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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百十八話:銭路兵道

第百十八話:銭路兵道


 滝川一益が深く平伏したのち、足音を殺して広間から退室していくと、美濃国岐阜城の大広間には再び織田信長ただ一人が残された。

 誰も呼ばなかった。小姓に茶を命じることも、近習に火桶の炭を足させることもしなかった。

 広間の隅に置かれた行灯の火が、静かに、そして芯の先で冷たく揺れている。冬の夜風が固く閉ざされた障子のわずかな隙間から音もなく忍び込み、何もない広い空間の空気をじわりと冷やし続けていた。長良川から吹き上がる湿気を帯びた美濃の冬風は、肌を刺すような鋭さを持っているが、今の信長はその冷気すら心地よいものとして受け入れていた。


 信長は、文机の上に残された一益の報告書を再びゆっくりと開いた。

 そこには、合戦の絵図面も、敵将の首級の数も、寝返りを約束した国人衆の起請文も存在しない。ただひたすらに、無機質で冷え切った数字だけが、墨黒々と、整然と並べられている。

 宿場の利用者数。関所の通過量。市場における米と塩の物価推移。武田手形が商人の間で流通している範囲。そして、純度を極めた武田金が東海一帯にどれほど浸透しているかという状況。一益という、織田家中でも類まれなる諜報と実務の才を持つ男が、己の足と目で集め、丁寧に裏付けを取り、書き記した東海道の紛れもない現実であった。


 信長はそれを、最初からもう一度読み直した。

 急がない。戦場で敵の陣形を見極める時のように一瞥で大局を掴むのではなく、一行一行、一文字一文字に込められた裏の真実を絞り出すように、ゆっくりと目で追っていく。

 宿場の利用者が、戦の前よりも明らかに増えている。

 荷駄の通過量が、莫大な規模で増加している。

 市場の物価が、戦乱の直後であるにもかかわらず、不気味なほどに安定している。

 武田手形の流通が、遠江から三河、さらには上方へと向けて着実に広がっている。

 夜盗や野伏の被害が、皆無と言ってよいほどに激減している。


 ただ、それだけのことだ。

 だがその「それだけのこと」が、実務に長けた一益にはどうしても理解できなかったのだ。なぜこれほどまでに国力が膨張しているのか。武田が、城を落とすこと以外に一体何をしているのか。その理由が分からないと、一益は床に額を擦りつけて言った。


 信長は報告書からゆっくりと目を上げ、高い格天井を見つめた。

 理由が分からない。一益は極めて有能で、かつ正直な男だ。正直であり、これまでの武家社会の常識という枠組みの中に完全に収まっているからこそ、この数字の羅列が意味する本当の恐ろしさが分からないと言ったのだ。

 だが信長には、この数字が何を意味するのかだけは分かっていた。


 信長は再び報告書へ視線を戻した。

 冷たい数字の奥に隠された、武田四郎勝頼という男の冷酷なまでの思考の軌跡を、逆算するように追っていく。

 宿場の利用者が増えている。それは何故か。荷駄が絶え間なく通過しているからだ。では、何故これほどまでに荷駄が増えているのか。街道が完璧に整備され、雨が降ろうとも泥濘に沈むことなく、大量の物資を迅速に運べるからだ。

 街道をそれほどまでに整備したのは誰か。武田だ。


 市場の物価が、飢餓が予想される冬にあって安定している。それは何故か。荷がどこかで滞留することなく、常に安定して市場へ入り込み続けているからだ。荷が安定しているのは何故か。途中で関所役人に難癖をつけられたり、大名に理不尽に徴発されたりすることなく、流通が決して止まらないからだ。

 流通が止まらないのは何故か。武田の蔵が発行した手形という紙切れが、商人たちの間で絶対的な信用を持って機能しているからだ。紙切れが機能しているのは何故か。その紙切れを直轄の蔵へ持ち込めば、一寸の狂いもなく重さと純度が統一された武田金と、確実に交換されるという事実が広く知れ渡っているからだ。


 夜盗が減っている。それは何故か。街道に武田の常備兵が昼夜を問わず目を光らせて巡回し、法度を乱す者を即座に処断しているからだ。農繁期に村へ帰る土着の兵ではない。銭で雇われ、ただ軍律と法に従って生きるだけの、感情を持たぬ兵士たちが街道の安全を物理的に担保しているのだ。


 すべて、武田だ。

 すべてが、恐ろしいほどの整合性を持って繋がっている。

 信長は報告書の束を、冷たい文机の上に静かに置いた。

 己の指先で、紙の端をとんとんと軽く叩く。


 一つ一つの施策を取り出してみれば、それ自体は決して真新しい奇跡ではない。街道を整備して軍の移動を助けようとする大名は多くいる。宿場を保護する者もいる。商人同士の取引で割符や手形が使われることも知っている。良質な銭を集めようとした者も過去にはいた。

 だが、それらをすべて同時に、一つの巨大な意思の下で強行した者はいない。

 それらすべてが、絶対に噛み合って外れない歯車として、互いに補完し合うように設計した者は、かつて一人としていなかった。


 信長はそこで、思考の波をぴたりと止めた。

 設計。

 そうだ。これは戦場における機転や、その場凌ぎの善政などではない。あらかじめ完全に引かれた、一枚の巨大な設計図なのだ。

 思いつきの施策を積み上げているのではない。広大な白紙の上に、まず理想とする国家の骨格を描き出し、それに合わせて街道も、手形も、金貨も、宿場も、関所も、そして常備兵の配置も、すべてが同じ図面の上に一分の狂いもなく配置されているのだ。


