第百六話:武門再編
第百六話:武門再編
設楽原から甲斐の国へと帰り着いてより、すでに六日の月日が過ぎていた。
甲府の城下は、未だ天下を激しく揺るがした大勝の熱狂と、祭りの残り火の中にあった。湯屋の前には武功を誇る者たちが人だかりを作り、夜の帳が下りると共に、祝いの酒の匂いと喧騒が路地の隅々にまで満ちていく。
だが、躑躅ヶ崎館の奥深くへと足を進めるほどに、そうした戦勝の浮かれた熱気は急速に薄れ、冷たく吸い込まれて消えていく。回廊の先で若き文官たちが算盤を弾く硬質な音が響き、分厚い帳簿の紙をめくる音と、濃密な墨の匂いが立ち込めているばかりである。
そこにあるのは、戦に勝った国の凱旋の翌朝というよりは、これから全く新しい巨大な普請が始まる前の、息の詰まるような張り詰めた空気であった。
高坂昌信が、式台から中庭へと出たのは、広間での評定が始まる二刻ほど前のことであった。
六日前の夜、論功行賞の場で高坂は一つのことを悟った。武田は変わった、と。だがあの夜の高坂は、まだ外から眺める者だった。留守居として館を守り、設楽原へは出ていない。信玄公に仕えた頃から数えれば、もう幾十もの合戦を潜ってきた男が、あの歴史的な一戦を甲府で待ち続けた。
そして今日、改めて重臣たちが集められたこの評定において、自分がどこへ置かれるのかを、高坂はまだ知らない。
それが、妙に落ち着かなかった。武士として長く生きてきて、これほど己の居場所が分からぬ朝は、初めてかもしれなかった。
最初に目に入ったのは、小山田信茂の姿である。
木陰の縁側に一人で端座し、扇を膝に置いたまま石像のように微動だにしない。誰とも言葉を交わさず、供の者すら遠ざけている。小山田は親族衆の重鎮であり、これまでの武田であれば必ず戦の表舞台に立っていた男だ。だが、今回の設楽原では完全に軍の後方支援に回され、刃を交えることなく戻ってきた。そして、なぜ評定が始まる前から、あのように魂の抜け殻のような顔をして座っているのか。
高坂は、その重い問いを胸の奥深くへと仕舞い込んだ。
内藤昌豊が、廊下の向こうから姿を現した。
高天神城からの帰路は三日を要したはずで、その深い疲労が顔の皺の影に色濃く表れていた。しかし、その瞳は驚くほど静かで鋭い。内藤は高坂を見つけると、武士の挨拶というよりは、役人同士の確認のような事務的な仕草で一つ小さく頷いた。
「遠路、まことに大儀でありましたな」
「それほどのことでもござらんよ」
それだけ短く言うと、内藤は足早に先へ進んだ。
高坂はしばらくその背中を無言で見送った。内藤昌豊という男は、常に次の厄介な仕事を両手に抱えて歩いているように見える。戦場であろうと後方の陣であろうと、場の空気を読んで武勇を誇る顔ではなく、次に何を為すべきかを冷徹に計算している顔つきをしていた。
続いて、仁科盛信が到着した。
若い。その若さの中に、言葉では説明しにくい異様なほどの重みがあった。偉大なる父、信玄の血が人並み外れて濃く出た者にだけ宿る、言葉を発する前から人を圧する何かだった。城下の民が彼の姿を見て自然と道を開け、頭を下げるのは、理屈ではなくそういう気配ゆえなのだろうと高坂は思う。
穴山信君は、前日にはすでに館に着いていた。
徳川の旧領を武田として統治するため三河・岡崎の代官総奉行に赴任したばかりのところを、わざわざ甲府へ呼び戻された男の顔は、昨日からずっと同じ表情を保ち続けていた。笑っているわけでも、険しいわけでもない。何か途方もなく巨大なものを飲み込みかけて、まだ完全に飲み込みきれていない、ひどい消化不良の顔だった。
武田信豊は、部屋の隅でせわしなく書き物をしていた。
代官たちと直前まで細かな数字の打ち合わせをしていたらしく、上等な小袖の袖口には墨の染みが散っている。信豊は高坂の気配に気づくと軽く会釈し、すぐにまた帳簿へと視線を戻した。
山県昌景と馬場信春は、廊下の角で静かに話をしていた。
声は届かない距離だったが、二人の顔に険しい様子は全くなかった。評定の直前に、武田の双璧たる山県と馬場がこれほど穏やかで凪いだ顔をしているのは、高坂にはいささか奇妙に感じられた。
何かをすでに完全に知っているか、あるいは、すべてを諦めて覚悟を決めているか。そのどちらかであろう。
