第九夜:ただひとつのぬくもり
ある日曜の午後。
カラン、と控えめにサロンの扉が開く音がして、お待ちしていたお客様が姿を見せた。
「香坂先生っ!」
「こんにちは」
高校時代の茶道部の顧問であり、今はもう定年退職されている香坂先生。
おっとりとしていて、まるで自分の祖母のように甘えたくなるほどの、深い安心感を抱かせてくれる人だ。
茶道部への入部を決めたのは、週二回の活動という気軽さと、季節の美味しいお茶菓子が食べられるという不純な動機――そして何より、この香坂先生がいるからという理由だ。
「今日は、どうしますか?」
「いつもと同じで、お願いしたいわ」
「はいっ。では、シャンプーから始めさせてもらいますね」
アシスタント時代からずっと私のところに通い続けてくれている、大切な常連さんだ。
◇
シャキッ、シャキッ。
ハサミの音を響かせながら、丁寧にカットしていく。
「見るたびに、幸せそうね」
鏡越しに、目尻の皺をさらに下げて、先生がふんわりと微笑んだ。
「……ええっ? そうですか?」
「きっと、旦那さんと楽しい毎日を送っているのね」
手元を動かしながら、少しだけ照れくさくなる。
高校時代、部活を引退してからも、何かと理由をつけては茶室に入り浸っていた。
秋の文化祭でハルと出会ってから、夜に電話が来たり、遊びに誘い出されたり。
一緒にいると楽しいし、ドキッとさせられることもあったけれど、当時は『二歳差』という壁がどうしても大きく感じられ、これは恋ではないと言い聞かせていた。
そんなとき、先生の旦那さまも二つ年下だと知り、藁にもすがる思いで自分の気持ちを相談するようになったのだ。
後輩たちから呆れられるほど頻繁に茶室へ通い詰めていたせいか、先生にとっても私の存在は印象深かったらしい。
就職の報告を機に、こうして足を運んでくれるようになった。
「……先生の旦那さんって、やきもちとか焼きます?」
少し前、自分が妬いてしまったこと(正確には、妬いたと無理やり認めさせられたこと)は棚に上げ、普段のハルの異常なまでの嫉妬深さを思い出し、尋ねてみた。
「ええ、焼くわよ。結構しつこいのよね」
「えっ、そうなんですか! どうやって対処されてますか?」
カットに集中しながらも、思わず身を乗り出してしまう。
「ふふ。そうねえ……」
穏やかに相槌を打ってくれたり、そっと自分の話を共有してくれたりする先生と話していると、高校時代に戻ったような錯覚に陥る。
◇
「――っていう感じで。いまだにちょっとしたことで怒ってばかりなんですよ。もう、高校生でもないのに」
私がひとしきり愚痴めいたエピソードをこぼすと、先生はふふっと上品に笑った。
「あなたのことが好きで仕方ないのよ。きっと、五十年後もそのままね」
「えー。長いなあ」
呆れたように笑いながら、ハッとする。
サロンに来てくれたお客さまには、髪を整えるだけでなく、少しでも日常の疲れをリフレッシュしてほしい。
だからこそ、相手の話を自然と引き出せるよう、聞き役になることを心がけているのに。
先生が聞き上手すぎるせいで、いつも気づけば私のほうが夢中で話し込んでしまっているのだ。
◇
あたたかい時間はあっという間に過ぎ、出口までお見送りをする。
「今日も素敵に仕上げてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、いつも来ていただいてありがとうございます! また来月、お会いできるのを楽しみにしてますね」
「ええ、私も。今日も、遅くまでいるの?」
「あっ。実はもう、上がらせてもらうんです。このあと……用事がありまして」
「あら、そうなの。終わったら、ゆっくり休んでね」
西日の差し込む入り口で、ふんわりと手を振って帰っていく背中を見送った。
土曜日に比べれば落ち着いているとはいえ、週末である日曜日に最後まで残れないのは、他のスタッフに申し訳ない。
けれど、今日はどうしても外せない、大切な予定が控えているのだった。
◇
駅の改札前。
シンプルなTシャツにチノパンを合わせ、縁の細い眼鏡をかけた休日モードのハルが立っていた。
私に気づき、その顔を上げる。
