第三話 猪は下りてくる(三)
夜明けが、誰もやりたがらない棚卸しをやった。僕はそれを数字に移した。数字は、目を閉じずにものを見るための、僕のやり方だからだ。西の境、二か所で破られ。良平の大畑──刈り入れ済み、束のまま荷車待ち──は、鼻先で耕し返され、束はほどけ、踏まれ、食われ、土とかき混ぜられていた。谷でいちばん良い収穫の、三分の二。共有の下の畑は、半分。
穀倉では、ウメおばさんが共有分の書付け板を抱えて午前を過ごし、助かったぶんを書きつけていた。僕は近くに残った。書付け板というものは、蜜が蠅を引くより強く僕を引く。書き終えると、おばさんはチョークを置いて手首で目をこすり、寄り合い衆に数字を告げるのが聞こえた。小さな声で。二度。一度目には、誰も返事をしなかったからだ。数字の全部は繰り返さない。かわりに、昼前には村を巡りきっていた「訳文」を渡しておく。どんな数字より正確だからだ。──この冬は、薄い粥。そしてその後ろに、もうひとつの訳文。誰も声には出さず、全員が頭の中でやったやつだ。蔵に無いものは、外で買う。外で買うには、この谷に無い銭が、要る。
東の境は、無傷だった。花田さんちの穂は、一本も触られていなかった。缶はまだ吊るされたまま、ひしゃげて曲がって、山羊の鈴は朝日の中で、こころもち英雄めいていた。
村じゅうが、喪中の家の前を通るときのように、黙って西を通っていった。良平は自分の畑の真ん中に、じっと立っていた。ほどけた束をひとつ両手に抱え、汚れた穀粒を指のあいだからこぼしながら。大きくて、穏やかで、働き者の男が、泥にぶちまけられた一家の冬を見ていた。言っただろう。良平が馬鹿なら、怠け者なら、悪人なら、この話はずっと楽だったのだと。そうではないのだ。軒下で、響きのきれいな台詞をひとつ言っただけだ。そして村まるごとがそれに票を入れ、その台詞に、この値段がついた。
誰も、僕を見なかった。これを書くのは、僕が待っていたからだ。九晩のあいだ、怒りと恥の──どっちの列に付けるのか、いまだに分からない混ぜ物を抱えて──待っていた。誰かが僕を見ることを。誰かが「あの子は言うとった」と言うことを。誰も言わなかった。それどころか、いくつものうなじから見て取れた。僕が言い当てていたという事実は、飲み込みを楽にするどころか、いっそう苦くしていた。あの朝、僕は手持ちでいちばん奇妙な勘定を、ひとつ覚えた。──声に出して言い当てることは、人を稼がない。ときどき、人を減らす。
小さなことだけが、二つ、起きた。書きつけておく。小さなことは、僕の専門だから。
一つ目。良平は畑を去るとき、回り道をした。東の境を、ゆっくり通った。縄を見、缶を見、鈴を見ながら。そして誰にともなく訊いた。「これを吊るしたのは、誰だね」。父親の手伝いでそこにいたカットが、僕の名前を言った。あまりに澄んだ、あまりに裏のない誇らしさで言うものだから、どの本にも載っていないどこかが、痛んだ。良平はもうしばらく缶を見ていた。それから一度だけ、頷いた。よく積まれた石垣に頷くように。そして、来た道を帰っていった。頷きは、詫びではない。だが、帳面にはつけた。
二つ目は夜、家でだ。母さんは火のそばで繕い物をしていて──もう西の繕い物だ。災いは、針仕事も連れてくる──針から目も上げずに、言った。
「山羊の鈴、ここまで聞こえたよ」ひと針。「たいした騒ぎだこと」
「あの編成は、音が高すぎるんだ。低いのが足りない。古釜がひとつあれば直る」
母さんは、布に向かって笑った。
「よく数えられるねえ、うちの子は」
そして今度ばかりは、あの皿のときの響きには、聞こえなかった。
◆ ◆ ◆
その明け方、僕は眠らなかった。勘定をした。それは僕の領分だ。ただし生まれて初めて、前へ向かって勘定をした。それは、まったくもって僕の領分ではない。
大畑の三分の二と、共有の畑の半分を失った谷は、締めつけの冬に入る。母さんが搔き集める日銭──刈り手、脱穀、繕い物──は痩せる。村が穀物を失うと、真っ先に削るのは、家の外へ払う銭だからだ。ついたちの返し回りは、これからも出る。あの人の勘定は、あの人のものだから。だが、痩せて出ることになる。計算は三度やった。楽観の、中間の、本当の、三通りの見積もりで。来たる冬の歩みでは、金貨十四枚と端数が消えるまでに──何年もかかる。あかぎれの手の、何年もだ。正確な数字は、ここには書かない。数字には、貸せないものがあるのだ。
そして、すべての勘定の底で、何週間も僕の周りをうろついていた結論が、あの夜とうとう帳面に、一字残らず、腰を下ろした。
元村では、いくらでも働ける。できないのは、稼ぐことだ。
ここでは銭は素通りの客だと、最初の日に言った。ここでは取り替えっこをし、繕い、しのぐ。ここで本物の銭は、年に一度、昼前には首を振り振り帰っていく買付人の荷車に乗って入ってくるだけだ。閉じた谷とは、そういう場所だ。──一生かけて身を粉にして、すこしだけゆっくり負けるための場所。
音を立てずに起き、藁床の下から、古い帳面の箱を出した。ぜんぶ取ってある。八つのときの、ばかでかい字の、厚紙表紙のやつ。雨漏りの年のやつ。退屈しのぎに霜焼けを数えた冬のやつ。月明かりで一冊ずつ、一ページずつめくった。そして、見ることを商売にしているはずのこの僕が、いままで一度も見ていなかったことに、気づいた。僕の帳面は、ぜんぶ──最初の一冊から、一冊残らず──引き算の帳面だった。満ちなかった袋。下りなかった提灯。山に食われた穀物。足りない金貨。五冊の帳面が、僕のいちばん上等の字で、世界一の精度で測っていた。僕らが、どれだけを、どの速さで、失っていくかを。
引き算の勘定係。今日までの僕は、それだった。
箱をしまい、新しい帳面を膝に載せたまま、僕は奇妙な飢えを感じた。腹のではない飢えだ。別の帳面を始めたい、という飢え。勘定が、上へ向かっていく帳面を。
そしてその帳面のためのページは、この谷のどこにもない。それも、あの夜、世界一の精度で見えた。
窓辺に寄った。月が白く塗っていた。屋根瓦を、石垣を、経済とは無縁のまま「一」「二」「三」の眠る菜園を。そして奥に、黒い山々のあいだを縫って上っていく道が見えた。灰色の、縫い糸のように細い、道。
出ていく道は、ただ一本。
鉛筆を握り、帳面を開いたまま、長いことそれを見ていた。なにも、書かずに。
勘定というものには、やる前の晩に、もう済んでいるものがある。
(第四話「谷を出る道」へつづく)