高坂は、その二人の顔をしばらく見つめた。自分も信玄公の代から仕えてきた。だが、あの二人が持っている静けさと同じものが、今の自分の胸にあるかどうかは、正直なところ分からなかった。
再び木陰の縁側へ視線を向けると、小山田信茂はまだ同じ姿勢でそこにいた。
評定の間は、凍りついたように静かだった。
上座の武田勝頼は、威儀を正した正装姿であり、設楽原を制した武将としての血生臭い合戦の気配は、もはやその身のどこにも残していなかった。整然と座り、眼下に並ぶ家臣たちを見る深く暗い瞳だけが静かに動いている。
その底冷えするような落ち着きが、高坂には独特の恐ろしい圧迫感として伝わってきた。信玄は恐ろしかったが、怒るにせよ笑うにせよ、どこか血の通った人間の匂いがした。しかし、目の前に座るこの男は違う。時として、人ではない、冷徹な法そのもののように見えるのだ。
「よく集まってくれた。今日は、これからの武田の向かう先についての、大きな話だ」
勝頼の前置きは、ひどく短かった。
「これから武田が日ノ本でどう動くか。そのために、そなたらそれぞれに国の中でどこを担ってほしいか、それを伝える」
「昌景殿」
山県昌景が、静かに顔を上げた。
「そなたには、これより我が直轄の常備兵すべてを鍛え上げる、教導総役を担っていただきたい。今の武田軍がここまで来られたのは、そなたらが積み上げてきた武功と経験があったからこそだ。その武の真髄を属人的なものとせず、国の仕組みとして形にし、次世代の兵たちへと確実に渡す役を、そなたにしか務められぬと思っている」
広間が、かすかに、しかし確実にざわめいた。
誰もが、山県には、当然新たな遠征の方面軍の大将という言葉が下されると待っていたのだ。それが、最前線から退き、後方で名もなき兵を鍛える役回りである。
山県は間を置いた。長くはない。しかし確かに、重い間を置いた。高坂は横からその横顔を盗み見た。何があの顔の皮膚の内側で渦巻いているのか、読み取ることはできなかった。
ただ、その表情は驚くほど穏やかだった。長い戦場人生が、武士の顔から不要で尖ったものをすべて削り落とした後に残る、清々しいまでの穏やかさだった。
高坂は、その穏やかさの意味を知っていた。設楽原の前夜、昌景が勝頼に何を語り、何を誓ったのか、高坂は聞いていない。だが、あの男がもはや己の武勇を自らのものとして使うつもりがないことは、その顔から十分に伝わってきた。
「……承知いたしました」
山県は、深く頭を垂れて言った。
「信春殿」
「はっ」
「軍監・統制役を頼みたい。軍が崩れかけた時の退き足の指揮、戦場における無機質な秩序を保つ技、崩れた隊を即座に整え直す技法。そなたの持つその比類なき手腕を、これからの武田の軍制の絶対的な柱としてほしい」
馬場信春は、一瞬だけ目を細めた。それから、何か固いものを奥歯で噛み締めるような間を置き、静かに頭を下げた。
「御意に」
高坂は、その間の意味を深く考えたが、答えは出なかった。馬場が腹の底で何を思ったのかは、本人にしか分からない。ただ、設楽原で彼らが敵軍を正面から受け止めることとなったあの冷徹な理の恐ろしさが、今この役目の名前となって、彼らの立場が完全に変わったのだということは、高坂の肌にも冷たく感じられた。
「昌豊殿」
「はっ」
「今後は高天神総奉行として、駿河口の軍政と兵站をすべて統括していただきたい。前線における城の指揮に加え、後方の補給網の整備までを一手に任せたい」
内藤昌豊は小さく頷いた。そして、即座に言った。
「陣代様。兵站の権限について一つ確認させてください。荷駄の手配は郡奉行の権限と重なる部分が多く出ますが、いざという時、どちらの差配が上位になりますか」
高坂は思わず内藤を見た。
与えられた役目の重さを問うでもなく、一門や宿老としての配慮を求めるでもなく、その場で淡々と仕事の権限の確認をした。天下を決するこの評定の最中にである。
勝頼は少し間を置いてから答え、詳細な数字の取り決めを説明した。内藤はさらに細かく問い、勝頼がそれに答える。二人の問答は、しだいに武将同士の会話ではなく、帳簿を挟んだ実務的な打ち合わせの様相を呈していった。他の者はただ黙って、その異質な光景を聞いていた。
「盛信」
「はっ」
