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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百二十話:酒宴微変

第百二十話:酒宴微変


 越後の冬は、雪に始まり雪に終わる。


 春日山城を包み込むのは、甲斐の山々から吹き下ろす刃のような乾いた風とは全く質の違う、水墨画の如き重く湿った白の静寂であった。見渡す限りの山々も、眼下に広がる頸城平野も、すべてが分厚い雪の下に閉じ込められている。

 この雪に閉ざされた数か月の間、越後は他国との戦を完全に断ち切られる。関東への出兵も、北陸への進軍も、雪解けを待たねば始まらない。この長く閉ざされた冬こそが、軍神と称される大将の下で戦い続ける越後武士たちにとって、唯一の骨休めの刻であった。


 天正という年号に変わってから数年。春日山城の大広間で行われる年始の宴は、一見すると例年と何一つ変わらぬ光景であった。


 用意された膳の数も、ずらりと並べられた朱塗りの銚子の量も、広間に顔を揃えた将兵の顔ぶれも、昔と変わらぬ武骨で野卑な越後の熱気に満ちている。

 上座の中央には、関東管領にして越後の国主、上杉謙信がどっしりと座を占めていた。その左右には、長年彼に従い、幾度もの死線を共に潜り抜けてきた歴戦の重臣たちが肩を並べている。

 謙信の向かって右の座には、実の甥であり養子として引き立てられている上杉景勝が、左の座からやや距離を置いた位置には、相模の北条家から養子として迎えられた上杉景虎が、それぞれ端座していた。広間の下座では、越後各地から集まった国人衆や家臣たちが思い思いに杯を重ね、車座になって声を上げている。

 幾つもの巨大な火鉢に積まれた炭火の熱が広間の空気を温め、時折、大音声の笑い声が太い梁を震わせた。


 勝久は、広間の末席の一つで、静かに自分の膳を前にして座っていた。

 名門・直江家の家老職に就いて、四年になる。亡き先代・直江景綱の跡を継いだ若き直江信綱を補佐する立場として、この新年の大宴に列席を許されるようになったのは去年の正月からのことだ。だから、この異様に熱気を帯びた上座の空気には、まだ完全には慣れていない。

 己のような分をわきまえた実務の者がすべきことは、上座の空気の変化を慎重に読み取りながら、決して飲みすぎず、無闇に騒がず、ただ目と耳を働かせてその場に静かに座っていることだ。それが、若き当主を支える家臣の役割だと心得ていた。


 宴が深まるにつれ、勝久は杯を口に運びながら、ぼんやりと広間全体を見渡した。


 上座の謙信は、相変わらずよく酒を飲んでいた。

 次々と注がれる杯を平然と干し、傍らに控える重臣と言葉を交わし、時折、腹の底から響くような豪快な声を上げて笑う。その笑い声には、数多の戦場を力でねじ伏せてきた者だけが持つ圧倒的な覇気があり、一瞬で広間の空気を明るく塗り替える力があった。

 謙信が笑えば、越後は安泰である。兵たちは皆そう信じているし、実際にそうであった。それは、これまで勝久が見てきた春日山城の正月の風景と、表向きは何一つ変わっていなかった。


 ただ。勝久は、手元の杯を見つめながら微かな違和感を抱いた。

 以前の宴ならば、謙信が口を開き、声を上げて笑い始めると、広間全体の視線が自然と上座の大将一点へと集中した。誰もがその笑い声に同調し、大将の一挙手一投足を見逃すまいとしていた。


 だが、今夜は違った。謙信が声を上げて笑っているというのに、広間の視線は完全には一つにまとまっていない。

 上座の言葉に耳を傾け、共に杯を上げている者もいれば、謙信の笑い声を背景の音のように聞き流しながら、自分たちだけの密やかな話を続けている者もいた。


 それが明確な不敬の態度に見えるわけではない。大勢が集まる酒の席であれば、あちこちで小集団の会話が生まれるのは自然の理でもある。ただ、少しだけ、不思議だった。


 勝久は視線をそっと動かし、二人の養子の姿を追った。


 上杉景勝は、驚くほど静かだった。

 もともと愛想よく笑う男ではなく、口数の少ない生真面目な将だとは家中でも知れ渡っているが、今夜の景勝は特にその沈黙が際立って見えた。

 隣に陣取る河田豊前守長親らと、時折身を寄せて短く言葉を交わすだけで、無闇に立ち上がって酒を注ぎに回るようなことはしない。河田が何事かを熱心に語りかけると、景勝は深く頷き、静かに杯を口に運ぶ。

