第三話 猪は下りてくる(二)
そして刈り入れが来て、四日のあいだ、谷は金色以外のすべてを忘れた。
働かない者はいなかった。「いなかった」の中には、珍現象まで含まれる。母さんは大畑で日雇いの刈り手をして、男たちが振り返る速さで刈っていた──見せてやりたい。誰より頭半分低いのに、いつも一歩先にいる。鎌が母さんに借金でもしているみたいに。治郎じいさんは切り株に腰掛けて「監督」していた。意見つきの居眠りを、じいさんはそう呼ぶ。そして五郎までも。そう、あの五郎である。実は五郎にはひとつだけ、ひとつっきりの才能がある。束を結わえることだ。何年か前に母親が偶然見つけて、刈り入れのために切り札として温存している。刈った穀物と、畝の終わりに見えるところに飯を置いてやると、五郎は、僕の知る五郎のすべてに逆らう速さで、固く完璧な束を結わえていく。計ってみた。健太の七束のあいだに、五郎は九束。健太は悔しさで半泣きになった。五郎の経済は、それ自体がひとつの研究分野である。栗、ゼロ。束、九。いつか論文を書くつもりだ。
カットと僕は、刈り手のあとをついて落ち穂拾いの組にいた。今年のような年は、地面の一粒も勘弁してもらえないのだ。白状すると、いい日々だった。元村をどう思っていようと関係ない。谷まるごとが一斉に刈るさまは美しい機械で、数える者ですら、ときどき数を忘れる。
──ときどき、だが。日暮れごとに僕は石垣に上がって、畑ごとの刈り高を書きつけた。すると勘定が、ひとりでに歌った。谷じゅうの穀物のほぼ半分が、西の大畑で、束のまま荷車を待って眠っている。元村の富が、ひとかたまりで、匂いを放ちながら──「出られる者」が守る境から、百歩のところに。
四晩続けて、その下に同じ一行を書いた。──提灯よ、保て。
◆ ◆ ◆
「みんなで」の夜番は、束が野に出た最初の晩に始まった。もったいぶるのはやめておく。この筋書きは、皆さんもう読んでいる。栗林で。
一晩目、提灯九つ。ほとんど祭りだった。汁の入った竹筒、小声の歌、物珍しさ。
二晩目、六つ。
四晩目、三つ。うち一つは治郎じいさんで、じいさんは厳密には夜目が利かないのだが、わしの歳になれば目なんぞ買いかぶりじゃ、牙は匂いで分かる、と言い張っている。
六晩目。僕は自分の窓からそれを聞き、灯りなしで書く曲がった字で、暗闇のまま書きつけた。道の上の二つの声。ひとつは西の境から帰ってくる声、ひとつは自分の軒先から出てもいない声。
「今夜は下りんのか」
「あんたの番だと思っとったよ」
「わしが? わしは火曜に下りたぞ」
「なら、誰かが行くじゃろ」
「誰かが行くじゃろ」。いつか元村について本を書くことがあったら、題はこれにする。完璧な台詞だ。誰の口にも収まり、誰の署名も要らず、そして境を、誰も何も言わなかった場合と寸分違わぬ空っぽのままにしておく。「誰か」は、この谷でいちばんの働き者だ。惜しむらくは、実在しない。
その間、僕は、僕という持ち札でやれることをやった。谷は守れない。僕は十二歳で、そのことは寄り合いで痛いほどはっきりさせてもらった。だが東の境は──用水路ぞいの畑の、花田さんちの、うちの窓から三百歩の、あの境は──誰の許しも要らなかった。
カットとミキと三人で、二た晩がかりの夕方仕事で、境の杭と杭のあいだに、牙の胸の高さの縄を張った。そして三軒の家で音の鳴るものを、片っ端からそこへ吊るした。隠居済みの牛鈴が二つ。空の油缶をつないだ数珠。二本一組の古い匙たち。それから、佐藤さんちの死んだ山羊の鈴──これはミキが、相続人の威厳をもって供出した。
ところで缶については、一段落あてる値打ちがある。缶は、応用経済のひと章だからだ。僕は鍛冶屋のおかみさんのところへ、口上を用意して頼みに行った。缶いくつ、用途これこれ、返却保証つき。口上の半分で「缶は鋲用に取ってあるんだよ、坊や」、戸がぴしゃり。半刻後、カットを行かせた。カットは口上を持っていかなかった。入っていって、おかみさんの膝の具合を訊ね、聞いた──本気で、顔じゅうで聞いた。カットの聞き方は、ああなのだ──膝の来歴と、おかみさんの義妹と、雹の年に飼っていた犬の話を、まるごと。そして出てきたときには、缶十六個と、「要り用だろ」の釘ひと掴みと、うちの母さんへの温かい言伝を持っていた。同じ村。同じ戸。同じ頼み。帳面に、新しいページを立てた。題は「カットが手に入れるもの/僕が手に入れるもの」。目下、左の列の圧勝である。仕組みは分からない。だが、良い勘定係は、分からないことも帳面につけるのである。
二日目、両手をポケットに突っ込んで「見るだけ」と現れたダイチは、しまいにはいちばん高い杭に登って、仕上げの結び目を締めていた。出来上がると、カットがふうっと息を吹き、線いちれつが酔っぱらった居酒屋のようにじゃらじゃら歌い、代わる代わる縄に突進して試し牙の役を務めていたノブの双子が、これを正式に「耐えがたい」と認定した。
缶を吊るした縄は、牙を止めはしない。だが一瞬ひるませる。そして何より、谷を起こす。楽団を背負った牙は、もう泥棒ではない。警報だ。
「ねえ、なんでこれ、ぜんぶの境でやらないの?」縄のひっかき傷を舐めながら、ミキが訊いた。
「ぜんぶの境には、みんなの缶が要るからだよ。そして、みんなの缶は、誰かがしまいこんでる」
ミキは、ちいさな顔をまるごと使って考えた。
「……『誰かが行くじゃろ』の、誰か?」
この子は、大物になる。
◆ ◆ ◆
九晩目に、下りてきた。
最初に僕らを起こしたのは風で──西から吹く、重く甘い風だった──次が、蹄の雷だった。水瓶の水を震わせる、あの鈍い連打。一度聞いたら、生涯、何とも聞き間違えない。家じゅうが、ひとつの動きになった。母さんと僕は戸口へ。閂、掛けた。灯り、消した。耳、立てた。元村での牙の待ち方は、こうと決まっている。暗闇で、動かず、数えながら。
僕は数えた。それが、震えないための僕のやり方だ。遠くの突進を数えた。認めたくない木の長い軋みを、数えた。肩に食い込む母さんの指を数えた。五本。いつも五本。轟きのたびに強くなる、五本。
そのとき、雷鳴の上から、それが聞こえた。遠く、甲高く、間が抜けていて、そして栄光に満ちた音──缶と匙と牛鈴の大乱闘、佐藤さんちの死んだ山羊の鈴が、山羊が仕返しに戻ってきたかのように打ち鳴らされている。東の境。僕らの酔っぱらい居酒屋が、ありったけのガラクタで、真夜中のど真ん中で叫んでいた。
それから、人の声。提灯。角笛。谷まるごとが、東へ向かって、一度に目を覚ました。
牙は、音と火のあるところには居座らない。勇敢ではないからだ。腹が減っているだけで、そして空腹は、群衆と交渉しない。谷が灯りきったころには、もう引き上げていた。
西から。入ってきたところから。
「誰か」が守っていた、あの境から。




