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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百八話:旧世終焉

第百八話:旧世終焉


 美濃国、岐阜城。

 設楽原での凄惨な敗戦以来、城内には重く淀んだ氷のような静けさが居座り続けていた。

 表向きは慌ただしい。泥にまみれた敗残兵が続々と帰還し、早馬が夜通し行き交い、蔵からは兵糧や武具がひっきりなしに運び出され、奉行衆は行灯の灯りを絶やさず疲労に顔を歪めながら帳面を繰っている。武田軍が怒涛の勢いで三河へ入り、家康を失った徳川が降伏したという恐るべき知らせは、尾張や美濃の商人たちを恐慌と混乱に陥らせるには十分すぎるほどの劇薬であった。

 だが、それでも岐阜城の中心部だけは、息が詰まるほどに妙に静まり返っていた。


 理由はただ一つ。

 織田信長が、設楽原から戻って以来、一度も声を荒げて怒鳴っていないことだった。

 評定の間には、死を待つような重苦しい空気が沈んでいた。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、佐久間信盛。居並ぶ織田の重臣たちは皆、畳へと落とした視線を容易には上げられずにいた。

 上座の信長は、ただ黙っていた。

 肘掛けに無造作に頬杖をつき、片膝を立てたまま、まるで退屈な能の演目でも眺めるかのような冷め切った顔で、次々と届く武田の陣立ての報告書を読んでいる。その沈黙が、広間の空気をじわじわと凍てつかせ、諸将の胸を容赦なく締めつけていた。


「……以上にございます」

 報告役の武将の声が、かすれて止んだ。

 誰も口を開こうとはしない。いや、恐ろしくて開けなかった。

 設楽原での歴史的な大敗。織田と徳川の連合軍の完全な崩壊。同盟者である徳川家康の討死。そして、若き徳川信康の武田への降伏。三河と遠江という東海の巨大な防波堤の事実上の喪失。織田家にとっても、紛れもない痛恨にして致命的な大敗北であった。

 だが、信長は怒らない。無能と怒鳴り散らさない。物を投げつけて荒れ狂いもしない。そのことが、かえって諸将の背筋を凍らせ、怯えさせていた。


 やがて、耐えきれなくなった柴田勝家が沈黙を破った。

「……上様。されど、武田も所詮は甲斐の山猿にございまする。一時は大勝の勢いを得ましょうが、三河や遠江という異国の地を無理に呑み込んだところで、いずれ必ず内から軋みが生じます。徳川の遺臣どもも、今は大人しくしておりますが、骨の髄まで武田に従うはずがございませぬ。いずれ必ず火の手が上がりましょう」

 勝家らしい、力任せの言葉だった。戦とは力で敵を押さえつけ、血の恐怖で屈服させるもの。勝者と敗者は必ず深く憎み合い、いずれどちらかが反乱を起こす。それが長年この乱世を生き抜いてきた彼らの常識だった。


「……それにしては、静かすぎますな」

 ぽつりと、静かに丹羽長秀が言った。

 勝家が苛立たしげに眉を動かす。長秀は手元の文書へ目を落としたまま、沈痛な面持ちで続けた。

「岡崎城の開城後、武田の兵による略奪の報告はただの一件もございませぬ。一揆の兆しもなし。寺社の焼き討ちもなし。街道の封鎖もございません。武田の軍勢は恐ろしいほど規律を保ったまま、すでに旧徳川領の兵糧蔵と商いの流通路を完全に掌握しておりまする」

「だから何だと言うのだ。時が経てばボロが出るわ」

「戦後処理の速度が、あまりにも異常なのです」


 広間が水を打ったように静まり返った。

 長秀は武辺一辺倒の男ではない。兵站、普請、金勘定、軍政。織田家中でも特に「国を回す」ことに長けた筆頭の実務家である。だからこそ、武田の動きの異様さが骨身に沁みて恐ろしかったのだ。

