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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百十五話:経世済民

第百十五話:経世済民


 甲府の冬は、ひどく乾いている。


 相模や遠江に吹くような、海から来る湿り気を帯びた風とは全く質が違う。湿気のない刃物のような冷気が、険しい山々に遮られ、盆地の底へと澄み切ったまま重く溜まっていく。

 見上げれば雲一つない青空が広がっているが、それが逆に、肌を刺すような寒さを際立たせていた。木々の葉はすでに落ち、地面は凍てついた赤土が剥き出しになり、吐く息が白く凍る。こうした乾いた冷えは、人の内にある余計な感情を削ぎ落とすかのようだった。


 躑躅ヶ崎館の奥深く、政務局には、朝から人の出入りが絶えなかった。

 武田勝頼は上座に座し、次々と上がってくる報告を黙々と聞き続けていた。

 その顔に、感情の起伏はない。ただ、底冷えのするような静けさで聞いている。その視線は鋭く、しかし穏やかでもあった。まるで領内から集まるすべての数字を、己の血肉の一部として受け止めているかのように。


「駿河街道の補修、および宿場の整備、先月予定していた区画分が完全に終了いたしました。来月より遠江への延伸工事に入ります。人員は二千五百を予定しておりますが、天候次第で調整が必要かと存じまする」

「そうか」


「甲府の直轄蔵に納められた年貢米、今年の収納高は昨年比で一割二分増しにございます。目減りや損耗も、報告に上がりませぬ。品質も安定しており、春先までの備蓄として十分に機能する見込みです」

「そうか」


「武田手形の流通、東海道筋で大幅に増加しております。堺の会合衆からも、直接の取引と手形交換所の設置を求める正式な打診が届いております。京の商家からも問い合わせが来ておりまする」

「そうか」


「金貨の鋳造、今月分が完了しました。重量の誤差はほぼ消え、純度も前回よりさらに均一化されております。火工廠での精製過程の改良が功を奏しております」

「そうか」


 勝頼は淡々と聞いていた。

 返事は短い。だがその目は確実に、手元に置かれた分厚い帳簿の数字を追っている。領内のすべてを把握している。数字の不自然な増減や誤魔化しがあれば即座に冷酷な指摘が飛ぶ。それ以外はただ無言で聞き、朱筆を入れるだけだった。


 政務局の空気は、熱くも冷たくもなかった。ただ、仕事が粛々と処理されていく。算盤の音、筆の走る音、使番の足音だけが規則正しく響く。誰も無駄口を叩かない。誰も手を止めない。ここはそういう場所だった。

 外の大名たちから見れば、ただの内政の合議に過ぎないだろう。しかし、ここで動いている数字の規模は、かつての武田家では想像もできなかった途方もないものだった。蔵米の量、手形の流通高、街道の通行量、金貨の鋳造量。それらが複合的に絡み合い、巨大な一つの流れを形成しつつある。その流れの中心に、勝頼はただ静かに座していた。


 この部屋の若き文官たちは、自分たちがいま日ノ本の形を変えるほどの巨大なものを動かしていることに、まだ完全には理解が及んでいない。

 勝頼も、それを彼らに説明するつもりはなかった。

 数字が狂いなく動けばいい。道が滞りなく繋がればいい。それだけだった。


 一刻ほどが過ぎた頃。

 跡部右衛門尉勝資が帳面を繰る手を止め、少し間を置いた。

「……陣代様」

「何だ」

「今年の鋳造高と蔵米を合わせますと、相当な規模になります。このまま進めれば来年の春にはさらに加速するでしょう」

「そうだな」


 跡部は慎重に言葉を選んだ。

「これほどの金と米を集めて、何になさるのでございますか。もしや……織田との大規模な決戦を控えておられるのでしょうか」


 政務局が、一瞬だけ静まり返った。

 算盤の音が止まる。筆が止まる。皆が息を潜めた。

 彼らとて武士の端くれである。銭を集めるのは軍備のためであり、軍備を整えるのは敵の城を落とすためだ。それが乱世の常識である。だが勝頼のやり方は、戦の準備という枠を大きく超えている。その底知れぬ規模と、どこか違う匂いに、政務局の全員が薄々感じていた問いを、跡部が代表して口にした形だった。


