に、予定の数が入っていない。人足の割り当てが少し狂っているようだ」

 秀綱は筆を置かず、手元の一冊の帳面をめくった。

「いつものことだ。沼田の街道補修に人員を割かれすぎているのだろう。あちらが終われば、自然と馬の口取りも戻る」

「少し急がせた方が良くはないか」

「御実城様が下された割り当てだ。触る必要はない」

 秀綱の言葉は、平坦だった。

 室内の空気がわずかに揺れた。

 部屋の入り口から、一人の小姓が静かに歩み寄ってきた。小姓は秀綱の机の端に、一枚の木札を置いた。

 朝方、直江津の詰所で男が小刀で数字を刻みつけた、あの白みの残る木札だった。

 秀綱は手元の筆を動かしたまま、視線だけをその木札へ落とした。そこに刻まれた文字と数字を一瞥する。

「後で港へ確認の使者を走らせろ」

 秀綱は信綱に向かって短く応じた。それから、今まで書き込んでいた手元の帳面をパタンと閉じた。その音は、室内の算盤の音にかき消されるほど小さかった。

 秀綱は木札を取り上げた。そして、それをそのまま、様々な別件の報告書や、他国からの触れ状が雑多に積み上げられた、巨大な書類の山の隙間へと、無造作に差し込んだ。

 木札は、他の紙束の重みによって、一瞬でその姿を隠した。

「長尾、次の件だ」

 秀綱は手元へ引き寄せた、さらに別の分厚い帳面を開いた。「関東の佐野から報せが入っている。近々、勝頼がこちらに何らかの使者を送る動きを見せているという。これの応接の準備を進める」

 新しい頁に筆の先が浸され、黒い墨が吸い上げられる。秀綱は次の業務を読み上げ始め、信綱もまた、自身の懐から紙を取り出した。

 室内に、再び紙が擦れる音と、単調な筆の音だけが重なっていく。重い印が何度も押される。小姓がそれをひったくるようにして持っていき、終わらない仕事を淡々とこなしていく。

 机の上の山の隙間に挟まれた木札が、いつ再び引き抜かれるのか、あるいはそのまま永遠に埋もれるのかを知る者は、その部屋には誰もいなかった。

 日が、本格的に傾き始めた。

 城下の影が東へ向かって長く伸びる。防壁の隙間から差し込む夕暮れの光が、赤から深い紫へと色彩を移り変えていく。街道の轍に溜まった雪解けの水が、夕日の光を受けて赤黒く鈍く光り始めた。

 城下には夕餉の匂いが満ち始める。どこかの家で味噌が煮える匂いがし、どこかで魚が焼ける煙が上がり、どこかの薄暗い壁の向こうで夫婦がささやかな喧嘩をし、どこかで赤子が激しく泣いた。ただ、いついつの一日が、いつものように夕方になっただけだった。

 城下の灯りは、夜が更けるにつれてひとつ、またひとつと消え、先ほどまでの騒雑は夜の闇の底へと完全に沈んでいった。

 城の廊下の端では、二人の中間が箒を壁に立て掛け、冷えた手を擦り合わせながら引き上げていく。街道の闇には人影もなく、ただ昼間と変わらぬ雪解けの水が、暗闇のなかを激しく流れ続ける音だけが響いていた。

 その完全に静まり返った春日山城の奥、薄暗い一室。

 上杉謙信は一人、腰を掛け、手の中に収まった小振りの盃を見つめていた。

 注がれているのは、いつもの蔵から出された、いつもの越後の酒である。昨日も飲んだし、一昨日も飲んだ。あるいは、明日も同じように飲むはずの、特別ではないただの酒であった。

 謙信は静かに盃を干した。空になった盃を、木の床に置いた。

 小さく咳払いをした。外で、犬が短く吠えた。

 夜はさらに深くなった。

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