「北信濃方面の総備えを、引き続き担ってほしい。軍事に加え、越後や周辺国衆との調略も含めてすべて任せたい。刃を交えず、戦わずに理で収める場合も想定して動け」
仁科盛信は、しばらく黙った。
「……武田という国の顔を、存分に使えということですか」
「そうだ。そうなる時も多々ある」
「分かりました」
若い、しかし自らの頭ですべてを考え終えた者の声だった。
「信豊」
「はっ」
「東美濃および東三河方面の折衝役だ。代官との細かな調整、検地の監督、そして軍道の整備を任せたい」
信豊は深く頷いた。部屋の隅で書き物をしていた男が、ようやく自分の居場所を確認されたような、安堵の顔をした。
「穴山殿」
広間の空気が、一気に重く変わった。高坂だけがそう感じたわけではなかった。
穴山信君が、ゆっくりと顔を上げた。
「岡崎の代官総奉行を、引き続きお願いしたい。今後は徳川旧領の民政全体を広く見ていただきたい。検地、年貢の取り立て、商業の流れ、街道の管理。遠江から三河にかけての新たな領国運営を、一手に担える確かな者が必要なのだ」
穴山は黙った。
永遠にも似た長い沈黙だった。
高坂はその沈黙の裏側にある中身を読み取ろうとした。
穴山信君は武田一門の中でも特別な存在だった。かつては広大な領地と独自の外交網を持ち、戦場でも幾度も武功を挙げてきた。それが今、武将としてではなく、一介の統治官、代官として遠国に任じられている。断れる話ではない。三河の岡崎が武田にとって西の最重要の地となることは、穴山自身が誰よりもよく知っている。
「……承知、いたしました」
穴山の声には、はっきりと何かが重くこもっていた。一枚の感情では到底足りない厚み。何かを腹の底に抱え込んだ声だった。自分がこの瞬間に、武将ではなく全く別の形へ完全に変えられたことを、彼は確かに飲み込んでいた。
「昌幸」
「はっ」
「先日伝えたように、軍政方の中核はそなたに任せたい。制度の整備、人員の配置、命令系統の管理、そして手形の流通。すべてを担ってくれ」
「御意にございまする」
高坂は微かに可笑しくなった。この男には、自分がこうなることが初めから完全に分かっていたのだろう。返答があっさりしすぎていた。
「昌信殿」
不意に呼ばれ、高坂は顔を上げた。
「武田家中の移行を、最後まで見届ける役を、引き受けていただきたい」
「移行、とは……」と問い返すと、勝頼は静かに続けた。
「国の制度が変わる時、人は必ず揺れる。古い制度と誇りで生きてきた武士たちが新しい法と理に馴染めぬ時、何かが悲鳴を上げて壊れることがある。その壊れる前に、間を繋いでほしいのだ。旧臣たちの声を聞き、新制度との緩衝となり、家中の統制を裏から支えてほしい」
高坂はすぐに答えられなかった。
壊れる前に繋ぐ。古い武田と新しい武田の、その狭間に立ち続ける。
それはつまり、旧き者として終わることも、新しき者として立つこともできぬ、宙ぶらりんの場所に、この先ずっと居続けることを意味していた。
だが同時に、高坂には分かった。この役目は、誰でもよいわけではないのだ。古き武田の空気を身に染み込ませ、なおかつ勝頼の理を頭ではなく腹で理解できる者でなければ、その両方の声を聞くことはできない。信玄公の代から仕え、勝頼の三年の孤独を間近で見てきた。だから、自分なのだ。
勝頼はそれを、言葉にしなかった。ただ、役目の輪郭の中に、すべてを込めていた。
「……御意にございます」
深く頭を下げた。声が、わずかに揺れた。
評定が終わり、諸将が無言で広間を出ていく。
高坂はしばらく座ったまま動けなかった。体が疲労で重いわけではない。ただ、立ち上がる気がすぐには起きなかったのだ。
廊下へ出ると、山県昌景が窓の外の空を見ていた。
「山県殿」
「……高坂殿か」
山県は振り返らなかった。高坂はその隣に立ち、同じ方向を見た。庭先では黒い具足を纏った常備兵たちが、夕暮れの中で機械的な訓練を続けていた。太鼓の号令の声が遠く聞こえるだけで、武器の交わる音はない。
「いつから、分かっておられましたか」
「何がだ」
「今日の、この御役目の意味です」
山県は少し考えてから答えた。
「設楽原の、あの陣を敷く前からだ」
それだけ言うと、山県は黙った。
「あの兵を見ろ」
訓練場の兵たちは、陣太鼓に合わせて隊列を滑らかに変えながら動いていた。崩れない。乱れない。個人の感情や動きが全く見えないほど、全体として一つの巨大な生き物のように動いている。
