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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百七話:静世侵蝕

第百七話:静世侵蝕


 三河国、岡崎城。

 徳川家康の居城として、長く三河武士たちの頑固な忠義を集めてきたその城は、今、奇妙な静けさの底に沈んでいた。

 設楽原の死闘からすでに半月が過ぎている。常の戦国であれば、まだ戦の生臭い熱が残る頃合いだ。焼けた板壁の煤、野に放置された死馬の腐臭、敗残兵が農村を荒らし、勝者の兵が酒と女を求めて城下で騒ぎ立てる。それが戦後の当たり前だった。

 だが岡崎には、その狂熱が一切なかった。朝になれば市場が開き、魚売りが声を張り上げ、豆腐屋が桶を担ぎ、鍛冶屋は火床を叩く。荷車は決められた刻限に街道を通り、寺の鐘は毎日同じ時に鳴る。何も変わっていない。いや、変わりすぎていた。


「……気味が悪い」

 本多忠勝は物見櫓の欄干へ太い腕を置き、低く唸るように呟いた。眼下の街道では黒い具足の武田兵たちが一定の歩幅で交代の見回りを行っている。誰も怒鳴らない。槍を振り回して威嚇しない。民を脅して金品を奪うこともない。ただ無言で、機械のように静かに歩く。あまりにも静かだった。

 隣の榊原康政も黙って城下を見下ろしていた。街角では武田兵が荷駄を整え、そのすぐ横でつい数日前まで敵として槍を交えていた徳川方の足軽が一緒に米俵を運んでいる。誰も喧嘩しない。誰も怒鳴らない。ただ決められた手順に従って働いている。忠勝はその光景を見るのがたまらなく嫌だった。

「武田は、本当にあの戦に勝ったのか。これでは……ただこの地の城主が替わり、別の役人が来ただけではないか」

 康政はしばらく答えなかった。やがて喉の奥から絞り出すように言った。

「それが、恐ろしいのだ」

「……何」

「民が、もう戦の終わりを完全に受け入れ始めている」

 忠勝は深く眉を顰めた。城下では子供たちが走り回り、市場の女たちは値切り合い、商人は旅支度を整えていた。敗戦直後の、大将を失った国とはとても思えなかった。徳川が負けた。家康が死んだ。本来なら三河はもっと荒れ狂い、悲嘆に暮れなければならないはずだ。だが荒れない。荒れないどころか、武田が来る前よりも街道の通行は整い、兵糧蔵の管理は正確になり、夜盗は一人残らず消え失せていた。

 康政はその事実が堪らなく恐ろしかった。武田は徳川を滅ぼしていない。滅ぼして根絶やしにする必要すら感じていない。まるで最初から、この土地を無傷のまま自分たちの国へ組み込む手順だけを冷徹に計算していたかのようだった。


 廊下の奥から静かな足音が響いた。

「穴山信君殿、お成りにございます」

 空気が僅かに張り詰める。現れた穴山信君は驚くほど軽装だった。甲冑は着けていない。脇差と太刀だけを帯び、供回りもごく少数。背後に従う者たちは槍持ちではなく、筆を持った書役と代官、それに測量縄を抱えた検地奉行たちだった。帳面を抱えた男たちが無言で広間へ入っていく。

 忠勝は露骨に顔をしかめた。

「……戦の後に来る大将の顔ではないな」

 穴山はその棘のある言葉に何も返さなかった。ただ静かに頭を下げる。勝者の顔ではない。まして猛将の顔でもなかった。どこか、己の限界を悟り、疲れ切った役人の顔だった。それが忠勝には余計に腹立たしかった。

 穴山信君は元来、武田一門の重鎮として広大な領地を任され、軍勢を率い、独自に外交までこなす有能な領主だった。武将としての誇りは誰にも引けを取らない男だった。だが勝頼によって兵権を完全に剥奪され、今は三河と遠江を法で治める統治官という裏方の役目に就いている。本人はその変化を胸の奥で飲み込み、岡崎へ来ている。もはや戦場を駆ける日々はもう戻らない。それでも武田の国全体のためだと、自分に言い聞かせてここに立っていた。


「信康殿は」

 穴山が事務的に訊く。

「間もなく」

 康政が短く答える。穴山は頷き、広間の上座から一段下がった席へ座った。書役たちが素早く帳面を広げる。三河の村高、寺社領、用水路、街道整備、関所、鍛冶場、馬市。冷たい数字と記録が広間いっぱいに整然と並べられていく。忠勝はそれを見ているだけで息苦しくなった。武士の評定ではない。まるで商人の大店の帳場だ。

 やがて襖が開き、徳川信康が姿を現した。その瞬間、忠勝は胸の奥が少し痛んだ。若君がひどく痩せていた。設楽原以前の、あの鋭く荒々しい若武者の気配が完全に抜け落ちている。頰は削げ、目の下には深い疲労の影が落ちていた。まだ若いはずなのに、急速に歳を取ったような顔をしていた。信康は上座へ座る前に一瞬だけ城下へ視線を向けた。市場の喧騒が見える。民が生きている。それを確認するような虚ろな目だった。

