第二話 一枚多い皿(三)
回りは、よそ行きの手ぬぐいと布袋と、村が顔を洗って僕らを迎えたみたいに屋根を金色にする秋の日差しで始まった。誰も顔なんか洗っていない。念のため。ただ、お日さまが、できる限りのことをしてくれていた。
一軒、また一軒、母さんは月ぎめのぶんを渡していく。そして僕は一歩後ろで、何年も欄でしか知らなかったものを、ようやくこの目で見ていった。──取り立てたくない借りを取り立てるときの、人の顔を。
そこが、欄には載らない部分なのだ。僕は、固い取り立て人と、突き出された手と、冷たい戸口を見ることになると思っていた。実際に見たのは、目のやり場を失くした村まるごとだった。鍛冶屋のおかみは、地面を見ながら青銅貨三枚を受け取って、母さんの布袋に卵を二つ、乱暴に、抗議させる隙もなくねじ込んだ。四十七枚の割れ瓦の水車小屋の、佐吉じいさんは、銭を手のひらに長いこと載せたまま──火傷でもするみたいに──歯の間から言った。「今月は、要らなかったんだがな、ハナ」。そして母さんは、どの戸口でも同じ返事をした。背筋を伸ばし、声を澄ませて、恥の影もなく、誇りの影もなく──その二つを同時にやる方法は、誰か僕に説明してほしい。
「わたしの勘定は、わたしのものだから」
そしてどの戸口でも、僕らが背を向けると、うなじに同じものを感じた。村の目が僕らを追い、目の後ろで、ひそひそ声が稲穂みたいにかがむのを。──あのひび割れた手から、十年間、毎月一日に受け取ってきた、同じ人たちが。
治郎じいさんの戸口は違った。治郎じいさんが、違うからだ。
叩く前に開けてくれた──足音で誰が来たか分かると言い張っていて、母さんの足音は「道に詫びながら歩く音」だそうだ──銭を何の儀式もなしに受け取り、僕らの目の前で手のひらに数えた。一枚ずつ、唇を動かして。そして裁定を下した。
「ぴったりだ。いつもどおり」帯に銭をしまい、顎で僕を指して付け足した。「で、こいつは。九の段はもう言えるのか」
「十二の段まで」
「ふん。わしがおまえの歳にゃ、十五の段まで言えたわ」──嘘である。治郎じいさんとは計算をしたことがある。七の段で迷子になる──「ハナ、土曜にな、鶏小屋の戸が傾いだ。見に来てくれ。おまえは蝶番に目が利く。卵を半ダース持って行け。今年の鶏どもは、どうかしとる」
「行きます」と母さんは言った。
「なら、それでいい」──そして僕らの鼻先で戸を閉めた。治郎じいさんは、別れの挨拶をしない。切断するのだ。
じいさんの坂を下りながら、一つの勘定が、いい勘定が落ちてくるときのやり方で、どすんと落ちてきた。──治郎じいさんは、村でただ一人、母さんから取り立てるときに、何の顔もしなかった人なのだ。憐れみも、気まずさも、伏せた目もなし。自分のぶんを取り立て、仕事を一つ頼み、報酬を一つ約束した。全部を同じ一息で。誰にでもするように。
誰にでもするように。どこかに書き留めておいてほしい。──人にしてやれるいちばん優しいことは、ときに、その人を普通に扱うことである。治郎じいさんがなぜ、谷じゅうで母さんのいちばんのお気に入りなのか、僕は何年も分からなかった。あの下り坂で、勘定が合った。
最後の戸口では、栗林のあれが起きた。──ただし、逆向きに。
ウメおばさんの家だった。前掛け姿で、寝足りない顔で戸を開けて──詰まらなかった袋を一晩じゅう数えていたのだろうか、と僕は思った──母さんが月ぎめのぶんを差し出すと、ウメおばさんは、子どもみたいに両手を背中に隠したのだ。
「今月はいいよ、ハナ。今月は置いときな。刈り入れでこれから大変だってのに、あんたは子持ちで……」
「わたしの勘定は、わたしのものだから」母さんは、どの戸口とも同じ澄んだ声で言い、鳥を巣に戻すときの柔らかさで、おばさんの手に銭を載せた。