「武田勝頼は……最初から、この三河と遠江の戦後統治までをすべて計算し、兵站と法度を準備した上で戦場に臨んでいたように見えます」


 滝川一益が深く腕を組んだ。

「市場の掌握も、恐ろしい速度で進んでおります。堺や上方の商人衆がすでに動き始め、甲州の金貨と武田の通行手形を用いた商いが、またたく間に広がっているとか。銭勘定という根幹にまで一気に手を入れている」

 一益の顔が険しく歪む。

「我らが大敗を喫し、まだ傷も癒えぬ直後とは思えませぬ。まるで、あらかじめ図面が引かれていた巨大な領国の普請工事を、ただ淡々と進めているようだ」


 そこまで聞いて、末席に控えていた羽柴秀吉が、震える声でゆっくりと口を開いた。

「……何より恐ろしいのは、百姓が、逃げておりませぬ」

 何人かが弾かれたように顔を上げた。

 秀吉は畳へ目を落としたまま、血を吐くような声で続ける。

「村が焼かれぬ。年貢が据え置かれる。街道の安全が守られる。市場が止まらぬ。そして、良質な銭が流れてくる。……それでは、百姓は決して逃げませぬ」

 誰も言葉を返せなかった。

 戦国の民は、何よりも戦を恐れる。支配者が変わり、戦火が及べば、村を捨てて山へ逃げ込み、最悪の場合は武器を取って一揆を起こす。それがこれまでの乱世の常だった。だが武田は違う。民が逃げ出す理由そのものを、最初から法と経済の力で完全に消し去っているのだ。


 秀吉はその異様さを、野の民であった己の本能で深く感じ取っていた。

「これでは……民が、いや、国そのものが武田を拒みませぬ」

 広間の空気がさらに重く、暗く沈んだ。

 前田利家が苦々しげに唸る。

「だが武士はどうする。代々徳川へ忠義を立ててきた三河武士どもが、そう簡単に新しい主に首を垂れるはずがなかろう」


「だからこそ、武田は徳川を残しております」

 氷のように冷たく静かに言ったのは、明智光秀だった。

「……何」

「武田は家康公を討ち取りましたが、徳川という家そのものは滅ぼしておりませぬ。嫡男である信康殿を残し、旧臣もそのまま使っております。古い支配の構造を表面上は壊さず、その上から武田の理の網をそっと被せて、内側から完全に呑み込んでいるのです」


 細川藤孝が小さく息を呑んだ。

 光秀の目は、どこまでも冷え切っていた。

「敵を殺し尽くして消しておらぬ。武士の役割を戦から統治の機能へと変え、自らの強大な仕組みの中へ組み込んでいる」

 誰も口を挟めなかった。

 それは、彼らが信じてきた戦国の理からあまりにも大きく外れていた。勝ったなら領地を奪い、逆らう者は一族ごと斬り捨て、恐怖で完全に黙らせる。それが乱世の常道だった。だが武田勝頼は違う。国そのものを巨大で精緻な仕組みとして捉え、誇り高き武士すらも、その仕組みを動かすためのただの部品として扱っているのだ。


「……これは」

 光秀はゆっくりと言葉を絞り出した。

「もはや我らの知る戦ではございませぬ」


 広間が完全に凍りついた。

 信長はまだ何も言わない。ただ静かに、諸将の恐怖を聞いている。

 勝家が耐えきれずに低く唸った。

「では何だと言うのだ。戦でなければ、奴らは何をしておるというのだ」


 光秀は答えられなかった。

 代わりに、上座から底冷えのする声が落ちてきた。

「武田四郎勝頼は」

 全員の視線が、弾かれたように信長へ集まった。信長が設楽原から帰還して初めて、自ら口を開いたのである。


「武士の時代を、完全に終わらせる気か」


 その声は驚くほど静かだった。

 だが次の瞬間。

 硯の脇へ置かれていた小刀が、鋭く乾いた音を立てて畳へ弾き飛ばされた。

 誰も動けなかった。広間の空気が限界まで張り詰める。しかし信長はすぐ、何事もなかったかのように再び頬杖へ戻った。その一瞬だけ見せた狂気的な激情が、諸将の背筋を容赦なく凍らせた。