 決して笑わないわけではない。だが、その笑みはひどく薄く、数が少ない。それが彼生来の性格によるものなのか、今夜の気分なのか、末席の勝久には判別がつかなかった。


 一方、少し離れた場所に座す上杉景虎は、景勝とは対極の様相を呈していた。

 北条氏康の実子として小田原で育ったこの青年は、越後の雪国には似つかわしくないほどの華やかな美貌と、洗練された立ち振る舞いを持っていた。

 景虎は自らよく笑い、よく話した。上杉家の譜代の者だけでなく、関東から流れてきた国人衆にも気さくに声をかけ、杯を持たせては労いの言葉をかける。宴の裏方として立ち働く給仕の者たちにまで、労をねぎらう言葉を忘れなかった。

 だが、勝久はその華やかな景虎の顔に、ふと異質なものを感じた。景虎が周囲の者たちと杯を交わし、明るく笑い終わったその直後の一瞬。彼がふと視線を落とすとき、その瞳はどこか遠くの、まったく別の景色を見つめているように思えた。


 景虎の陣取る一角で、何かの話が盛り上がり、ひときわ大きな笑い声が広間に上がった。その時。景勝は、ぴくりともそちらを見なかった。手元の猪口を静かに見つめたまま、河田が注ぐ酒を黙って受けている。


 ただの気のせいだろう。去年の正月も、きっとこのようなものであったはずだ。勝久はそう己に言い聞かせ、杯を口に運んだ。主である直江信綱も、他の古参の家臣たちも、いつも通りの赤ら顔をして豪快に酒を飲んでいる。自分だけが妙な空気を感じているとすれば、それは場慣れしていない者の見当違いというものだ。


 しかし、己を納得させようとしたその結論が、なぜか勝久の腹の底にうまく腑に落ちなかった。


 勝久は杯をゆっくりと膝に置き、もう一度、広間の景色を静かに眺め渡した。

 粗探しをするつもりは毛頭なかった。ただ、目の前で起きている事象を、ありのままに視界に収めてみたのだ。


 景勝の座る一角では、春の雪解けを待って行うべき検地のやり直しや、軍役の負担についての重い話が続いているようだった。河田豊前守が身振り手振りを交えて越中方面での兵站の苦労を語る。周囲の生え抜きの武将たちがそれに深く頷き、地道な苦労を分かち合うような実直な笑い声が上がる。


 一方、少し離れた景虎の座る一角では、全く異なる話題が花を開かせていた。関東の情勢。実家である北条氏政の動向。都から流れてきた噂話。景虎の周囲に集まる関東の国人衆や外交を担う者たちは、外の世界の動きについて語り合い、時に驚きの声を上げた。


 どちらの空間も、それぞれに楽しげであった。どちらの輪も、確かな熱気を帯びて賑やかであった。

 だが、二つの輪から上がる笑い声は、同じ大広間という空間にありながら、決して空中で混ざり合うことがなかった。誰もそれを気にしているようには見えなかった。


 去年も同じだっただろうか。勝久は考えた。だが思い出せなかった。


 熱気に満ちた宴が終わったのは、夜半をとうに過ぎた頃であった。

 謙信が立ち上がり、足早に奥の寝所へと退席する。それに続くように、重臣たちも次々と腰を浮かせ、それぞれの屋敷や長屋へと引き上げていった。景勝も立った。少し遅れて景虎も立った。人々も続いた。


 客が引き、足音が回廊の奥へと遠ざかり、大広間が急速に冷たい静寂へと沈んでいく。

 勝久は末席の者としての務めを果たすため、広間に一人残り、片付けを手伝った。給仕の者たちと共に、食べ残された膳を下げ、転がった銚子を集め、火が弱くなった火鉢の炭を始末していく。


 やがて、広間からすべての人が消え、完全に空になった。


 勝久は、盆の上に集めた夥しい数の空の杯を並べながら、ふと手を止めた。

 今夜の宴に、欠けた者は一人もいなかった。招かれた面々は全員が顔を揃え、誰一人として途中で中座することなく最後まで座に留まった。笑い声も絶えなかった。冬を越すための酒も、幾樽となく空になった。謙信も、終始上機嫌に酒を浴びていた。


 壁の燭台の、最後の灯が吹き消された。広間にはもう、誰もいない。さっきまで柱を震わせていた喧騒も、熱気も、完全に夜の闇へと溶けて消え去った。


 暗がりの中、盆の上に並んだ空の杯だけが、月明かりを反射して鈍く光っている。


 勝久はしばらくそれを見ていた。何が足りないのかは分からなかった。分からないまま、杯を一つずつ丁寧に重ねた。外で風が鳴った。


 その数は変わらぬのに、何かが足りなかった。

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