第百二十一話:雪中動員
第百二十一話:雪中動員
天正六年二月。
越後国の春日山城は、見渡す限りの深い雪の底にありながら、まるで熱病に冒されたかのように激しく、そして重苦しく動いていた。
空を覆う厚い雪雲から絶え間なく白い破片が舞い落ちる中、城下の街道には夜明け前から果てしなく続く荷駄の列が黒い線を描いていた。城の搦手から表門に至るまで、俵を高く積んだ大八車や、雪道を歩むために藁沓を何重にも履かせた荷馬が、白い息を吐きながら絶えず行き来している。
厩では馬丁たちが凍てつく手で軍馬の世話に追われ、武具蔵の周辺からは、槍の穂先を研ぎ、鎧の金具や草摺の糸を点検し修繕する硬質な音が、朝から晩まで止むことなく響き渡っていた。
雪はまだ深く、大人の腰を優に越えるほど積もっている。だが、謙信公が発した出陣の刻限は三月の半ば。あと三七日ほどしか残されていない。春日山城という巨大な山城全体が、大遠征を前にして荒い息を吐く巨大な生き物のように、その腹の底を激しく波打たせていたのである。
三ノ丸に位置する十数棟の兵糧蔵を管理する奉行、黒沢与左衛門は、今日も夜が明けるはるか前から、行灯の薄暗い明かりの下で分厚い帳面を広げていた。
年はすでに四十を過ぎて久しい。上杉家に仕えて二十年余り、この兵糧蔵の奉行を務めて七年になる。川中島の血戦の頃から数えれば、越後が関東の北条を攻めるため、あるいは北陸の一向一揆を鎮めるために出兵するたび、彼はこの冷たい蔵の扉を開け閉めしてきた。
米を高く積み、塩の目方を量り、干し飯や味噌の袋を数え、果てしなく続く荷駄の列への積み替えを大声で指示する。彼自身は武功を立てて名乗りを上げたこともなく、刀の血を洗ったこともない。だが、この氷のように冷え切った蔵の中で算盤を弾き続けることこそが、彼に与えられた戦であった。
だが、今回の遠征は、これまでのいかなる戦とも規模が違った。
御屋形様である謙信公が前年の暮れに国中に発した動員令は、与左衛門がこれまでの生涯で見たこともない、途方もない大軍勢であった。
五万近い軍勢。
越後一国のみならず、越中、能登、さらには加賀の一部から集められる兵の数である。それだけの人間の塊がひとたび動けば、一日に消えていく米と塩の量だけでも想像を絶するものとなる。雪解けの泥道をゆく街道の荷駄の数、道中の中継拠点の配置、数千頭に及ぶ軍馬の飼料の手配。
算段がわずかでも合わなくなるたびに、与左衛門は帳面を閉じて冷たい指で額を押し、そして再び開いては墨で数字を書き直す。それをこの一月で何十回、何百回繰り返したか、もうとうに数えるのをやめていた。
「与左衛門殿」
吐く息を白くしながら、若い書記の役人が足早に声をかけてきた。
「北陸の加賀口へ向ける荷駄の数、三十荷ほど帳面の数と合いませぬ。昨日の夕刻の検収と、今朝出立する前の分とで数が違っておりまする」
与左衛門は算盤の玉を弾く手を止め、顔を上げた。「どちらが多いのだ」
「今朝の方が、三十荷少のうございます。どこかの組が、割り当て以上の米を強引に持ち出したやもしれませぬ」
与左衛門は小さく舌打ちをした。
「街道の雪で遅れているか、あるいはまた陣所でのいさかいか。昼までに揃わなければまた報せよ。私が直々に目録を確かめる」
書記が深く頭を下げて下がっていく。与左衛門は再び帳面へと目を戻した。
二月に入ってからというもの、こうした不毛なやり取りが一日に何度も起きるようになった。数が合わない。荷が届かない。人が足りない。だが、与左衛門を真に悩ませているのは、単なる物資の不足や大雪による遅延だけではなかった。
陣中における、目に見えにくい小さな齟齬の積み重ねである。
最近、米を受け取りに来る役人の顔ぶれに、妙な偏りが出てきた気がした。
景勝様の方の役人と、景虎様の方の役人とが、なんとなく別々に蔵へやって来るようになったのだ。以前はもう少し入り混じっていたように思うが、いつの頃からか、双方の役人が顔を合わせることを避けるようにして動いている。
昨日も、荷馬の割り当てを巡って蔵の前で声を荒げる場面があった。どちらが先にそうなったのかは分からない。ただ、与左衛門には、その小競り合いの底に何か説明しがたい重さが漂っているように感じられた。
(……なんとも、やりにくくなったものだ)
与左衛門は、筆の先を舐めながら小さく息を吐いた。
近年、越後に出入りする他国の商人たちから、南の甲斐の国についての奇妙な噂を耳にすることが増えていた。
