第6話 「人間に類するモノ」
息を切らし、時折咳き込みつつ、街路を駆け抜けていく。広場付近に比べれば、火の勢いが弱いとは言え、路地には煙が充満し、視界も悪い。ツヴァイヘンダーの足止めのおかげで、追手らしい追手の気配は今のところないが、見つかるのも時間の問題だろう。もたもたしている暇はない。1分でも早く、この街から離脱しなくては。
(にしてもこいつ……見た目の割に、重いな)
左肩には相棒の重みが、そして右肩にはくったりと、深い眠りに堕ちた青年の重みが襲いかかっている。青年は、その華奢な見た目に比べて、ずっしりと重い。かといって、特別筋肉が付いているわけでもない。だらりと垂れる腕は、肉付きが悪く頼りない。
(中を、弄られてる……とか、か?)
Ad-HCがどのような、実験をしているかについては、詳しくは知らない。だが、『酷く汚染された土地でも生き延びることが可能な肉体を開発する』という目的の元に、身体に人工物を埋め込まれ、機械化されていてもおかしくはない。
(目に見えないくらい速く走るって話だし、アリだろう)
ツヴァイヘンダーに目にも止まらぬ速さで、ナイフを突き出していた青年の姿を反芻する。鮮血に染まった金糸と、その向こう側から覗いていた、殺気に満ち、爛々と輝く紫水晶の様な深い紫色の瞳。そして、赤々とした炎に照らされていてもなお、青白く血色の悪い横顔。
(こいつ、まさか)
そこで、ベイオネットはあることに思い当たった。目を見開き、肩に担ぐ青年に視線を向ける。しかし、その顔は金糸に隠され見ることは出来なかった。金糸と共に目に入って来た、細腕はやはり、血色が悪い。
(他人の空似じゃない……ってか?)
その体質故に、囚われの身となってしまった、愛しき存在を脳裏に思い浮かべる。カナリーイエローの、絹の様に細く柔らかで、優しい光を放つ美しい髪と、澄んだ紫水晶のような瞳が印象的だった。その容姿も、まるで、人形のように整っており、肌も雪のように白く、不健康に見える程であった。そして、彼女は、そんな誰もが羨む美貌を持つだけではなく、気立ても良かった。自分には勿体ない程の、存在だった。
だが、彼女は人間ではなかった。人間に似て非なる存在であった。
――Cerussa.
世界には人間と、それに類する存在が居る。人々はその存在を“Cerussa”と呼んだ。姿かたちこそ、人間と相違は無いが、常人よりも肉付きが悪く、酷く血色が悪い。そして、その多くが短命で、走ることすらままならない程虚弱である。しかし、彼らは汚染に対する高い抵抗力を有していた。鉛を核にして構成された血液と、常人のものよりも精度速度共に遥かに優れたDNA修復機構、そして、汚染区域における高い適応力……Ad-HCが欲しがる全てを、彼らは持っていた。
そして、その特異体質故に、彼女は狙われ、そして囚われた。助けることが、出来なかった。
ベイオネットは、思わず拳を握り締める。己の無力さが、何よりも憎かった。
(俺に、全てを捨てる覚悟があれば)
過去の選択を、悔んだところで、何にもならないことは、自分が一番よく分かっている。だが、未だに割り切れずにいた。それが、自分の力ではどうしようもなかったことだとしても。
「Cerussaなんて……冗談じゃないぜ」
運命の皮肉を呪う。だが、それと同時に、何としても守り抜かなくてはという強い思いも生じた。この青年は愛しい人ではない。それは、よく分かっている。街一つを、一夜にして血の海にしてしまった、危険な存在でもある。目を覚まして、また、そんな惨劇を引き起こしてしまう可能性だってある。意思疎通も出来ない程に、“弄られて”しまっている可能性もある。
「……それがなんだ」
彼には、手が届くのだ。守れる場所に居る。惨劇を引き起こしてしまう前に止めれば良い。意思疎通が出来なければ、出来るようになるまで、ひたすら話しかけるだけだ。やれることはいくらでもある。そして、決意する。
「守り抜くためなら、どんな嘘でも吐いてやる」
と。そう口にして、ニッと笑った。
トリアイナより脱出し、夜の荒野を歩く。潜伏先に出来そうなスラムまでは距離がある。普通に歩いて3日は掛かってしまう距離だ。行きに使った貨物列車は流石に、この時間には走らないだろう。
「……し、こいつを連れて乗るわけにはいかねぇからな」
血塗れの青年を、見て溜め息を吐く。臭いも、酷い。濃い血の臭いと、どことなく香ばしい、人の焼けた臭いとが混じり合い、それはもう酷い悪臭だった。
「海は海で磯臭くなっちまうし、川とか池にでも突っ込みてぇところだな」