「武功の多寡ではない。恩賞の土地でもない。血の恐怖でもない。道を繋ぎ、良質な銭を流し、兵を農から切り離して常に置き、情ではなく法だけで国を回し始めておる」

 信長の目が、蛇のように細くなる。

「武士個人の力や忠義ではなく、盤石な仕組みの力で天下を繋ぐ気だ」

 丹羽長秀が息を呑む。滝川一益が黙り込む。秀吉の顔から、平素の愛想笑いが完全に消え失せていた。信長だけが、この歴史的な敗北の先にある、全く新しい化け物の正体をはっきりと見据えていた。


「……上様」

 森の中で一千の武田兵に無惨に蹂躙され、逃げ帰ったことのある佐久間信盛が、震える声で低く言った。

「されど、武田も所詮は甲斐の山奥の一国衆上がり。いかに知略を巡らせようとも、天下全体を回すほどの器量など」

「違うッ」

 信長が鋭く遮った。その一言だけで、信盛は首をすくめて黙り込んだ。

「四郎は、もう日ノ本の戦そのものを根本から変え始めておる。我らが大敗を喫し、ここで震えている今この時も、奴は着々と天下を呑み込む仕組みを組み上げているのだ」


 静かな声だった。だがその静けさの奥底に、燃え盛るような凄まじい熱が見えた。

 信長はそこで初めて、薄く、そして狂気的に笑ったのである。その笑みには、己の革新を遥かに凌駕する存在への深い畏れと、底知れぬ興味が同時に混じっていた。


「面白い」

 誰も笑えなかった。諸将が恐怖に震える中、信長だけが、自らの大敗北を前にしてなお、歓喜に身をよじるように愉しそうにしていた。

「ようやくこの日ノ本の天下が、本当に動き始めたわ」


 その言葉に、明智光秀だけが小さく背筋を震わせた。理解してしまったのだ。この人は、自らの敗北そのものを心底から愉しんでいる。己が古い権威を破壊してきたように、今度は自分自身を含めた天下の形が根本から壊れ、全く新しい形へと変わる瞬間を、心の底から見たがっている。だからこそ恐ろしい。だからこそ、この人は理解の及ばぬ魔王なのだ。


 評定は長く続かなかった。諸将は鉛のような重い沈黙を抱えたまま、次々と広間を退出していく。誰も軽口を叩かなかった。誰も、武田を田舎侍だと侮らなくなっていた。

 最後まで薄暗い広間に残ったのは、明智光秀だけだった。


 信長は動かない。窓の外をただ静かに眺めている。岐阜城下の灯が、夜の底で心細げに揺れていた。

「光秀」

「はっ」

「武をもって天下を布く。……それではもう、遅い」


 光秀は顔を上げられなかった。その言葉は、信長自身が掲げてきた「天下布武」という絶対的な旗を、自らの手でへし折ったに等しかった。武力と恐怖だけで天下を制圧する。それだけでは、武田勝頼の構築するであろう理の国には、もう届かないのだ。

 光秀は静かに頭を下げた。返す言葉を全く持たなかった。


 信長はゆっくりと立ち上がる。そのまま誰を呼ぶでもなく、天守の方へと歩みを進めた。

 夜風が冷たく吹いていた。眼下には美濃の町。さらにその先には広大な天下。そのどこかで、武田勝頼もまた同じ夜空の月を見ているのかもしれなかった。


「……四郎よ」

 信長は、底知れぬ闇の奥を見ていた。

「貴様、この日ノ本を一体どこまで連れて行く気だ」


 美濃の夜風だけが、沈黙する魔王の問いに答えるように、ただ静かに吹き続けていた。

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