【応仁の乱編】第十段 勝元も逝く
【応仁の乱編】第十段 勝元も逝く
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宗全が世を去ってからわずか二月後、その好敵手であった勝元もまた、後を追うように世を去った。まるで一つの糸で結ばれていたかのような、二人の相次ぐ死だった。
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篁様へ申し上げ候。
此度、下界にて見届け候仔細、左の如くに候。
文明五年五月、勝元、俄かに病に倒れ、五月十一日、身罷り候。享年四十四。宗全の死よりわずか二月の後にて候。死因は病とも、あるいは山名方による毒殺との噂もこれあり~~~~~~~
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現代語訳
篁様、報告します。
今回見たことを書いておきます。
文明5年(1473年)5月、勝元は突然病に倒れ、5月11日に亡くなりました。享年44。宗全の死からわずか2ヶ月後のことです。死因は病気とも、あるいは山名方による毒殺という噂もありますが、真偽のほどは分かりません。
勝元は政治の上では宗全との対立を続けていましたが、もともと禅を篤く信仰していて、龍安寺という寺を建立するなど、風雅の道にも通じた人物でした。和歌や絵画にも優れ、医術まで自分で学んで医書を書き上げるほどの、多趣味な人物だったようです。
そういう文化人が、和議が成立しないまま、宿敵の死を追うようにして世を去る。長い間対立してきた当事者2人が、こうして相次いで舞台を去りました。それでも乱そのものは止む気配がなく、下界の人々も、いつ終わるとも知れない状況に、いささか疲れ果てている様子です。
両方の大将が世を去ってもなお終わる気配のない戦とは、いったい何のための戦だったのか、私には理解しかねます。
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争いを始めた本人たちがいなくなっても、争いそのものは一人歩きを続ける。まるで火が、火をつけた者の意思とは関わりなく、勝手に燃え広がっていくかのようだ。人が始めたことが、いつしか人の手を離れてしまう。これもまた、この乱が我に教えてくれた、恐ろしい真実の一つだ。