「穴山殿」

「信康殿」

 短い沈黙。先に口を開いたのは信康だった。

「……城下が静かすぎる。もっと、荒れると思っていた」

 穴山は少しだけ目を伏せた。

「荒れれば、立て直すのに無駄な刻と銭が掛かりますゆえ」

「それだけか」

「それだけです。すべては陣代様が描かれた理のままに」

 淡々とした返答。だがその瞬間、忠勝は気づいた。この男はもう武功や情で物を考えていない。戦後の秩序だけを見ている。穴山自身もまた、兵権を奪われた屈辱を胸に押し込め、帳面と縄と数字の中に己を溶かし込もうとしている。その覚悟の深さが、逆に忠勝を苛立たせた。

 穴山は帳面を一つ開いた。

「今年の年貢は据え置きます」

 信康が顔を上げる。

「……据え置く、だと?」

「民を疲弊させても益はありません。徳川の法も急には変えぬ。村の寄り合いも役人もそのまま使います。寺社領も維持する」

 忠勝が堪えきれず口を挟んだ。

「ならば何のために勝った。家康様を討ち、三河を奪い、それで結局やることは帳面の数字合わせか」

 広間が静まる。忠勝は拳を握り締めていた。

 穴山は怒らなかった。ただ静かに、哀れむように忠勝を見る。

「戦とは、国を得るための物理的な手段のひとつに過ぎぬ。国を壊してしまえば、勝った意味がない。お主らには分からぬだろうがな」

 忠勝は言葉を失った。その理屈は正しい。正しすぎる。だからこそ腹が立った。武士が命を懸けてきた誇りと忠義を、全部数字へと変えられている気がしたからだ。

 穴山は帳面へ視線を戻す。

「街道は整備します。兵糧輸送路も確保する。代わりに村々へ過剰な軍役の負担は掛けぬ。商人には通行証を発行し、市場の往来も保証する。銭はすべて武田金に統一する」

 まるで最初からすべてが準備されていたような口振りだった。信康は黙って聞いている。その横顔を見ながら、康政は気づいていた。若君は今、自分の役目を探しているのだ。父を失った。国は敗れた。自分は生き残った。では、自分は何なのか。何のために残されたのか。

 穴山が静かに言った。

「信康殿。あなたには、三河の民を繋ぐ要となっていただきたい」

 信康の眉が僅かに動く。

「民は急には変われぬ。徳川を信じてきた者たちも多い。だからこそ、武田の理を民に受け入れさせるための象徴として、徳川の血を引くあなたが必要なのです」

 信康は答えなかった。答えられなかった。必要。設楽原以来、初めて聞いた言葉だった。敗者に価値など残らないと思っていた。父を守れなかった。国を負けさせた。自分はもう空っぽなのだと、どこかで思っていた。だが穴山は違った。まるで壊れた道具の使い道を冷静に拾い上げるように、当たり前の顔で「必要だ」と言った。

「……なぜだ。なぜ、そこまでして徳川を残す」

 穴山は少し黙った。その沈黙が妙に長かった。やがて低く言う。

「残した方が、国が早く安定するからです」

 あまりにも冷静な答えだった。だが、その声の奥に、ほんの僅かな苦味が混じっていた。穴山自身もまた、武将としての誇りを失った痛みを抱えながらここにいる。勝頼の理が正しいと理解したからこそ、己の役割を飲み込んで代官として立っている。その複雑な胸中が、言葉の端々に滲んでいた。

 忠勝は気づいた。この男もまた、何かを失っているのだ。穴山信君は武将ではなくなった。軍勢を率いて武功を誇る立場を完全に奪われ、今は帳面と検地縄を抱えるだけの機能に成り下がっている。それでも反抗していない。なぜか。勝頼の理の圧倒的な正しさを理解してしまったからだ。その事実が、忠勝には恐ろしかった。

 信康がゆっくりと俯く。膝の上で握った拳が白くなっていた。

「……父上なら」

 言いかけて止まる。部屋が静まり返った。家康ならどうしたか。その答えは、もう誰にも分からない。死者は何も語らない。

 しばらくして、信康はゆっくりと顔を上げた。

「三河の民が安らぐなら。この身を、武田の法のために使ってくれ」

 忠勝が目を見開く。だが止めなかった。止められなかった。それが今、この国と三河の民を救うために必要な言葉だと分かってしまったからだ。

 穴山は深く頭を下げた。

「必ず」

 それだけだった。勝者の礼でも、敗者への情けでもない。ただ役目を受け取る者同士の、乾いた礼だった。

 夕暮れが近づいていた。外では武田兵と旧徳川兵が並んで兵糧蔵の整理をしている。一人の徳川足軽が米俵を落とした。すると隣の武田兵が無言で持ち上げるのを手伝った。二人は何も言わない。礼も言わない。ただ次の俵を運び始める。

 忠勝はその光景から目を離せなかった。敵も味方も消えていく。武士の世が、静かに形を変えていく。血の抗争ではなく、冷徹な暮らしの循環によって。

 鐘が鳴った。城下の人々が帰路につく。女たちは夕餉の支度を始め、子供たちは笑いながら走っていく。その横を、武田兵が静かに通り過ぎる。誰も怯えない。誰も憎まない。それが忠勝には耐え難かった。武田は、徳川を武力で打ち破ったのではない。もっと深いところへ入り込んでいる。人の暮らしと秩序そのものへ。

 康政が小さく呟いた。

「……これでは、もう戦国には戻れぬな」

 忠勝は答えなかった。答えられなかった。城下では、夕餉の煙が静かに立ち上っていた。その煙は、まるで何事もなかった平和な国のように、穏やかに空へ溶けていく。忠勝だけが、暮れていく岡崎の空を、いつまでも黙って見上げていた。

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