【応仁の乱編】第五段 義視、西軍へ
【応仁の乱編】第五段 義視、西軍へ
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東軍の総大将として担ぎ上げられた義視、そのわずか一年半ほど後には、敵方であったはずの西軍に身を寄せることになった。今回はこの数奇な顛末を書いておこうと思う。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
義視、当初は東軍の総大将として推戴され候えども、義政、かねてより義視の排斥を望みし伊勢貞親を呼び戻す動きを見せ候。これに義視、身の危険を感じ、応仁元年八月、突如京を出でて伊勢国へ逃亡いたし~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
義視は当初、東軍の総大将として担がれていましたが、義政が以前から義視を排除したがっていた伊勢貞親を呼び戻す動きを見せました。これに義視は身の危険を感じて、応仁元年(1467年)8月、突然京都を出て伊勢国へ逃亡しました。
翌応仁2年(1468年)9月、義政の説得に応じて義視はいったん京都に戻りましたが、貞親の赦免・復帰が決まり、さらに義視を支援していたはずの勝元からも出家を勧められるなど、面目を失う出来事が相次ぎました。ついに同年11月13日、義視はこっそり京都を出て、比叡山を経由して、西軍に身を投じました。
以前も書いた通り、義視はもともと山名宗全とは誼を通じていた間柄と見受けられるので、この一件は単なる裏切りというより、行き場を失った義視が、以前からの誼を頼って身を寄せただけのこととも言うべきかもしれません。
西軍はこれを迎え入れて、義視を「将軍」、義廉を「管領」と見立てて、いわば「もう一つの幕府」を打ち立てることになりました。こうして京都には、義政を戴く幕府と、義視を戴く幕府と、2つが並び立つという前代未聞の事態になってしまいました。
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東軍の総大将だった者が、いつしか西軍の「将軍」に収まる。当初はこれを、旗印というものの値打ちの軽さの証だと思っていた。だが、こうして義視の元々の誼を辿ってみると、この一件、単に旗印が軽々しく持ち主を変えたというより、人と人との繋がりの方が、陣営の色分けよりもよほど根強いものだったということなのかもしれない。
一つの都に二つの幕府がある。こんな滑稽な話があるだろうか。だが、笑い事では済まされない。この二つの幕府の下で、実際に命を落としていく者たちがいるのだから。




