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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百十二話:孤心看破

第百十二話:孤心看破


 甲府の冬は、気味が悪いほどに静かだった。


 風は冷たい。

 だが、相模や小田原のような海から吹き付ける湿りを帯びてはいない。空は高く澄み切り、遠く連なる甲斐の山々の稜線が、白くくっきりと霞んで見えた。

 北条夫人は、躑躅ヶ崎館の奥まった縁側に腰を下ろし、手元の文箱から顔を上げて庭へ視線を向けていた。

 庭師が雪吊りの縄を黙々と見直している。その奥では、女房たちや下働きの者たちが忙しなく行き交っていた。


 それは、どこにでもある領主の屋敷の平和な光景だった。

 少なくとも、外の者から見ればそう映るだろう。

 だが、夫人は知っている。この静けさの分厚い皮のすぐ裏側で、今の武田という国が、かつてない恐るべき速度で動いていることを。


 設楽原での大勝。

 織田信長の革新の粉砕。

 東海道の掌握。

 純度を統一した武田金の流通。

 武田手形による商いの囲い込み。

 物流改革と、街道の普請。


 それら一つ一つが、バラバラの出来事ではない。すべてが一本の太い流れで繋がっていた。そしてその中心で、一切の感情を排してすべてを動かしているのが、自分の夫である武田勝頼だった。


 ふと、静かな足音がした。

 見れば、勝頼が一人でこちらへ歩いてくるところであった。

 家臣も供も連れていない。だが、それはこの奥向きにおいては珍しいことではなかった。大広間や政務局では、人を寄せ付けぬ絶対者の覇気を纏っている勝頼ではあるのだが、館の奥深くでは、驚くほど身軽に、音もなく一人で歩いているのであった。


 勝頼は夫人の隣まで来ると、何も言わずに腰を下ろした。

 そして、しばらく、二人とも黙ったまま過ごしているのであった。冬の冷たい風だけが、庭の木々を静かに揺らしている。


「……兄上から、内々の文が参りました」

 やがて、夫人が手元の文箱に視線を落として言った。

 勝頼は冬の空を見上げたまま、

「そうか」

とだけ短く答えた。

「殿が押し進めておられる手形や銭の理を、随分と警戒しておられるようです」

「そうであろうな」

 その声音に、微塵の動揺もない。相手がそう出るのは当然だと、最初から分かり切っている声だった。


 夫人は少しだけ、苦笑するように笑った。

「驚かれませぬのですね」

「氏政殿が賢いからだ」

 勝頼は即座に答えた。

「賢い者ほど、真っ先に気付くものだ」

「何に、でございますか」

「我が武田が、この日ノ本で何をしているかに」


 そこで言葉が途切れる。勝頼はそれ以上、語ろうとはしなかった。

 だが、夫人にははっきりと分かっていた。

 兄である北条氏政は今、武田を心の底から恐れている。武田の精強な軍勢を恐れているのではない。武田の銭を。武田の引いた道を。武田が作り出そうとしている巨大な流れそのものを、恐れているのだ。

 当然だった。実際、勝頼は北条を武力ではなく、経済圏という見えない鎖で完全に自国へ組み込もうとしている。それは紛れもない事実だ。


 だが。

 夫人には、ただ一つだけ納得できないことがあった。

 兄である氏政も。北条の筆頭家老である松田憲秀も。そしておそらく、勝頼の最も近くでその謀略を執行している真田昌幸ですら。

 誰もが皆、この男の本当の姿を、どこかで見誤っている。

 そう感じていた。


「兄上は」

 夫人が静かに口を開く。

「殿が、いずれ関東をすべて呑み込もうとしていると思っております」

 勝頼は少しだけ、自嘲するように笑った。

「そう見えるか」

「見えます」

 夫人は即答した。

「実際に、そのように動きつつあります」


 武田の手形は関東へ流れ始めた。武田金も市場へ浸透した。商人たちの間では武田筋という言葉まで生まれている。外の大名から見れば、それはどう見ても容赦のない領土の侵食であった。

