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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第二章

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9/24

第九夜:ただひとつのぬくもり

 ある日曜の午後。

 カラン、と控えめにサロンの扉が開く音がして、お待ちしていたお客様が姿を見せた。


「香坂《こうさか》先生っ!」


「こんにちは」


 高校時代の茶道部の顧問であり、今はもう定年退職されている香坂先生。

 おっとりとしていて、まるで自分の祖母のように甘えたくなるほどの、深い安心感を抱かせてくれる人だ。


 茶道部への入部を決めたのは、週二回の活動という気軽さと、季節の美味しいお茶菓子が食べられるという不純な動機――そして何より、この香坂先生がいるからという理由だ。


「今日は、どうしますか?」


「いつもと同じで、お願いしたいわ」


「はいっ。では、シャンプーから始めさせてもらいますね」


 アシスタント時代からずっと私のところに通い続けてくれている、大切な常連さんだ。


 ◇


 シャキッ、シャキッ。


 ハサミの音を響かせながら、丁寧にカットしていく。


「見るたびに、幸せそうね」


 鏡越しに、目尻の皺をさらに下げて、先生がふんわりと微笑んだ。


「……ええっ? そうですか?」


「きっと、旦那さんと楽しい毎日を送っているのね」


 手元を動かしながら、少しだけ照れくさくなる。



 高校時代、部活を引退してからも、何かと理由をつけては茶室に入り浸っていた。


 秋の文化祭でハルと出会ってから、夜に電話が来たり、遊びに誘い出されたり。

 一緒にいると楽しいし、ドキッとさせられることもあったけれど、当時は『二歳差』という壁がどうしても大きく感じられ、これは恋ではないと言い聞かせていた。


 そんなとき、先生の旦那さまも二つ年下だと知り、藁にもすがる思いで自分の気持ちを相談するようになったのだ。

 後輩たちから呆れられるほど頻繁に茶室へ通い詰めていたせいか、先生にとっても私の存在は印象深かったらしい。

 就職の報告を機に、こうして足を運んでくれるようになった。


「……先生の旦那さんって、やきもちとか焼きます?」


 少し前、自分が妬いてしまったこと(正確には、妬いたと無理やり認めさせられたこと)は棚に上げ、普段のハルの異常なまでの嫉妬深さを思い出し、尋ねてみた。


「ええ、焼くわよ。結構しつこいのよね」


「えっ、そうなんですか! どうやって対処されてますか?」


 カットに集中しながらも、思わず身を乗り出してしまう。


「ふふ。そうねえ……」


 穏やかに相槌を打ってくれたり、そっと自分の話を共有してくれたりする先生と話していると、高校時代に戻ったような錯覚に陥る。


 ◇


「――っていう感じで。いまだにちょっとしたことで怒ってばかりなんですよ。もう、高校生でもないのに」


 私がひとしきり愚痴めいたエピソードをこぼすと、先生はふふっと上品に笑った。


「あなたのことが好きで仕方ないのよ。きっと、五十年後もそのままね」


「えー。長いなあ」


 呆れたように笑いながら、ハッとする。


 サロンに来てくれたお客さまには、髪を整えるだけでなく、少しでも日常の疲れをリフレッシュしてほしい。

 だからこそ、相手の話を自然と引き出せるよう、聞き役になることを心がけているのに。

 先生が聞き上手すぎるせいで、いつも気づけば私のほうが夢中で話し込んでしまっているのだ。


 ◇


 あたたかい時間はあっという間に過ぎ、出口までお見送りをする。


「今日も素敵に仕上げてくれて、ありがとう」


「こちらこそ、いつも来ていただいてありがとうございます! また来月、お会いできるのを楽しみにしてますね」


「ええ、私も。今日も、遅くまでいるの?」


「あっ。実はもう、上がらせてもらうんです。このあと……用事がありまして」


「あら、そうなの。終わったら、ゆっくり休んでね」


 西日の差し込む入り口で、ふんわりと手を振って帰っていく背中を見送った。


 土曜日に比べれば落ち着いているとはいえ、週末である日曜日に最後まで残れないのは、他のスタッフに申し訳ない。

 けれど、今日はどうしても外せない、大切な予定が控えているのだった。


 ◇


 駅の改札前。

 シンプルなTシャツにチノパンを合わせ、縁の細い眼鏡をかけた休日モードのハルが立っていた。