武田信玄が姿を隠し、若き陣代である勝頼が実権を握ってからというもの、武田の領内では妙な紙札が流通しているらしく、武田では足軽まで銭で集めるという。そして、兵糧の備蓄や輸送はすべて役人が一括して管理し、将兵が勝手に米を一粒でも奪えば即座に首が飛ぶほどの厳格な法が敷かれている、と。
与左衛門にとって、それは到底信じられない、気味の悪いおとぎ話にしか聞こえなかった。
武士というものは、自らの土地と一族郎党を食わせるために槍を握り、大将への情と恩義のために命を懸ける生き物である。銭と紙切れ、そして無機質な法度だけで、血の通った軍勢が動くはずがない。
我ら越後の強さは、そのような小賢しい法にあるのではない。毘沙門天の化身たる御屋形様への絶対的な信仰と、義のために戦うという熱き心意気にあるのだ。
そう自らに言い聞かせ、与左衛門は目の前の歪な数字の帳尻合わせに再び没頭した。
昼を少し過ぎた頃、与左衛門は凝り固まった体をほぐすため、蔵の外へ出た。
外の空気は刃のように冷たい。しかし、雪の質が確実に変わり始めていることに、雪国で生まれ育った彼の肌は気づいていた。
一月の雪は、踏めばきゅっきゅっと鳴るような粉のように乾いた雪であった。だが、二月も半ばを過ぎると、雪に水分が含まれ、どっしりとした重みを持つようになる。春の気配だ。あと一月もすれば山々の雪解けが始まり、泥濘んでいた街道が次第に歩きやすくなる。そうなれば、いよいよ越後の大軍勢が動く。
不意に、城の二ノ丸の方角から、張り詰めたような人の気配がした。
与左衛門は何気なくそちらへ目を向けた。
御屋形様であった。
上杉謙信が、直江信綱ら数名の側近だけを連れて、雪に覆われた二ノ丸の広場を歩いていた。遠征のための軍馬の仕上がりを確認するのか、厩の方へと向かっている。
その足取りは、与左衛門が若い頃からずっと見仰いできた、あの軍神の足取りそのものであった。歩幅は大きく、一切の迷いがなく、雪深い大地を深く踏みしめるようにして歩く。四十九という年齢を全く感じさせない、巨大な岩山がそのまま移動しているかのような圧倒的な威風であった。
与左衛門は、思わずその場に深く平伏し、雪に額を擦りつけた。
御屋形様が近くをお通りになる時は、いつもそうなる。理由は言葉では説明できない。ただ、あのお方の姿が視界に入るだけで、自分が何のためにこの凍てつく蔵の中で毎日帳面を睨み、算盤を弾いているのかが、雷に打たれたように明確に分かる気がするのだ。
謙信は厩の前で立ち止まり、馬丁と何か短い言葉を交わしていた。声は遠くて届かない。ただ、馬丁が涙を流さんばかりに深く頭を下げ、謙信が鷹揚に短く頷くのだけが見えた。
それだけであった。謙信はすぐに歩き出し、雪の壁の向こう側へと姿を消した。
与左衛門は立ち上がり、蔵の中へ戻った。
凍えた手に息を吹きかけ、帳面を開き、中断していた計算を再開する。
加賀口へ向かう荷駄の再編成。越中を通るための中継拠点の確保。春の雪解けの時期に合わせた荷の出し方の順序。数字を並べ、足し、引き、そしてまた並べる。
(御屋形様がおられる限り、この越後は決して揺るがない)
与左衛門は、確信を持ってそう胸の内で呟いた。 役人同士の小競り合いも、荷の行き違いも、すべては些末なことだ。あの御屋形様が一度軍配を振り下ろし、毘沙門天の御旗が風に翻れば、家中すべての者が己の私欲や日頃のいざこざを忘れ、一つの無敵の軍団となって敵を粉砕するのだ。
武田がどれほど妙な仕組みを作ろうとも、上杉にはこの絶対的な大将がいる。それこそが、越後武士の揺るぎない正義であり、最強の理由であった。
春になれば出陣だ。
越後の大軍勢が、天下を震わせるために動く。
自分は、ただそのために必要な米と塩を一寸の狂いもなく揃える。
己の役目は、ただそれだけだ。
夕暮れ時、春日山城の城下の方から、寺の鐘の音が遠く重く響いてきた。
与左衛門は帳面を閉じ、筆を洗うと、蔵の小さな窓から外を見た。
見渡す限りの白い雪原の向こうに、冬の夕陽が沈みかけている。赤く血のように染まった空の下、春日山城の巨大な輪郭が、黒い影となって浮かび上がっていた。
城内からは相変わらず、出陣の準備に追われる兵たちの足音と、武具を打ち合わせる硬質な音が響き続けている。誰もが、来たるべき大戦に向けて己の命を燃やす準備に没頭していた。
春日山は、今日も静かだった。




