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「ニコルさん、お昼はお兄様達ととってください。私は少々用事がありますので……あ、お兄様ー!」
昼休みになると、ロールは早口で別行動を説明して廊下に飛び出した。先に講義室を出ていたリオネルを引き留めて、ニコルの方に戻らせた。
が、ニコルはリオネルに声をかけられる前に席を立った。そのままリディ達とも合流せず、一人で昼食をとった。
そうして余った休み時間に、ニコルは本を返しに行った。この本達にもうとっくに用はなかったが、これを返したら、冬休み前に胸をときめかせていた出来事さえ嘘になってしまいそうで、延滞ぎりぎりまで借りたままにしてしまった。
司書に借りていた本を渡すと、本棚に足を向けた。特に探している書籍があるわけではない。なんとなく、図書室を離れ難かっただけだ。
本棚の間をぼんやりと歩く。背表紙を眺めているが、タイトルはどれ一つ頭に入って来ない。
「あ……」
ぽっかりと空いた穴。規則的に並べられた本の間から一冊、抜かれている。抜いたのはニコルだ。今返したばかりの、長期休暇の前に借りた本があった場所だ。一週間ほど前、ここで本を落としかけて足を負傷した。
ニコルはおもむろに手を伸ばし、隙間のある棚板に触れた。右手の人差し指と中指から埃っぽい、無機質な木の冷たさを感じる。
(リオネル様はこのくらいの身長?)
またリオネルのことを考えている。大きく息を吸い込む唇が震える。吐く息と共に出たのは、心に秘めておくべき言葉だった。
「お相手が……リオネル様だったら良かったのに……」
直後、無防備に下ろされた左手が掴まれた。重心が傾く程強く引かれ、ニコルはバランスを崩しながら顔を左に向けた。
リオネルが力強い眼差しでニコルを見つめている。焦りが顔に出ている。
ニコルはリオネルの胸に倒れ込む前に、何歩か細かくステップを刻んで何とか踏ん張った。そのまま手も引いて逃れようとしたが、リオネルの力はあまりに強かった。
咄嗟に魔法を使った。
(水は駄目だ)
自分が今図書室にいて、水を使ってはならないことは辛うじて理性的に判断できた。だからニコルは、二人の間に突風を起こした。足元から巻き起こった風に驚いて、リオネルが手を離した。
「図書室での魔法の使用は禁止ですよ!」
遠くから司書が注意する。
ニコルは、すぐさま駆け出した。出口へはリオネルの方にあるが、また捕まっては元も子もない。リオネルのいない方に走り、本棚を一つ回り込んで扉を目指した。
後ろからテンポの速い足音が聞こえるので、リオネルが追ってきているであろうことはわかった。
「図書室では走りません!」
開かれたドアから廊下に出る時、走る二人を叱る司書の声がした。
ニコルは廊下を走りながら、背後に水の膜を張った。廊下の天井、壁、床にぴったり合った膜に隙間はなく、それを通らねばニコルを追う事はできない。人に害をなす物では無いので、ほんのわずかな足止めにしかならない。それをわかっているから、ニコルは足を止めなかった。
突き当りまで走り抜け、奥の階段を駆け上った。上階の廊下を中腹まで進んだ所で、背後からリオネルが叫んだ。
「ニコル!」
彼はいつまでも、どこまでも追ってくるのだろう。なぜかはわからない。
確かなのは、ニコルに逃げる理由があるということ。一番聞かれたくない人に、本音を聞かれてしまった。あの言葉について追及されれば、ニコルは耐えられない。
リオネルから逃げきるためには思い切った行動も必要だ。肩を大きく上下させながら、すぐ近くの窓を開いた。外の風を受けて一瞬、躊躇ったが、それでも不安を振り払って窓台に上った。
「危ない!」
窓を開けている間に追いついていたリオネルが、窓の外に身を投げたニコルに手を伸ばす。手袋は濡れていて、ニコルが仕掛けた罠を正面から受け止めたことがわかる。けれど、間に合わなかった。
ニコルは二階から白い地面に向かって飛び降りた。ただの落下では怪我をする。高めの位置で水で体を受け止めて、水を滑り台のように変化させながらゆっくり地面に下りて行った。そうして無事に地面に足を付けると、パッパッと服を払った。それだけで濡らしていた水は全て乾いてしまう。
さて、再びリオネルから距離を取ろう、と追手の姿を確認するために二階の窓を見上げて息をのんだ。ニコルに続いて、リオネルまで飛び降りようとしているのだ。
「わ、あああああ!」
王族のリオネルはニコルほど魔法の才に長けているわけではないし、瞬時に応用する訓練もしていない。落下の衝撃を緩和する魔法も咄嗟には思いつかない。
情けない悲鳴を上げながら落ちて来るリオネルに、ニコルは両手を広げた。自分よりも大きな男を抱き止められるわけもないのだが、ニコルも冷静ではなかった。
「リオネル様!」
ぶつかると思った瞬間、リオネルが光に包まれた。瞬きの間に光は小さくなり、そこから銀色の小柄な兎が飛び出した。ニコルが兎だと認識したと同時に、小動物はニコルの胸に体当たりした。意外に強い力で押し倒されてしまった。
「いったた……」
お尻と背中を打ってしまった。ニコルは痛みに顔をしかめた。ぎゅっと強く閉じていた瞼に陰がかかる。
ニコルはゆっくり目を開けた。目の前にリオネルの顔がある。
横たわるニコルの上で、リオネルが四つん這いになっている。リオネルは、ニコルの顔のすぐ横に両手をつき、ニコルを見下ろしている。これでは逃げられそうにない。
「あ、あの、近いです」
ニコルは何とか声を絞り出し、どくように促した。しかし、リオネルは一切動こうとしなかった。それどころか、顔をさらに近づけて来た。
鼻と鼻が触れそうな距離。鼻の先から、静電気に似た小さな刺激が伝わる。椅子から落ちそうになったニコルを助ける為に伸ばされた手と繋がった時に受けた、あの痺れるような痛みを思い出す。
「あれはどういう意味?」
リオネルが怒ったように言う。ドキリとしたのは、語気の強さだけが理由ではなかった。ニコルにとって触れてほしくなかったことだからだ。
「何のことでしょう?」
やはり聞かれていたのだと、現実を思い知らされながらも、ニコルは一度白を切った。ただ、ニコルも多少リオネルのことは理解しているつもりだ。この返答では納得しないであろうことは。
リオネルは誤魔化したがるニコルの思いは無視して、さらに声を大きくして言った。
「いいや、悪いけど聞かなかったことにはしない。君が言ったんだ、相手が僕だったらって。何の相手?」
ニコルは顔を手で覆いたい気分だった。だが、身じろぎすら許されない状況で、体を強張らせるしかなかった。
口を噤んでいても、リオネルは解放してくれない。ニコルは怯えを隠さず、震える声で拒んだ。
「いけません。分不相応な上に、心に描くことすら許されない願いなのです」
リオネルが泣きそうな顔になった。ターコイズブルーの瞳がゆらゆら揺れる。
リオネルはすぅーっと、ニコルにも聞こえるくらい丁寧に息を吸った。そして、再び口を開いた。
「お願い、言って」
今にも涙をこぼしそうな目の下で、唇が笑みの形になる。リオネルがニコルの言葉を待っている。
「私はリオネル様のことが好きで……んっ⁉︎」
言い終える前に、口をふさがれた。二人の唇が触れ合っても、痛みは感じなかった。
三度キスを繰り返した後、リオネルはニコルの左肩に顔をうずめた。
「好きだよ、好き。愛してる」
十年越しの愛を囁いた。




