第百十四話:流転無声
第百十四話:流転無声
冬の小田原に、冷たい雨が降り続いていた。
相模湾から吹き込む湿った海風が城下を重く包み込み、小田原城の高くそびえる石垣を黒々と濡らしている。遠く連なる箱根の山際は、灰色の雨霞に沈んで全く見えない。
北条氏政は、城の奥深く、人払いをした執務の一室で無言のまま文机に向かっていた。
手元には、甲斐へ嫁いだ妹から密かに届けられた一通の文がある。
氏政は、すでに何度も目を通したその文面を、もう一度、一文字一文字確かめるようにゆっくりと読んだ。
読み終えて、氏政は小さく、しかし深い息を吐き出した。
いかにも、あの妹らしい文であった。
武田へ嫁ぎ、勝頼の正室となっても、その気性は少しも変わっていない。北条の姫としての矜持を保ち、北条の当主である兄に向けて冷静に事実を書き連ねている。だが、その無機質な文面の端々に、夫である勝頼に対する、理屈を超えた揺るぎない信頼が色濃く滲み出ていた。
情に流されすぎだ、と氏政は思う。いや、違う。あれは単なる女の情ではないのかもしれない。妹は幼い頃から、人を見る目だけは恐ろしく確かな女であった。その彼女が、ただ盲目的に夫に惚れ込んでいるとは思えなかった。
氏政は、文の結び近くにある一節に、再び目を止めた。
『関東を欲する者が、本当に最初に気にすることなのでございましょうか』
奇妙な問いだった。
戦国の世において、他国を欲する者が最初に気にするもの。そんなものの答えは、問うまでもなく明らかだ。
城の堅さだ。兵の数だ。そして、手に入れるべき版図の広さだ。それが戦国大名としての、絶対的な道理である。
だが、その当然の答えを頭の中で組み立てた瞬間、氏政の思考の奥底で、何かが鋭く引っかかった。
氏政は文を丁寧に畳み、文机の端に置いた。
引っかかりの正体は、まだ分からない。
翌日。
雨は小降りになったものの、空は依然として重く沈んでいた。
筆頭家老である松田憲秀が、定時の報告のために静かに座敷へ入ってきた。
「御館様。武田手形の流通、先月よりさらに増加しておりまする」
「規制は出しておるな」
「はっ。各所に布告を出しております」
「関所の改めは」
「厳重に強化し、武田の証文を持つ商人には目を光らせております」
「……ならば、なぜ増える」
憲秀が答え難そうに口を開きかけた時、氏政は扇子でそれを制した。その眉は、微塵も動いていなかった。
手形の流通が増えること自体は、もはや不思議ではない。物理的な力で止められないことも、氏政はとうに分かっていた。天下という大地の傾きそのものを強引に変えようとしている男に、こちらが必死に泥まみれになって水路を掘ったところで、その奔流には届かない。それは先月の時点で、すでに嫌というほど思い知らされていた。
氏政が真に知りたいのは、そこではなかった。
「憲秀。あの武田四郎勝頼は、一体何のためにこれをしている」
憲秀が、戸惑ったように顔を上げる。
「それは……北条の経済を内側から縛り、いずれ我らの版図を容易く奪い取るためではないのでしょうか」
「ええ、我も最初はそのためかと思った」
氏政は低く言う。
「だが、それだけか」
憲秀は黙った。
「手形を広めても、すぐに城は増えぬ。道を整えても、すぐに領地は広がらぬ。商人を動かして銭を吸い上げるにしても、兵を増やす目的であるならば、あまりにも回りくどすぎる」
氏政は言葉を継いだ。
「版図を奪い取るための手立てにしては、やり方がひどく遠回りすぎるのだ」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
「では、純粋に富を集めるためではございませぬか」
憲秀が慎重に言った。
「それもあるだろう。だが、それでも説明が足りぬ」
「……長引く戦に向けた、兵站の強化のためでは」
「それも分かる。だが、それでも届かぬのだ」
氏政は立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩み寄った。