「ごめんっ。お待たせ」
「ん」
短い返事とともに改札を抜ける背中を追いかけると、ふわっと微かな塩素の匂いがした。
休日である今日は、この待ち合わせの前にプールへ寄ってきたらしい。
幼少期から大学まで続けていた水泳を、今でもこうして時折の息抜きにしているのだ。
隣に並ぶとすぐに、大きな手のひらが差し出された。
指先を絡ませながら、ホームへの階段をのぼっていく。
郊外へ向かう下り電車は、週末の夕暮れ時ということもあって空いている。
ここから揺られること、一時間。
目的地は――私の実家だ。
車体が小さく揺れ、滑るように駅を出発する。
「今日ね、香坂先生が来てくれたんだ」
「あー。元気だった?」
「うん、変わらず。旦那さんもお元気だって」
単調な走行音に紛れるような、他愛のない会話。
繋がれた手は、彼の膝の上に置かれている。
いつもより少しだけ、優しい力強さを感じた。
◇
住宅街を抜け、見慣れた扉の前に立つ。
インターホンを鳴らすと、すぐに足音が近づいてきた。
「いらっしゃい! 二人とも」
勢いよく顔を覗かせたのは、父だ。
「マナとハルくん、来たぞー」
奥のリビングに向かって、嬉しそうに声を投げている。
就職を機に一人暮らしを始めてから、もう七年。
玄関を開けたときの、この家特有の木の匂いは、ちっとも変わらない。
靴を脱いで上がると、弟のアキラがソファに寝そべりながらテレビを眺めていた。
視線だけをこちらに向け、「おっせーぞ」と言ってくる。
「ごめーん。仕事だったから」
軽くお詫びする。
ダイニングテーブルは、すでに夕飯の支度が済んでいた。
荷物を置き、ハルを連れて洗面所で手洗いを済ませて戻ると、キッチンカウンター越しに父がお皿を差し出してきた。
「これ、お母さんにあげてくれる?」
透き通った青いガラス皿の上には、艶やかな苺が乗っている。
「うん」
そっと受け取り、和室の仏壇へと向かう。
母が一番お気に入りだったそのお皿を、傷を付けないようコトッと大切に供えた。
「はい、お母さん」
写真の中の柔らかい微笑みは、私が小学六年生だったあのときから、ずっと変わらない。
「お線香、あげる?」
静かな足音とともに、ハルが隣に腰を下ろした。
頷いて、和ろうそくに火を灯す。
束から抜き取った二本のお線香に火を移し、手で煽いで赤い火種だけを残した。
一本を彼に手渡し、それぞれ香炉の灰にそっと立てる。
ゆっくり立ち昇る、ひとすじの煙。
白檀の香りが、空間に溶けていく。
真鍮のおりんを棒で軽く叩くと、澄んだ音が響いた。
目を瞑り、静かに手を合わせる。
少ししてそっと瞼を開けると、隣にある端正な横顔は、まだ目を閉じたままだった。
ハルはいつも、私よりも長くそうしている。
祈ってくれているのだろうか。
母に、何かを伝えてくれているのだろうか。
「マナもハルくんも、ありがとうな。さあ、冷めないうちに食べよっか」
エプロン姿の父に声をかけられ、テーブルへと向かった。
十五年という節目ではあるが、生前の母の要望どおり法事は行わず、毎年同様、家族だけで美味しい食事を囲む。
今日のメインは、母が一番好きだったメニューでもある、ハンバーグ。
いつの間にか料理が一番の趣味になった父の腕前は、今や驚くほどレパートリーが広く、味も絶品だ。
今回はなんと三日もかけてデミグラスソースを煮込んだらしく、洋食屋にも負けないような深い香りが部屋中に漂っていた。
「……うま。父さん、店でもやれば?」
普段は口数少ないアキラも、素直に褒める。
「だろ? ハルくんも、遠慮せずにおかわりしてな」
「はい。美味しいです」
「ハル、ハンバーグ好きだもんね?」
別にお子様扱いしたつもりはないのだけれど、ジロリと見られて、小さく笑った。
母がいなくなってから、父と弟と三人で、お互いを笑わせ、支え合ってきた。
だから、自分を不幸だと感じたことはないけれど、ただひとつのぬくもりだけは、たしかに欠けていた。
あたたかいダイニングで、隣の気配に安心する。
この日に、こうして一緒にいてくれるハルは、私を自然な笑顔にさせてくれる。
その事実に、深く、静かに満たされるのだった。




