【応仁の乱編】第六段 京、焼け野原となる
【応仁の乱編】第六段 京、焼け野原となる
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戦は年を追うごとに激しさを増し、ついに京の町そのものが、見る影もなく変わり果ててしまった。今回はその惨状を、できる限り正直に書き記しておこうと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
応仁元年十月、相国寺にて東西両軍、激しく激突いたし候。この一戦、乱の中でも殊に凄まじきものにて、名刹・相国寺も炎に包まれ候。されど、これにて勝敗の決すること叶わず、以後、両軍とも大掛かりなる戦を避け、戦場は次第に京の外へと移り~~~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
応仁元年(1467年)10月、相国寺で東西両軍が激しく激突しました。この一戦は乱の中でも特に激しいもので、名刹・相国寺も炎に包まれました。しかしこれで勝敗が決することはなく、以後両軍とも大規模な戦を避けるようになり、戦場は次第に京都の外へと移っていきました。
こういう大きな戦いよりも、私の目に特に恐ろしく映ったのは、正規の兵たちによる戦いではなく、「足軽」と呼ばれる者たちの動きでした。彼らは正式な武士ではなく、戦場に集まってきた無頼の輩で、両陣営に紛れ込んで略奪や放火を繰り返しました。公家の邸宅、寺社、町屋が次々と焼け落ちた大きな原因は、この足軽たちの仕業によるところが大きいようです。
こうして、かつて雅を極めた京都の町、上京一帯はことごとく焼け野原になってしまいました。下京の一部は焼け残ったものの、これも運が良かっただけで、いつ火の手が及ぶか分からない状態です。内裏すら安泰ではなく、天皇・上皇が室町第へ避難する事態にもなりました。
正規の合戦ではなく、火事場の混乱に乗じた無頼の輩の狼藉によって、都がこれほどまでに荒れ果ててしまうとは。私が生きていた頃に見た戦とは、まるで質の違うものだと感じました。
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大将同士がぶつかり合う戦なら、まだ話の筋は分かる。だが、この乱で都を焼き尽くしたのは、名もなき足軽どもの、目的すら定かならぬ略奪だったという。戦というものが、こうも簡単に統制を失い、誰の得にもならぬ破壊だけを撒き散らしていくのを見ていると、我は言葉を失う思いだ。