 私に気づき、その顔を上げる。


「ごめんっ。お待たせ」


「ん」


 短い返事とともに改札を抜ける背中を追いかけると、ふわっと微かな塩素の匂いがした。

 休日である今日は、この待ち合わせの前にプールへ寄ってきたらしい。

 幼少期から大学まで続けていた水泳を、今でもこうして時折の息抜きにしているのだ。


 隣に並ぶとすぐに、大きな手のひらが差し出された。

 指先を絡ませながら、ホームへの階段をのぼっていく。



 郊外へ向かう下り電車は、週末の夕暮れ時ということもあって空いている。


 ここから揺られること、一時間。

 目的地は――私の実家だ。


 車体が小さく揺れ、滑るように駅を出発する。


「今日ね、香坂先生が来てくれたんだ」


「あー。元気だった?」


「うん、変わらず。旦那さんもお元気だって」


 単調な走行音に紛れるような、他愛のない会話。


 繋がれた手は、彼の膝の上に置かれている。

 いつもより少しだけ、優しい力強さを感じた。


 ◇


 住宅街を抜け、見慣れた扉の前に立つ。

 インターホンを鳴らすと、すぐに足音が近づいてきた。


「いらっしゃい! 二人とも」


 勢いよく顔を覗かせたのは、父だ。


「マナとハルくん、来たぞー」


 奥のリビングに向かって、嬉しそうに声を投げている。


 就職を機に一人暮らしを始めてから、もう七年。

 玄関を開けたときの、この家特有の木の匂いは、ちっとも変わらない。


 靴を脱いで上がると、弟のアキラがソファに寝そべりながらテレビを眺めていた。

 視線だけをこちらに向け、「おっせーぞ」と言ってくる。


「ごめーん。仕事だったから」


 軽くお詫びする。

 ダイニングテーブルは、すでに夕飯の支度が済んでいた。


 荷物を置き、ハルを連れて洗面所で手洗いを済ませて戻ると、キッチンカウンター越しに父がお皿を差し出してきた。


「これ、お母さんにあげてくれる?」


 透き通った青いガラス皿の上には、艶やかな苺が乗っている。


「うん」


 そっと受け取り、和室の仏壇へと向かう。



 母が一番お気に入りだったそのお皿を、傷を付けないようコトッと大切に供えた。


「はい、お母さん」


 写真の中の柔らかい微笑みは、私が小学六年生だったあのときから、ずっと変わらない。


「お線香、あげる?」


 静かな足音とともに、ハルが隣に腰を下ろした。


 頷いて、和ろうそくに火を灯す。

 束から抜き取った二本のお線香に火を移し、手で煽いで赤い火種だけを残した。

 一本を彼に手渡し、それぞれ香炉の灰にそっと立てる。


 ゆっくり立ち昇る、ひとすじの煙。

 白檀の香りが、空間に溶けていく。


 真鍮のおりんを棒で軽く叩くと、澄んだ音が響いた。


 目を瞑り、静かに手を合わせる。

 少ししてそっと瞼を開けると、隣にある端正な横顔は、まだ目を閉じたままだった。


 ハルはいつも、私よりも長くそうしている。

 祈ってくれているのだろうか。

 母に、何かを伝えてくれているのだろうか。


「マナもハルくんも、ありがとうな。さあ、冷めないうちに食べよっか」


 エプロン姿の父に声をかけられ、テーブルへと向かった。



 十五年という節目ではあるが、生前の母の要望どおり法事は行わず、毎年同様、家族だけで美味しい食事を囲む。


 今日のメインは、母が一番好きだったメニューでもある、ハンバーグ。

 いつの間にか料理が一番の趣味になった父の腕前は、今や驚くほどレパートリーが広く、味も絶品だ。

 今回はなんと三日もかけてデミグラスソースを煮込んだらしく、洋食屋にも負けないような深い香りが部屋中に漂っていた。


「……うま。父さん、店でもやれば?」


 普段は口数少ないアキラも、素直に褒める。


「だろ? ハルくんも、遠慮せずにおかわりしてな」


「はい。美味しいです」


「ハル、ハンバーグ好きだもんね?」


 別にお子様扱いしたつもりはないのだけれど、ジロリと見られて、小さく笑った。


 母がいなくなってから、父と弟と三人で、お互いを笑わせ、支え合ってきた。

 だから、自分を不幸だと感じたことはないけれど、ただひとつのぬくもりだけは、たしかに欠けていた。


 あたたかいダイニングで、隣の気配に安心する。

 この日に、こうして一緒にいてくれるハルは、私を自然な笑顔にさせてくれる。

 その事実に、深く、静かに満たされるのだった。

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