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銀狼が屈み、床が近くなる。ぴょんと背中から跳び下りて、狼に怪我がないのを確認する。
「ありがとう」
耳の間を撫でてやると、銀狼は嬉しそうに鼻をお腹に押し当てて来た。ニコルは狼の首に抱き着いた。一瞬、銀狼がたじろいように感じたが、気のせいだろう。
「ちょっと」
背後からリオネルの手が伸びる。もう白色の手袋で覆われている。ニコルの肩を掴むと、強引に狼から引き離した。
「パスカル……」
リオネルが銀狼に呼びかける。銀狼の方は「ふっ」と、人が鼻で笑う時にするような短い息を吐き、リオネルを見た。その後、興味をなくしたかのように視線を下ろして、二人の横をすり抜けて廊下に出て行った。
ニコルはリオネルの手の中で銀の尾を見送った。静かになった部屋の中で、パチパチと火の音だけがする。
「あ、薬」
ニコルは煮たままの薬の存在を思い出し、椅子によじ登った。レシピ通りに加熱は完了した。あとは冷まして飲むだけだ。
解毒薬が入った鍋を横にずらして、新しい鍋をセットする。その中を水で満たすと、湯を沸かした。ティーポットがないので、鍋に直接薬草を入れて蓋をする。
「それは?」
薬を飲むようではあるが、都合良くカップがある。二つの器に出来上がった液体を注いでいると、リオネルが覗き込んだ。
「ハーブティーです。体を癒す効果があります」
ニコルは答えて、カップを一つリオネルに差し出す。リオネルが受け取るのと同時に「心ばかりのお礼です」と言う。
魔法薬の材料の中にはハーブティーに向いている植物もある。時々、お茶にして楽しむのも、ニコルの趣味だ。
「いただくよ。……今日はよく眠れそうだ」
一口飲むと、リオネルは穏やかに笑った。ニコルはこれ以上絆されまいと、リオネルの顔を見ないようにする。
ハーブティーを淹れている間に冷めた薬を飲み、苦味を追い出すようにお茶を口に含む。じきに効果が表れるだろう。
ニコルは手際よく片づけを始める。残った薬草も保存用に加工する。その様子を、リオネルはまた目を細めて眺めていた。
やるべきことが落ち着くと、ニコルは睡魔に襲われた。薬が効いて来た証拠だ。
頭を揺らしながら、リオネルの正面に立って見上げる。
「リオネルさま、お付き合いいただき……ありが、とうございます。次のじゅぎょーは、出てくらさいね」
うとうとしながら、必死に感謝を伝える。ニコルはこのまま研究室に留まり、仮眠するつもりだ。体が元に戻るまで授業に出られない。リオネルとはここでお別れだ。
ついに力尽きて、ニコルは床にうずくまった。間をおかず、すうすうと規則正しい寝息を立てる。
およそ一時間後、ニコルは目覚めた。袖の先から見慣れた大きさの手が見える。制服のサイズの違和感もない。体がもとに戻ったのだ。筋肉痛のようなだるさはあるが、それ以外は全て元通りだ。
(枕なんてあったっけ?)
