第百十三話:甲相同心
第百十三話:甲相同心
甲府の夜明けはひどく遅い。
四方を囲む高く険しい冬の山々が東の空を重く遮り、夜がなかなか明けきらぬまま、身を切るような冷気だけが盆地の底へと静かに深まっていく。
躑躅ヶ崎館の奥向きは、いまだ深い闇の中にあった。
ただ一室、北条夫人の与えられた座敷にのみ、ぽつりと行灯の明かりが灯っている。
夫人は、冷え切った畳の上に端座し、文机の前に静かに座っていた。
行灯の火が夜風に微かに揺れている。硯の墨はすでに丹念に磨り上げられ、かすかな香りを漂わせていた。細い筆も手の中にある。だが、白く真新しい鳥の子紙を前にして、彼女はいまだ一文字も書き出せずにいた。
書くべき事の筋道は、彼女の聡明な頭脳の中ですでに出来上がっている。
相模の小田原城にいる実の兄、北条氏政へ送るための極秘の文である。
設楽原において武田が織田と徳川の連合軍を完膚なきまでに打ち破り、天下の情勢が劇的に覆ってからというもの、兄からの書状には、隠しきれぬ焦燥と底知れぬ懸念が文の端々に色濃く滲み始めていた。
武田の直轄蔵が発行する手形のこと。国境を越えて整備される街道のこと。そして、相模や武蔵の領内を我が物顔で席巻しつつある純度の高い武田金と、それに群がる商人たちの流れのこと。
兄は書状の中で、陣代である勝頼の真意を直接には問うてこない。あくまで同盟国としての儀礼的な言祝ぎを装ってはいる。だが、幼き頃より兄の背中を見て育った夫人には、痛いほどに分かっていた。
関東八州の覇者たる兄は今、武田という国そのものが放つ、得体の知れぬ変貌を心の底から恐れているのだ。
恐れること自体は、一国を預かる大将として極めて正しい。
だが、兄が何を恐れているのか、その本質が少しばかりずれていることを、夫人は誰よりも正確に見抜いていた。
夫人は手にした筆を一度静かに置き、両手を冷えた膝の上でそっと重ねた。
北条の姫として書き送る。それは最初から決まっていた。
相模の海風を受けて育ち、北条の血を誇りとする女として、実家が武田という巨大な波に無惨に飲み込まれるのを見過ごすことはできない。だが同時に、彼女は今や武田四郎勝頼という、過去と未来の重い業を独りで背負い、孤独な覇道を歩む男の唯一の理解者でもあった。
だからこそ、この文は単なる妹からの安否伺いであってはならない。そして、武田の力を誇示して兄を脅すようなものであってもならない。
どこから書き始め、いかにして兄の固く閉ざされた警戒心を解きほぐし、正しき道へと誘導するか。彼女は冷たい暗闇の中で、その最初の一筆を探していたのである。
外の木立で、夜明けの近さを告げる鳥が短く鳴いた。
夫人は静かに息を吸い込み、再び筆を取ると、迷いのない手つきでさらさらと墨を走らせ始めた。
文はまず、小田原の海風の冷たさを思いやり、当主として激務に追われる兄の身体を気遣う言葉から始めた。
戦国の世の倣いとはいえ、これは北条の姫が、北条の当主へ宛てて送る大切な文である。格式ある武家としての礼節をいささかも欠かすわけにはいかない。
次いで、甲府の近況を短く記した。
館は至極静かであること。冬の寒さは相模より厳しいが、陣代様の細やかな配慮により何一つ不自由なく暮らしていること。陣代様は相変わらず夜を日に継いで執務に追われておられること。
そこまで流れるように書いて、夫人は一度筆を止めた。
ここからが本題である。
彼女は行灯の火を見つめ、脳裏に兄の老獪な顔と、夫の冷徹で孤独な横顔を同時に思い浮かべた。
『兄上は今、武田の動きを深く恐れておられることと存じます』
夫人は、あえて真っ直ぐな言葉で斬り込んだ。
『それは決して間違っておりませぬ。実際に、殿が押し進めておられる手形と街道の新たな掟は、関東の商いの流れを確実に、そして激しく変えつつあります。重さも純度も揃えられた武田の金貨はすでに相模の奥深くにまで入り込み、武田の手形を持たぬ問屋が次々と商流から弾き出されていると、こちらの政務局にも報告が上がっております』
外から見れば、それは武田による静かで暴力的な侵食にしか映らないだろう。
武力で城を落とすのではなく、銭と紙切れで他国の領民の首を真綿で絞め上げるような、おぞましいやり口。
『私にも、その恐ろしさは痛いほどによく見えます。ですが兄上。妹として、一つだけお伝えしておきたいことがございます』
夫人の筆先が、白紙の上に黒々とした真実を紡ぎ出していく。
『兄上は今、殿のことを、亡き武田信玄公の武威をそのまま受け継ぎ、さらに広げようとする野心に満ちた若武者としてご覧になっておられるのではございませぬか』
それは無理からぬことであった。勝頼は信玄の息子であり、武田の誇る風林火山の旗を掲げて過酷な戦を繰り広げ、設楽原では織田と徳川の連合軍を完膚なきまでに打ち破った。外の大名たちの目から見れば、偉大なる信玄公ですら成し得なかった上洛や関東への覇を求めて着々と準備を進める、血気盛んで恐ろしい後継者にしか見えないはずだ。
『ですが兄上。私がこの館の奥底で、最も近くで殿のお姿を見てきた真実を、少しだけお伝えいたします』