「あれは、わしの知っている武士ではない」
「ええ」
「だが……あそこには、間違いなく武田の武がある」
高坂は、その重い言葉を胸に深く留めた。
山県が長年戦場で振るってきた無双の槍の技は、一人の武将の武勇として完結するよりも、ああして百人の兵の均一な動きの中に流れ込んだ時にこそ、全く別の恐るべき力になる。山県は今日の役目の中に、己の死後の未来を重ねていたのかもしれない。
では自分は。己の死後、何が残るのか。
答えは、すぐには出なかった。だが、あるいは出なくてもよいのかもしれない、とも思った。残るものを作るのではなく、壊れかけたものを繋ぎ続ける。それが自分に命じられた役目なのだから。
二人は黙った。夕風が庭の木々を揺らした。
日が落ちかけた頃、高坂は再び木陰の縁側を見た。
小山田信茂は、まだ同じ姿勢でそこにいた。
高坂は静かに近づいた。
「小山田殿」
「……高坂殿か」
「今日は、最後まで御名が呼ばれませんでしたな」
「ええ」
静かな声だった。傷ついたり、激昂したりしている様子はない。それが逆に高坂にはひどく意外だった。
「しばらく待たれよ。陣代様は、必ず次を考えておられます」
「高坂殿は、陣代様を怖いと思いますか」
小山田の唐突な問いに、高坂は少し考えてから答えた。
「思います」
「なぜです」
「あれほど、過去を振り返らず止まらない方は、見たことがないからです」
小山田は間を置いた。
「わしは」と彼は言った。「不思議と、少しも怖くないのです。自分がこれからどう使われるか、あるいは捨てられるか分からないのに」
「それは、またなぜ」
「反発するための、古い足場が、もうどこにも見つからないからです」
高坂はその言葉を聞いた。
そういうことか、と胸の奥で深く腑に落ちた。
古い足場。
信玄公が生きていた頃の武田。あの重厚な評定の空気。武功を競い、家格を誇り、主君の顔色を読みながら己の武を磨いた、あの日々。それが高坂にとっての「足場」であった。
だが、その足場は六日前の夜にすでに消えていた。正確には、勝頼がこの武田を継いだ瞬間から、少しずつ、しかし確実に消え続けていたのだ。高坂はただ、それに気づくのが遅かっただけである。
「同じです」
高坂は言った。
「わしも、あの時代の流れの中で、止まれなかった」
二人は黙り、夕暮れの庭を見た。
常備兵たちが整列し、最後の太鼓の号令と共に一斉に槍を下ろした。それから静かに散っていく。誰も大声で叫ばない。ただ決められた訓練が終わり、それぞれの兵舎へ無言で帰っていく。
その背中を見ながら、高坂は長い息を吐いた。
ふと、思い出したことがあった。
信玄公がまだ存命だった頃、ある夜、二人きりで語り合ったことがある。その時、信玄公は珍しく静かな声でこう言った。
「昌信よ。わしが死んだ後、四郎を頼む。あれは強くなる。だが、強くなるほど孤独になる男だ」
高坂はあの時、その言葉の意味を半分しか理解していなかった。
だが今日、この評定を終えて、ようやく全部が分かった気がした。
勝頼は誰も切り捨てない。誰も私怨で排除しない。ただすべての者を、最も適した場所へ静かに嵌め込んでいく。そしてその采配の一つ一つに、言葉にならない深い配慮が宿っている。山県の誇りを、馬場の技を、内藤の実務を、そして高坂の、古い武田と新しい武田の両方を知るという、ただその一点だけを。誰一人として、無駄に扱っていない。
それは冷徹さではなかった。凄絶なまでの、不器用な愛情だった。
高坂昌信は、静かに立ち上がった。
目の奥が、じわりと熱くなった。それを悟られぬよう、高坂は夕空へと視線を逃がした。
武士が人前で泣くものではない。だが、こみ上げてくるものを完全に押さえることは、もはやできなかった。
信玄公。あなたの仰せの通りでございました。
四郎様は、強くなられました。そして、あなたが心配されていた通り、誰よりも深く、孤独でございます。
ですが。
我らが、おります。
古い時代の終わりを看取ることと、血の通わぬ新しい始まりを裏から支えることは、今この時代においては、きっと全く同じことであった。
そしてそれは、高坂昌信にとって、人生最後で最も重い、武士としての誓いとなった。




