【応仁の乱編】第四段 義政の優柔不断
【応仁の乱編】第四段 義政の優柔不断
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これまでも義政の腰の据わらぬ様は幾度となく書いてきたが、この乱の最中にも、その本性は変わらなかった。むしろ、この乱そのものが、義政という男の優柔不断さを煮詰めたような出来事だったと言ってもよい。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
戦の当初、義政、両軍に停戦を命じ、中立の構えを見せ候。されど六月に至り、勝元の求めに応じ、東軍に将軍の御旗を与え、宗全追討を命じ候。かかる沙汰、義政自らの意思というより、東軍が花の御所を囲む圧力に屈しての仕儀と見受けられ~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
戦が始まった当初、義政は両軍に停戦を命じて中立の姿勢を見せていました。ところが6月になると、勝元の要求に応じて東軍に将軍の御旗を与え、宗全討伐を命じてしまいました。この決定は義政自身の意思というより、東軍が花の御所を包囲する圧力に屈した結果のようです。義政はこの決定に強く抵抗したそうですが、結局押し切られました。
これによって義視は東軍の総大将に押し立てられました。もともと義視は細川勝元の後見を受けていた身なので、東軍に立つのは順当な成り行きでした。
ですが、翌年、義視は東軍内での立場を失って、あろうことか、以前から誼を通じていたらしい宗全のもとへと走りました。以前、義視と宗全が共に義就を支持していたという噂を、私も耳にしたことがあります。こういう経緯を思えば、義視の西軍行きは、むしろ元の鞘に収まっただけのことと言うべきかもしれません。
一方、義尚と富子は、乱の当初から変わらず義政のもとに留まり、結果として終始一貫、東軍の中に身を置くことになりました。
当初、義尚の後見には伊勢貞親がついていました。
ただ、義尚の後見であった伊勢貞親は、乱が始まる前年、義視暗殺を企てたとして露見し、近江へ逃れていました。
義政が東軍に御旗を与えたのと同じ六月、貞親は義政に呼び戻され、京へ帰参しました。
義尚の周辺もまた、乱の最中に人の出入りが激しく、義政のもとに集う顔ぶれは、一枚岩とは程遠いものでした。
いざ乱が起きてみると、両方の陣営に集まった者たちの思惑は、私が思っていたよりもずっと入り組んでいました。
義政は政治の要となるべき立場にありながら、終始このような有様で、本当に頼りない御方だと思いました。
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義視が西軍へ走ったのを見て、我は当初「裏切り」だと思い込んでいたが、よくよく調べてみれば、あれは裏切りというより、元々の誼に戻っただけのことだったのかもしれない。人の繋がりというのは、我のような外から眺める者が思うよりずっと複雑で、単純な「東軍・西軍」という色分けでは到底捉えきれぬものらしい。旗印だけを見て敵味方を判じることの危うさを、我はこの一件で思い知らされた気がする。