 その緻密で血の通わぬ冷徹な図面を描いたのは、死した甲斐の虎ではない。その後継者たる、武田四郎勝頼だ。


 信長はゆっくりと立ち上がり、冷気の入り込む窓際へと歩を進めた。

 冬の夜。眼下には美濃の町並みが広がり、岐阜城下のささやかな灯が、遠く小さく点々と散らばっている。

 その遥か先、冷たい闇が続く東の方角。

 甲斐は、遠い。

 信長は、夜の闇を見据えるように目を細めた。

 勝頼が日ノ本の白地図に描いたであろう図面を、自らの頭の中で静かに辿ってみる。


 甲斐の深い山中から始まる太い動脈。それが信濃へ繋がり、駿河へ抜け、遠江の平野を横断し、三河へと達している。

 三河まで来た。設楽原という巨大な死地において徳川の軍事力を粉砕した。徳川が崩れた今、武田の理は三河へ深く浸透し始めている。


 その先は。尾張だ。

 信長の足元であるこの尾張国には、まだ武田の兵は一兵も足を踏み入れてはいない。城も一つとして落とされてはいない。境界線には織田の強固な防衛網が敷かれ、物理的な侵攻は完全に阻まれている。


 だが。

 尾張の商人たちは、今も商いのために東海道を使う。東海道は今、武田が定めた法によって守られ、武田が整備した宿場と街道の血脈で動いている。尾張の商人がその道を通って荷を動かせば、当然のように武田の宿場に銭が落ちる。強盗に遭う危険を避けるために武田手形を使い始めれば、甲斐の蔵に莫大な富と信用が音もなく積み上がっていく。

 城は、まだ信長のものである。

 だが、何かが動いている。

 人か。

 銭か。

 それとも、もっと別の何かか。

 信長には、その流れだけが見えていた。


 信長の指先が、冷えた木の窓枠を軽く叩いた。

 一度。二度。三度。

 道を握る。銭の巡りを握る。人の欲が流れる大河を握る。

 その先に、一体何があるというのだ。

 天下のすべての城か。

 それとも、城などという古びた石と木の塊など、最初からいらぬということか。


 信長はそこで、自らの凄まじい思考の回転を止めた。

 まだ見えない。

 道を握り、銭を支配したその先に、あの勝頼という怪物が最終的に何を見据えているのか。広大な版図の独占か。無限の富か。それとも、日ノ本の武士が誰も見たことのない、全く別の恐るべき何かか。

 勝頼が国境の向こうで何を作ろうとしているのか、その全ては見えぬ。

 だが少なくとも、従来の戦国大名が欲した領土や城ではない。

 あの男は、もっと大きな何かを動かそうとしている。だが、その巨大な器の中に注ぎ込もうとしている中身の正体が、信長の明晰な頭脳をもってしても、まだ見えないのだ。


 甲斐の山奥から始まった道が、今は遠江を貫き、三河も完全に抑え込んだ。

 その先がどこへ伸びるのか。

 まだ見えない。

 勝頼の兵は来ない。勇ましい鬨の声も、赤備えの突撃もない。

 代わりに、紙切れに書かれた手形が来る。純度を極めた銭が来る。安全という名の圧倒的な利便性を持った道が来る。

 静かに。

 誰にも武田の侵略だと気づかれないうちに。

 尾張か。

 畿内か。

 それとも、そのさらに先の果てか。


 信長は窓の外の冷たい風を全身に浴びたまま、ただじっと東の果ての暗闇を眺めていた。

 あの闇の向こう側で、四郎勝頼は冷え切った執務室にただ一人座り、巨大な地図の前に端座しているのだろうか。そして、己の引いた道がまだ足りぬと、静かな声で呟きながら、朱の細線をさらに西へ、西へと無慈悲に伸ばしているのかもしれぬ。

 その線の行き着く先が、一体どこへ向かって、日ノ本の歴史をどう飲み込もうとしているのか。


 信長は踵を返し、ゆっくりと文机の上に戻ると、一益が命懸けで持ち帰ったあの重い報告書を、音を立てずに静かに閉じた。

 長い間があった。

 冬の夜風が、広間の障子を静かに、不気味に鳴らした。


「……あやつ、国を攻めてはおらぬ」


 誰もいない広間に、信長の低く乾いた声だけがポツリと落ちた。

 再び、深い沈黙が降りる。


「天下そのものを攻めておる」


 信長の口から漏れたのは、それだけだった。

 武田信玄というかつての甲斐の虎は、己の武威を誇り、近隣の敵を打ち破っては自らの領土を広げた。武田信玄は恐るべき男であった。だが、その恐ろしさは戦国武将としてのものだった。


 その血を引く四郎勝頼は違う。

 あの男は、領土の境界線など見てはいない。何か別の、遥か高みからしか見えぬ途方もないものを見ている。

 道の先に。

 銭の先に。

 法の先に。


 その男が最終的に何を見ているのかだけは、天下布武を掲げて古い権威を破壊し続けてきたこの魔王、織田信長にさえも、まだはっきりとは見えなかった。

 だからこそ。


 信長は笑った。

 敵が見えぬ。

 だから面白い。

 東の闇の向こうで、武田四郎勝頼という男が何を作ろうとしているのか。

 それを確かめるまでは、まだ終われぬ。

 行灯の火は静かに燃え続けていた。

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