窓の下には、小田原の広大な城下町が見える。
冷たい雨の中、それでも荷駄が絶え間なく動いていた。濡れながら急ぎ足で歩く商人の姿がある。軒先で雨宿りをしながら、せわしなく帳面を繰っている男がいる。誰も立ち止まってはいない。誰もが、より大きな利を求めて必死に生きている。
「敵の城を取りたいなら分かる」
氏政は、眼下の景色を見つめたまま低く言った。
「天下を欲しいなら分かる。兵を集め、敵の城を落とし、逆らう者を滅ぼす。それが戦国の道理だ。我も、偉大なりし父上も、祖父上も、そうしてこの関東に巨大な国を作ってきたのだ」
憲秀は背後で黙って聞いている。
「だがあの男のやり方は、我らとは根本的に違う。敵の城を落とすより先に、自国の道を完璧に整える。兵を徴発するより先に、商人を動かして銭の巡りを支配する。設楽原という天下を揺るがす大戦で織田と徳川に大勝しても、決して浮かれず、勝利の余韻すらすぐに消し去った。まるで……戦に勝ったことよりも、もっと他に、何よりも重く気にかけるものがあるかのようだ」
「では、勝頼の真の目的は、一体何なのでございましょうか」
氏政は、答えられなかった。
「それが、分からぬのだ」
雨が、冷たい風に煽られて小田原城の石垣を鈍く打っている。
「勝頼のやっていることは、すべて理屈としては説明できる。街道の整備は兵站のため。手形は徴税と経済支配のため。商人の優遇は国に富を集めるため。どれも戦国大名としての策としては間違っていない。だが……」
氏政は窓から離れ、再び文机の前へと戻った。
「戦国の大名として説明できる部分は、すべて完璧に説明できる。だが、その完璧な説明が終わった後に、まだ何かが巨大な影として残る。その残ったものの正体が、我には全く見えないのだ」
憲秀は、深く、ゆっくりと頭を下げた。
「……恐れながら、某にも、全く見えておりませぬ」
夜になった。
冷たい雨は上がっていた。
氏政は一人、行灯の前に座していた。
手元には、再び妹からの文が広げられている。
氏政は、その文面の言葉を一つ一つ、己の思考とすり合わせるように目で追った。
『兄上は今、殿を武田信玄公の延長としてご覧になっておられるのではございませぬか』
氏政は少し考えた。
信玄入道がやったことは、氏政にもよく理解できた。軍を強くする。領地を際限なく広げる。逆らう敵を滅ぼす。それは、戦国を生き抜く大将として痛いほどに分かる道理だ。
だが、今の武田は違う。信玄の軍勢とは全く別の生き物になっている。
妹の言葉を読み返す。
『殿は、設楽原の後も、軍議より先に街道の話をなさいました。兵の数より先に、米の流れを尋ねられました』
そして、最後の一節。
『関東を欲する者が、本当に最初に気にすることなのでございましょうか』
関東を欲する者なら。
まずは城を見る。兵の強さを見る。敵の弱点を見る。
だがあの男は違う。あの男は、領土の境界線など見てはいない。
氏政はそこで、己の思考を意図的に止めた。
これ以上、その先へと想像を進めることを、長年戦国を生き抜いてきた当主としての本能が、激しくためらったのである。
勝頼という男が分からぬ。
だが、氏政を混乱させているのはそれだけではない。
妹が、なぜあえてここまで踏み込んだ言葉を兄である自分に送ってきたのかも、分からなかった。
妹は北条の姫としてこの文を書いた。それは文全体の構成と礼節から確かに伝わってきた。決して武田に洗脳され、甲斐の女に染まったわけではない。
だからこそ、余計に恐ろしいのだ。
誇り高き北条の姫として冷静に事態を書き連ねながら、なぜあの男をそこまで絶対的に信じているのか。あの男のどこに、一国の姫君の魂をそこまで深く縛り付ける力があるというのか。
行灯の火が、微かに揺れた。
氏政は、暗い部屋の中で長く黙っていた。
雨上がりの冷たい夜風が、遠く小田原の城下を吹き過ぎていく。
「……分からぬな」
そのひび割れた呟きだけが、静かな室内に重く落ちた。
行灯の火は、氏政の戸惑いなど意に介さぬように、ただ静かに、揺れることなく燃え続けていた。