 勝頼は跡部を見た。穏やかで、一切の迷いのない目だった。

「戦のためだ」

 即答だった。

 勝頼は続けた。

「兵を養う」

「はい」

「街道を守る」

「はい」

「蔵を満たす」

「はい」

「民を飢えさせぬ」

「……はい」

「飢えれば村が潰れる。村が潰れれば税が消える。税が消えれば兵が養えぬ。兵がなければ、法を守れぬ。負ければすべてが失われる」

「左様でございますな」

「だから民を飢えさせぬ。国という仕組みを自壊させぬために」

「御意にございます」


 勝頼は帳面へ目を戻した。

「……飢えねば、無用な戦は起きぬ」

 独り言のように低く付け加えた。

「腹が満ちておれば、人は理不尽に争わぬ。争わなければ、死なずに済む」


 跡部の筆が、ほんの一瞬だけ止まった。

 何かが引っかかった。武士としての本能が、主君の言葉の裏にある巨大な矛盾を感じ取ったのだ。だがその正体は掴めず、彼は小さく首を振って筆を動かし続けた。

 政務局は再び動き始める。誰も立ち止まらない。


 午後。

 勝頼は一人、奥の執務室へ戻った。

 窓の外には冬の甲斐の山々が白く鋭く聳えていた。冷たい陽光が稜線を照らし、深く長い影を落としている。室内は静かで、墨と炭火の匂いが微かに漂っていた。


 机の上には帳面が積まれている。

 勝頼はその中の一冊を取り、広げた。

 無数の数字が整然と並んでいる。蔵米の収納量。街道の通行量。武田手形の流通高。金貨の鋳造量。関所の通過件数。夜盗の被害報告。

 勝頼は一つ一つを目で追った。


 今年の収納は十分だ。飢える村は去年より確実に減る。街道が整えば冬でも物が動く。物が動けば炭が届く。炭が届けば人が凍えずに済む。凍えなければ春まで生き残れる。春まで生き残れれば、田を耕せる。田を耕せれば秋に米が取れる。

 米が取れれば税になる。税になれば兵が養える。兵が養えれば街道を守れる。街道を守れれば、安全に物が動く。


 すべてが循環の鎖で繋がっている。

 切れ目がなければ、国は永遠に動き続ける。ひとつの村が飢えで潰れるだけで、その連鎖は止まる。止まれば領内全体が弱り、やがて腐る。

 それだけのことだ。


 勝頼は帳面を閉じ、指先で表紙を軽く撫でた。

 そして机の隅に畳んであった紙を広げた。

 日ノ本の白地図だった。武田の版図が描かれている。整備された街道が、細い朱色の線で引かれている。


 勝頼は筆を取り、線を目で追った。

 甲府から北へ。信濃へ。山越えの難所が多いが、今年整備した区間は通行量が倍増している。

 甲府から南へ。駿河へ。海に繋がる要路だ。塩が来る。魚が来る。

 駿河から西へ。遠江へ。まだ細い線が続いている。


 線が伸びている。だが、まだ途切れている場所がある。

 遠江から三河へ抜ける区間が細い。宿場が少なく、夜盗の報告がまだ残っている。

 勝頼は地図の上に筆を走らせた。途切れた箇所に印を付ける。整備が必要な区間を書き込む。宿場を増やすべき場所に印を入れる。新たな関所の候補地も記した。


 敵の城の位置ではない。国境の境界線でもない。

 ただ、物が流れる道の線だけを無心に追っていた。


 ここが繋がれば米が届く。

 ここが通れば塩が来る。

 ここを整えれば炭が動く。

 ここの宿場が増えれば商人が安全に泊まれる。商人が泊まれれば荷が止まらない。荷が止まらなければ値が安定する。値が安定すれば民が買える。民が買えれば飢えない。飢えなければ、家族が生き延びる。


 線が増えるごとに、飢えが消える場所が増える。

 飢えが消えれば、血みどろの争いが減る。

 争いが減れば、無惨に死ぬ者の数が減る。


 勝頼はそれだけを、ひたすらに静かに計算していた。


 一度失った。

 全部失った。

 その記憶だけは、今も消えない。


 夜が来た。

 政務局の灯が落ち、躑躅ヶ崎館は深い静寂に包まれた。

 勝頼は一人、地図の前に座っていた。

 行灯の火が、紙の上に勝頼の大きな影を作っている。

 線を見ていた。


 甲府から信濃へ。

 信濃から駿河へ。

 駿河から遠江へ。

 その先へ。

 三河。

 尾張。

 近江。

 堺。


 線はまだ途切れている。繋がっていない。

 三河から尾張へ抜ける線が細い。近江はまだ遠い。堺へは、まだ直接の強い線が引けていない。

 堺まで完全に繋がれば、日ノ本の富の中心と武田が直に結ばれる。そこから先は、四方へ線を広げられる。北陸へ。山陰へ。九州へ。

 線が天下を完全に覆えば、物の流れが止まらなくなる。

 物が止まらなければ、飢えが消える。

 飢えが消えれば、争いが減る。

 それだけのことだ。


 ただ、線が足りない。

 まだ繋がっていない場所がある。

 繋がっていない場所では、今この瞬間にも誰かが飢えているかもしれない。凍えているかもしれない。絶望の中で子どもが泣いているかもしれない。


 勝頼は静かに筆を取った。


「……まだ足りぬな」

 その低く冷え切った呟きだけが、冬の夜の執務室に落ちた。

 行灯の火は揺れることなく、ただ地図を静かに照らし続けていた。

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