そして、僕が僕の一手を打った。前の晩から、小さな塔ごと計画してあった一手だ。僕は自分の銅貨五枚を──いや、六枚だ。鉛筆は待てるし、母さんは証人たちの前で僕に逆らうには忙しすぎた──取り出して、一枚ずつ、上に積んだ。チャリン、チャリン、チャリン、チャリン、チャリン、チャリン。
「栗林のぶん」と僕は言った。「同じ勘定に入れてください」
妙な静けさが落ちた。ウメおばさんは僕を見て、銅貨を見て、母さんを見た。そしてその顔を、この順番で通り過ぎていくのが見えた。驚き。憐れみに似た何か。そして最後に、僕には測れなかった何か──顔は専門外だと言っただろう。分かるのは、おばさんが銭を、全部まとめて、ゆっくり手の中に握り込んだこと。そして、袋を数えているときでさえ聞いたことのない声で、こう言ったことだけだ。
「……この子は、見かけより多くのものを数えてるんだねえ、ハナ」
「生まれたときからだよ」と母さんは言った。
なぜだか、それは、生まれてこのかた僕がもらった、いちばん大きな褒め言葉に聞こえた。
◆ ◆ ◆
帰りは石垣ぞいの道を、ゆっくり歩いた。空になった布袋と、おまけの卵二つと一緒に。母さんは黙っていた。いい種類の黙り方で。僕は頭の中で新しい勘定をやっていた。それが僕の黙り方だ。
訊いたのは、そのときだった。父さんのことじゃない──あの問いは閉じている──もう一つのほう。何年も研いできたほうだ。
「母さん。あの行商人のこと」僕は唾を飲んだ。「……憎くないの」
母さんは歩き続けた。谷を見ていた。その時刻の谷は一面の古い金色で、刈った区画と、まだの区画があって、まわりの山々がいつもどおり、何の意見も言わずに、全部を抱えていた。
「母さんはねえ」と、ようやく言った。「きっとあの人は、うちらより、あれが要る人だったんだろうと思うよ」
僕は道の真ん中で立ち止まった。
僕の帳面を探してみてほしい。何なら、全部の帳面を。ボール紙表紙のから、いまのまで。あの一言を入れられる欄も、勘定も、表も、数字も、存在しない。知っている限りの方法で処理を試みた。──入らないのだ。風を足し算しようとするのと同じだ。あの男は母さんから、貯えと、静かな名前と、十年ぶんの手を奪って、空いた椅子一つと、首にくくった金貨三十一枚の石を残していった。それなのに母さんは、秋の日差しの下を歩きながら、あの男に、要するに──役に立っていればいいね、と願うのである。
母さんは僕の顔を見て、笑った。本当に笑った。上を向いて、石垣の雀を二羽飛び立たせて。それから僕の肩に腕を回して、石鹸と毛糸の匂いのする脇に、ぎゅっと引き寄せた。
「ほら、帰るよ、帳簿係さん。今夜は卵があるからね」
帰った。卵があった。一人に一つずつ。そして一枚多い皿が、いつもの場所に、洗い立てに光って、その「誰か」を待っていた。
あの夜、最後のページの古い数字に線を引いて、新しいのを書いた。金貨十四枚、銀貨二枚、青銅貨二枚。昨日より、銅貨六枚少ない。銅貨六枚なんて、無の千分の一だと、割り算のできる人なら誰でも言うだろう。
僕だって割り算はできる。それでも僕は、指二本ぶんの鉛筆の切れ端を握りしめて、金細工師の手つきで、その数字を書いた。
勘定には、いくら減ったかではなく、誰が押しているかで量るものが、あるからだ。
外で、風が変わった。谷から吹く風で、積み荷があった。──熟れた穀物の匂い。甘くて、広くて、空に書かれた招待状みたいに、暗い山々へ登っていく。
刈り入れどきが、来たのだ。
そしてあの山々のどこかで、牙を持った何かが、いま、鼻づらを持ち上げた。
(第三話「猪は下りてくる」へつづく)




