第二話 一枚多い皿(二)
戦は、いつもどおり、汁のおかわりの二杯目から始まった。
「銅貨はあんたのものだよ」母さんは指一本で、小さな塔を僕のほうへ押した。「あんたが稼いだんだから」
「勘定に入れる」僕は塔を押し返した。
「陽太」
「母さん」
「鉛筆、もうないだろう」母さんは顎で、僕の耳の後ろの切れ端を指した。削りに削って、もう指二本ぶんもない。「一枚は鉛筆をお買い。上等の、芯の固いやつを。残りの五枚は……まあ」
「まあ、何」
「まあ、おいおいね」
「おいおいね」は、母さんの言葉で「あんたが見ていないときに、あんたに何か買うためにしまっておく」という意味だ。知っている。だから僕は、いつも一手先を打つ。
「取引だ」と僕は言った。「一枚は鉛筆。五枚は勘定へ。そして明日、母さんの回りに、僕もついて行く」
母さんの匙が、途中で止まった。
回り。毎月一日、母さんはよそ行きの手ぬぐいをかぶり、こつこつ貯めた銭の布袋を持って──青銅貨が主で、銅貨がたくさん、奇跡の月には銀貨も──村を一軒一軒めぐって、払っていく。僕が物心つく前からだ。僕は一度もついて行ったことがなかった。行きたくなかったからじゃない。母さんがいつも、回りの日が、僕が川にいる日か、山にいる日か、寝ている時間に当たるように、どうにかしてしまうからだ。何年も偶然だと思っていた。やがて学んだ。うちでは、偶然は母さんが縫うのだ。繕い物と同じ、見えない針目で。
「あれはねえ、とっても退屈な散歩だよ」母さんは、軽く聞こえるはずの声で言った。
「八つのときから帳面をつけてるんだよ、母さん。どの戸口にいくらあるか、僕は知ってる」
沈黙が落ちた。熾の中で栗が、話の腰を折ったのを詫びるみたいに、ちいさくはぜた。
「……つけてるのは、知ってるよ」母さんはようやく、小さな声で言った。銅貨の塔を見て、それから僕を見て、顔の中で何かが変わった。何が、とは言えない。顔は僕の専門ではないから。ただ、ずっと細く開いていた戸が、指二本ぶん、余計に開いたような感じだった。「──いいよ。明日は一緒においで。でも鉛筆は買うこと。それは譲らないよ」
「取引成立」
僕らは汁の上で、うんと厳かに握手した。それから母さんは立って栗を取り出し、指先を火傷しながら皮をむいて、きっかり半分に割った。一人に半分ずつ。──栗は、母さんのものだったのに。
うちでは、取引はこうやって署名する。自分のものだったものの、半分で。
◆ ◆ ◆
さて。腹に温かいものが入ったから、かけらを集めて組み上げた話をしよう。
事が起きたとき、僕は二歳だった。だから何も憶えていない。あの男のことも、お守りのことも、その後の冬のことも。知っていることは全部、何年もあとに、一語ずつ釣り上げたものだ。そして最初に持った帳面──ボール紙表紙の、今見ると恥ずかしくて誰にも見せる気のない、ばかでかい曲がった字のやつ──に、書きつけていった。
整理すると、こう書いてある。
一。ある年、刈り入れの少し前、谷に行商人が来た。よそ者で、身なりが良く、話のうまい類の男。誰も顔をよく憶えていない。全員が憶えているのは、感じのいい男だったということだ。──以来僕は、感じのいい人間を疑うようになった。ええ、それが僕という人間について何を語るかは、分かっています。どうも。
二。男が売っていたのは、お守りだった。牙除けの護符。畑の境に吊るせば、獣は越えて来ない、と。そしてここに、僕に欠けていて、いまも欠けているかけらがある。元村の人間は馬鹿ではない──別の何かだ。まだその言葉を僕は持っていない──そして、何も見ずに煙を買ったりはしない。何かを見たのだ。あの数日のあいだに何かが起きて、村ひとつを丸ごと「お守りは効く」と信じさせた。何が、と千回訊いた。千通りの、噛み合わない答えが返ってきた。試しがあったとか、襲われない日が続いたとか、あの男には分かる術があったとか。この一片が、僕にはない。何年も探した。これが僕の棘だ。──欠けた一片は、四六時中痛むわけじゃない。だが、考えをそこに預けるたび、夜ごとに、必ず触れる。
三。母さんは、信じた。これは最良の出どころから知っている。母さんが逃げずに、正面から話してくれた数少ないことの一つだからだ。「信じたんだよ。誰よりも先に、誰よりも深く」。そして人々は母さんを愛していたから──あの頃すでに愛されていて、いまも愛されている。ただし、あの妙な、声をひそめるやり方でだが──母さんの信心は二十人分の値打ちがあった。一軒、また一軒、母さんが谷を説いて回った。すべての畑境のぶんのお守りが買われた。支払いは、あるもので払われた。──貯えを持ったことのない村の、貯えで。
四。刈り入れが来た。刈り入れとともに、熟れた穀物の匂いが山を登った。そして牙は、いつも下りてきたように下りてきた。お守りが、その正体のとおりのもの──紐にぶら下がった、色を塗った木切れ──であるかのように。
五。あの年は、悪い年ではなかった。あの年は、のちのすべての悪い年たちの、親になった年だ。そして、あの惨状のさなかに──ここはゆっくり書く。数字には、他より重い数字があるからだ──人がひとり、死んだ。村の人だ。お守りをあまりに信じて、あの夜、自分の畑境の見張りをしなかった。名前はここに書かない。元村では、その人の名は声に出して言わないからだ。別の言い方をする。洗い場のそばに、その人が植えた李の木が一本あって、毎年夏に実をつける。そして村じゅうが、誰ひとつもがずに、実が熟れて落ちるに任せる。この村では、その人の名前はそうやって発音される。──誰も触れない李の実で。
六。行商人の消息は、それきり知れない。貯えの消息も。
七。母さんは一軒一軒回って──これは治郎じいさんが教えてくれた。母さんは、これだけは絶対に話さないから──言った。わたしを信じたせいで谷が失ったものは、わたしが返します、と。誰も証文を書かせなかった。求めもしなかった。母さんはその冬から払い始めた。赤ん坊を──つまり僕を──背中にくくりつけて。
八。元の勘定。じいさんの話と二年がかりの聞き込みから僕が復元した額──金貨、三十一枚。文字で書いておく。金貨三十一枚。いい年でも、一家がまるごと一年で目にする金貨が二枚の谷で、である。
九。いまの帳面の最後のページ、昨晩付けの、生きている数字──金貨十四枚、銀貨二枚、青銅貨八枚。
十。僕の父は、その時分に、元村を出て行った。
十番については、帳面にそれ以上の行はない。うちには椅子が三つあって、家族は二人だ。それはもう言った。生まれてから四回訊いた──五歳のとき、七歳、九歳、十一歳。四回とも母さんは微笑んで、僕の額から髪を払って、あんまり優しく別の話を始めるものだから、答えてもらえなかったと気づくのに、しばらくかかった。五回目は、していない。訊く値打ちより高くつく問いというものがあって、その勘定だけは、一回で覚えた。