 勝頼は少しの間、黙った。

「では」

 夫人は、恐れずに言葉を続けた。

「殿は本当に、関東を呑み込みたいのでございますか」


 勝頼はすぐには答えなかった。

 庭の枯山水を見ている。どこか遠く、この日ノ本ではない遥か彼方の景色を見ているようにも見えた。  やがて。

「呑み込んで、どうするのだ」

 と、低く呟いた。

 夫人は返事をしない。


「相模を取る」

「武蔵を取る」

「上野を取る」

 勝頼は淡々と言う。

「その先に何がある」

 声に野心の熱はない。ただ、冷厳な事実を並べているだけだった。

「城か」

「土地か」

「民か」

 勝頼は少しだけ目を伏せた。

「それで戦が終わるなら、誰も苦労はせぬ」


 夫人はそこで、確信した。

 この人は、最初から見ている場所が兄とは全く違うのだ。

 領土の広さを見ていない。国境線の形を見ていない。天下人という虚名を欲しているわけでもない。

 もっと別のものを見ている。


「兄上は」

 夫人が静かに言った。

「殿が、戦で天下を変えようとしていると思っております」

「変えるつもりではいる」

「ですが、それも少し違うのでしょう」


 勝頼が、ここに来て、はじめてこちらを見た。

 その顔は、他人に己の底を覗き込まれたことに、珍しく驚いた顔だった。

 夫人は少しだけ、微笑んだ。

「私は、殿のように難しい政や算術が分かるほど賢くはありませぬ」

「そんなことはない」

「ですが」

 夫人は首をゆっくりと横に振った。

「殿が本当に何をなさりたいのかは、私には分かります」


 勝頼は何も言わない。夫人は、その深く昏い瞳を真っ直ぐに見つめて続けた。

「殿は、戦をなくしたいのでしょう」


 冬の風が吹いた。

 庭の雪吊りの縄が、微かに揺れた。

 勝頼は答えなかった。だが、否定もしなかった。


「設楽原で、織田家と徳川家を完膚なきまでに叩き潰さねばならなかった」

 夫人は静かに言う。

「武力で天下を押し潰そうとする者たちを、一度あそこで止めねばならなかったのでしょう」

「……」

「ですが、殿は本当は、戦そのものがお好きではない。むしろ、心の底から忌み嫌っておられる」


 勝頼の目が僅かに細くなる。

 夫人は知っていた。この人は戦を少しも恐れない。だが戦を好んでもいない。むしろ激しく憎んでいる。

 人が無駄に死ぬからだ。民が理由もなく飢えるからだ。大切なものが、己の手から理不尽にこぼれ落ちるからだ。

 勝頼が常に執務室で睨んでいるのは、合戦の絵図面ではない。

 石高。年貢。物流。相場。

 それらは全て、民の暮らしそのものだった。


 だから。

「殿は、戦で勝ちたいのではない」

 夫人は言い切った。

「戦う前に、戦そのものを終わらせる仕組みを作りたいのでしょう。誰も血を流さずに済むように」


 勝頼は長く黙っていた。

 そして。

「……昌幸にも、そこまでは言われたことがないな」  と、小さく、自嘲するように笑った。

 夫人も笑った。

「昌幸殿は、殿が敷かれる『理』の美しさを見ておられます。本当に」

「そなたは、そなたは何を見ているのか」

「私は、殿を見ております」


 それだけだった。

 勝頼は何も言わない。だがその沈黙は、彼が普段纏っていたような人を遠ざける氷の壁ではなく、不思議なほど温かく穏やかなものであった。


 夫人は知っている。

 この人は、いつも孤独だった。

 信玄という巨大すぎる父の存在。比較され続ける人生。

 そして何より、誰にも言えぬ、一度目の生で愛する者たちをすべて死なせてしまったという血を吐くような悔恨と、その後、大陸で得た、国を統べるという高い視点から政を行う帝王学。

 家臣たちは忠実だ。昌幸は恐ろしいほど優秀だ。  だが誰も、勝頼そのものを見てはいない。見る必要がないのだ。

 いろいろな見方はある。偉大なる武田の後継として見ている。無慈悲な陣代として見ている。冷徹な絶対者として見ている。

 だが。

 たった一人の、傷つき、すべてを守ろうと必死にもがいている男としての勝頼を見ている者は、ほとんどいないのだ。


「兄上も、いずれ必ず分かります」

 夫人は言った。

「何がだ」

「殿が、北条を滅ぼそうとしているのではないということを」

 勝頼は少しだけ苦笑した。

「そう思うか」

「思います」

 夫人は深く頷く。

「殿は、北条が二度と武田と争えなくなるほどに、商いで豊かにしてしまいたいのでしょう。腹が満たされれば、人は戦をいたしませぬゆえ」


 勝頼が、小さく吹き出した。

 本当に珍しい姿を夫人は見たのだった。心から可笑しかったらしい。

「それでは、武士の支配にならぬぞ」

「だからでございます」

 夫人は穏やかに笑う。


 天下を欲する支配者なら、そうは考えない。武力で奪い取る魔王なら、そうはしない。

 だが勝頼は違う。

 だから夫人は、この人を少しも恐れなかった。


 やがて日が傾き始めた。

 甲斐の山々が、冬の夕暮れに赤く染まっていく。  勝頼は静かに立ち上がった。

「戻るか」

「はい」


 二人は並んで歩き出す。

 館の奥へ。これから生まれる、誰も見たことのない未来へ。

 まだ誰も知らない。この男の名が、日ノ本の歴史にどう記されるのかを。

 だが少なくとも。

 今この時だけは。

 天下が恐れ始めた絶対者としての武田勝頼ではなく。

 一人の孤独な男としての勝頼の深淵を理解し、寄り添う者がいた。

 それだけで、勝頼が背負うこの人生における重圧は、ほんの少しだけ軽くなっていたのである。

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