横向きに眠っていた。体を起こすために顔の目の前に手を置いて気づいた。頭の下にやや硬い枕がある。
どういうことかと思い、下側にある左肘を支柱に頭を持ち上げた。直後、反対方向に頭が抑え込まれる。
こめかみあたりを手のひらで優しく押さえつけられる。指が視界を奪う。ニコルの頭は再び枕、もとい人の膝に戻される。
ニコルを寝かした手は白かった。きっとリオネルの手だ。
ニコルの頭は疑問でいっぱいになった。まだ授業に戻っていないことも、ニコルにひざを貸していることも、何もかも理解できなかった。
「リオネル様……?」
王子に話しかけてみるが、返事はなかった。
リオネルは壁に背を預け、足を投げ出して座っている。足の上にニコルの頭を載せ、彼女の横顔に手を置いている。
不意にリオネルが身じろいだかと思うと、指の間からもれていた光の量が減る。ニコルの上に影ができたのだとわかる。もぞもぞと衣服が擦れる音がする。
額と鼻頭に細い糸のようなものが触れ、こそばゆさを感じる。触れたのが糸ではなく髪であることに気付くのは容易でなかった。リオネルの顔が近づく理由が思いつかなかったからだ。
五秒後、再びリオネルが動いた。理由どころか、リオネルが手袋越しにキスをしたことに思い至るわけもない。
「女の子を一人残して行けないよ。君のハーブティーが美味しかったから、僕も休みたくなったんだ」
リオネルは何もなかったように振舞った。といっても、現在進行形で何もないと言える状況ではないのだが。
「あの! 私、起きます!」
婚約者のいる身で男性と密着したままでいるのは好ましくない。ましてはや王子を枕にするなど許されざる行為。
リオネルの優しい抵抗では押さえつけられないよう、勢いをつけて飛び起きた。そのせいでリオネルの顎に頭をぶつけてしまった。ガチンと歯が鳴る。
「「くう~っ」」
二人して痛みに悶える。ニコルは正座で腰を屈めながら頭を押さえる。
「無理強いして悪かった」
「いえ、お手数を……おかけしました」
リオネルの謝罪に応えるために、涙の滲む目を開けて横を見る。思いのほか真面目な表情だった。頭に置いた手を下ろして、背を伸ばす。
「君はいつも辛い目に遭っているのだろう。助けさせてくれないか? 女の子には笑顔でいてほしい。本当の君はもっと、か……」
笑顔という単語を聞いて、ニコルは顔をこわばらせた。気を引き締めようと己に誓ったばかりではないか。それなのに、リオネルの前で随分と気を抜いていた。泣くところも、笑うところも、数々の見苦しいところも見せてしまった。
途中で話を止めたリオネルは、悔しそうに唇を噛んでいる。
(リオネル様こそ、王族の方らしくない、子供みたいな表情もなさるのね。ロールさんと同じ……)
リオネルの意外な一面について考えて、ニコルはハッとする。言った傍から気が抜けている。以前はこんなこと考えたりしなかったのに。
(ロールさんの影響かな)
学園に来て初めて、ニコルの味方となる者が現れた。その後は、物言わぬ銀狼。そして、リオネル。
心の氷が溶けるのに十分だった。
『とある人のお使いで来ました』
そういえば、ロールは出会いのきっかけに『とある人』の存在をほのめかした。ニコルの本当の味方は『とある人』だろう。
ロールの家族と深い関係のある人。家族とは明言しなかった。でも、近い人。
『とある人』の正体について、一つの可能性は浮かんでいる。ニコルの婚約者という可能性だ。
婚約の話を聞いて以来、婚約を公言できない理由は幾度となく考えた。魔法使い同士の契約による制限ではなく、実は相手の身分による制限なのではないか、と。そう、例えば、王家に通ずる者。ロールの縁者だ。
王族は脈々と血筋をつなぎ、血族を多く持つ。リオネル王子のような大物ではないだろうが、そのうちの誰かがニコルの婚約者かもしれないというのは大きく外れた話ではないと思う。
「──それはまあ、他の男に気付かれても嫌だけど」
ニコルが聞いていない間に、話が再開していた。直前の内容を知らないので、何の話をしているのか掴めない。
ニコルはリオネルの話もよく聞かず、立ち上がった。学園の人間の前で、特にマルグリットに見せる感情の読み取れない顔で固定する。
見上げるリオネルの目は、飼い主を見失った子犬のように寂しげだ。
「何が君を縛るんだ?」
ニコルは気にしないふりをして、深々と頭を下げた。
「リオネル様、助力いただきありがとうございました。感謝をお伝えする言葉の用意がなく、恐縮ではありますが、これにて下がらせていただきます」
一方的に言い残してニコルは研究室を出た。