歩きながら、周囲を観察する。トリアイナへと続く舗装された道が一本、古い線路が一本あるだけで、荒れ果てた大地が、地平線の向こう側まで広がっている。ぽつりぽつりと、粗末な家屋が建ち並んでいるのも見えるが、トリアイナの生き残りが逃げ込んでいた場合、面倒なことになるのは間違いない。第一、上から下まで血塗れになった青年を担いだ武装した男が、こんな夜中に来たら怪しまれるだろう。トリアイナから逃げてきたと言えばいいかもしれないが、政府の追手が訪ねてきたりしたら厄介だ。
「廃屋がありゃ、良いんだけどな」
ベイオネットは、時折、青年が咳き込んでいるのが、気になっていた。耳を澄ますと、微かにヒューヒューという呼吸音が聞こえてくる。
(不味い)
あの熱気と煙の中で、動き回っていたのだ。それだけ、熱気と煙を吸い込んでいる筈だ。気道に熱傷を負っている可能性は十分にある。少しでも早く、挿管する必要があったが、管も無ければ、そんな高度な処置は流石に出来る筈もなく、焦燥感から、舌打ちをする。
「そう簡単に死なせて堪るかよ」
今ここで死ねば、彼は惨劇の主役として、その生を終えることになる。強いられた役目を果たして、政府の操り人形として死んでいく。それだけは、許すわけにはいかない。何としても、阻止しなくてはならないという激情が、ベイオネットの胸を焼き焦がす。その強い思いを胸に、ひたすらに走って、走って走り続けた。惨劇の舞台から少しでも離れるために、血化粧を落とすための水を探しながら、夜の荒野を駆けていく。
どれくらい、走ったのだろう。振り返ってみれば、トリアイナは遠く、赤々とした空がぼんやりと見えるばかりである。臭いも、もう届いては来ない。されど、潜伏先まではまだまだ距離がある。
「血と、この臭いさえどうにかできりゃあな」
潮騒は聞こえてくるが、そこへと流れ出る川は見当たらない。足元を見降ろしても、乾き切ってひび割れた大地が広がっているだけだ。この様子だと、雨は当分降って無いだろう。ふと、ベイオネットは、潮騒が聞こえる方向へと視線を向けた。
「海、か」
血は少しでも早く、落とした方が良い。固まってしまうと厄介だ。そして、青年の喘鳴も、酷くなって来ている。間違いなく、状態は刻一刻と悪化している。海水か淡水か、選り好みしている暇はないだろう。
「……ま、戦場の臭いに比べりゃ磯臭さなんて大したことねえか」
そう言ってベイオネットは、浜辺へと足を向けた。
歩き出してそう経たずに、浜辺に出た。眼前には、紺色の空をそのまま映し出したような、紺青色な海が広がっていた。波が、真白い砂浜に押し寄せては白い飛沫を上げて崩れていく。浜辺に人気はなく、潮騒の音と、自分の足音、そして二人分の息遣い以外は、何も聞こえない。
辺りは、不気味な程に静まり返っていた。
「まずは、血……だな」
周囲への警戒は怠らずに、ベイオネットは青年を砂浜に下ろし、仰向けに寝かせた。慎重に下したが、それでも、青年は激しく咳き込み、喉を鳴らした。無理な体勢を強いられていたのもあるだろうが、やはりその顔色は青白く、見ているだけで、肝が冷えてくる程だ。だが、だからと言って傍に居続けるわけにもいかない。ベイオネットは、腰に下げた鞄から、ガーゼと包帯、そして空の小瓶をいくつか取り出す。そして、それを手に海へと駆けていき、ガーゼと包帯は水に浸し、小瓶には海水を詰めて、また、足早に青年の元へ戻る。そして、濡れたガーゼで、少々荒っぽく、青年を染めている血を落としていく。一度に落とせるのはほんの僅かで、どれほど拭いても、血がガーゼを一瞬にして真っ赤に染めていく。血濡れたガーゼに、小瓶の海水を垂らし、少しガーゼが白さを取り戻したところで、拭いていく。
服を脱がせて、海にそのまま入れた方が、効率良く血も臭いも落とせるということは分かっていたが、ベイオネットはあえてそうしなかった。身体を冷やして、さらに状態が悪化するのを恐れたからだ。
全て落とし終わった頃には、夜が明けていた。それなりに身綺麗になった青年の首には湿った包帯が巻かれている。
「何もしないよりは良いだろう」
あくまで気休めでしかない。依然として、状態は芳しくない。一晩中様子を見ていたが、起きる気配はなく、死んだように深い眠りに落ちているようだ。時折咳をする以外は、身動ぎ1つしなかった。剥き出しの肌は相変わらず血色が悪く死人の様だ。ベイオネットは、自分のジャケットを脱ぎ、青年に着せた。そして、前をきっちり閉じてから、青年を肩に担ぎあげる。
「悪いな。もう少し耐えろよ」
青年の重さと、相棒の重さが堪える程にはベイオネットも、疲れていたが、そう言って、昏々と眠り続ける青年に笑いかけた。そして、再び、潜伏先を目指し歩き出した。