夫人は、あの夜、勝頼が自らの胸にすがりついて流した慟哭の涙と、一度目の生で失ったすべてを取り戻そうとする凄絶な覚悟を思い起こしていた。
『殿は、設楽原での歴史的な大勝の直後であっても、軍議より先に街道の整備と商人たちの動きを問いただしておられました。敵の首級の数よりも、蔵に入る米の流れと銭の巡りを第一に尋ねられました』
戦国武将であれば、大勝の後は必ず恩賞を与え、新たな領地を切り取りにかかるものである。だが、勝頼は違った。
『勝ち取った城の数よりも、名もなき商人や農民が安心して往来できるかを何よりも気にかけておられます。夜が明けぬうちから冷え切った執務室にただ一人灯をともし、山のような帳面を繰っておられます。その帳面には、他国を攻めるための合戦の絵図面などは一枚もなく、ただ領内の石高と物成、そして街道の通行量と相場の数字だけがびっしりと書き並べられております』
夫人は筆先に少しだけ力を込めた。
『私は武家の女として育てられましたが、政や軍略の深いところまでは存じませぬ。されど兄上。自らの領土を無闇に広げ、関東や天下の覇権を純粋に欲する武将が、本当に一番最初に気にすることなのでございましょうか』
そこまで書いて、夫人は手を止めた。
違う。そうではない。
兄に「勝頼には領土的な野心がないから安心せよ」と教え諭したいのではない。そんな甘い言葉を書き連ねたところで、関東の泥沼の戦を生き抜いてきた老獪な当主である兄が、素直に信じるはずがないのだ。
兄に見てほしいのだ。自分が一番近くで見た、勝頼という男の冷徹な理の裏側にある、誰も死なせたくないという悲壮な祈りの形を。
兄は賢い。関東の覇者として、自家の生存のためならばいかなる手段も選ばぬ現実を見る目を持っている。
ならば、同情を引くのではなく、北条にとっての最大の利を提示しなければならない。
夫人は墨を継ぎ足し、さらに鋭い筆致で書き進めた。
『殿の敷く理は、敵を武力で滅ぼすためのものではございませぬ。戦そのものを無意味なものにし、日ノ本から一切の争いを消し去るための大きな仕組み作りに他なりません。武田の銭と手形が相模を席巻しているのは、北条を乗っ取るためではなく、北条を武田の絶対に裏切らぬ強固な防壁として固定するためなのです』
だからこそ、抗うなと。
『兄上はこの武田の経済の奔流に抗おうとなさるかもしれませぬ。ですが、抗えば抗うほど、相模の国は内側から干上がりましょう。逆に、兄上がこの武田の圧倒的な富の流れをうまく利用し、相模の隅々にまで行き渡らせることができたならば。……北条の長年の宿敵である佐竹や里見といった関東の諸将を、一滴の血も流さずに、銭と兵糧の力だけで容易く跪かせることができるのではないでしょうか』
武田の経済侵攻を脅威と捉えるのではなく、関東平定のための強力な武器として逆利用せよ。
それこそが、勝頼の理を誰よりも理解し、同時に北条の血を引く彼女だからこそ導き出せる、双方にとって最も利益のある究極の妥協点であった。
夫人は静かに筆を置き、最後の結びの言葉へ向かった。
『兄上はこの拙い文をお読みになっても、なお武田への警戒を解かれますまい。それで良いのでございます。兄上には兄上のお立場がございます。北条という巨大な国を背負う当主として、他国の動きを警戒し続けることは、当然のお務めでございます』
ただ願わくば。
『甲斐の武田と相模の北条が、互いに無用な血を流し、刃を向けずに済む未来が訪れますように。私は北条の姫としてこの世に生を受け、今は武田の妻として、殿の御背中を支えて生きております。だからこそ、この手紙をしたためました』
最後に小さく署名を記し、夫人は筆を置いた。
文を丁寧に折りたたみ、誰にも中身を読まれぬよう厳重に封印を施す。
顔を上げると、障子の向こう側の空が白々と明け始め、東の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。
ふと視線を転じると、遠く離れた政務局の執務室の窓に、まだ消されずに灯っている明かりが見えた。
兄はきっと、この手紙を読んでもなお、疑り深い目を細め、武田の動きに細心の注意を払うだろう。
それで良い。兄には守るべき北条の国があり、背負うべき家臣たちの命がある。
だが、この手紙が兄の心の奥底に小さな一石を投じ、武田との無益な争いを避けるための算段を始めさせるきっかけになれば、それで十分であった。
夫人は、冷たい朝の空気に包まれながら、遠く灯る執務室の明かりをじっと見つめ続けた。
あの光の下で、あの人もまた、たった一人で巨大な日ノ本の地図と帳簿に向き合い、誰も死なせないための過酷な計算を絶え間なく続けている。
天下を冷徹な法で縛ろうとする顔の裏に、どれほど不器用で、そして悲壮なまでの祈りが隠されているか。それを知っているのは、この世で自分ただ一人だけだ。
その事実が、夫人の胸に静かな、しかし決して揺るがぬ誇りを抱かせていた。
夫人は書き終えた文をそっと胸元に抱え、冷え切った畳の上から静かに立ち上がった。




