第十夜:一秒でも長く触れていたい
水が混ざり合う音だけが、くぐもって耳に響く。
無重力の中を滑るように、搔き分けて進む。
朝、サロンへ向かうマナを見送ったあと。
溜まっていた仕事を自宅で少し片付けてから、馴染みのスイミングクラブへと足を運んでいた。
幼少期から大学まで続けていた水泳。
選手を目指していたわけではないが、学校の部活には入らずにスクールへ通い続けていた。
水の中に溶け込んでいる時間が、ただ純粋に好きだったのだ。
◇
シャワーを浴びて着替えを済ませ、エントランスに向かっていたときだった。
「おっ? 幹本か?」
受付の近くで、背後から声をかけられた。
振り返ると、よく日焼けした肌にスポーツウェアを合わせた男が立っている。
「……あ。お疲れ様です」
大学時代に世話になっていた専属コーチだった。
十歳ほど年上で、やたらとテンションが高く暑苦しい反面、元選手だけあって的確な指導をしてくれる人だった。
「久しぶりだなあ。最近よく来てんの?」
「週末、たまに」
「おーおー」
バンバン、と遠慮のない力で肩を叩かれる。
少し高めの声と響く笑い声は、変わっていない。
「なーんか、すっかり毒気が抜けたなあ? 昔はもっとこう、触れたら切れるような鋭さがあっただろ」
わざとらしく目を細めたあと、何かを見透かすように、俺の左手へと視線を滑らせた。
シルバーリングが光る薬指を見て、『なるほどな』と言わんばかりに口角を上げる。
図星を突かれ、小さく苦笑した。
無理もない。このコーチの指導を受けていたのは、マナと離れていたあの暗黒期だ。
行き場のない執着も、焦燥も、苛立ちも。自分の中に渦巻く黒い感情をすべて底に沈めるように、ただ息が苦しくなるまで無心で水を叩き続けていた。
それに比べれば、今の俺はひどく穏やかに凪いでいる。
微かに塩素の匂いを残したまま駅へ向かい、マナと落ち合った。
◇
夕方の電車に揺られ、彼女の実家へ向かった。
食卓の中心で快活に笑う義父は、顔立ちも、カラッと明るい性格もマナにそっくりだ。
軽妙な冗談を飛ばしては、自然と周囲を笑顔にする。
一方で、マナの三つ下で、俺より一つ下になる弟のアキラは、物静かだった義母の血を濃く継いでいるらしい。
歳が近いものの、結婚の挨拶で初めて顔を合わせた日から、まともに言葉を交わした記憶は数えるほどしかない。
「アキラ、ハルくんにドレッシング回してやってくれ」
「……どうぞ」
「どうも」
差し出された小瓶を受け取る瞬間、ふと視線が絡む。
その静謐な表情の奥で、いつも値踏みされているような気がしてならない。
要するに、不器用なシスコンなのだろう。
賑やかな食事が終わると、テーブルには義父の手作りだという彩り豊かなフルーツタルトが並べられた。
彼は一番綺麗な一切れを小さな平皿に移すと、そっと仏壇へと運んでいく。
和室の奥から、澄んだおりんの音が響いた。
静かに手を合わせる背中は、深い慈愛に満ちている。
マナが以前、教えてくれたことがある。
義母が他界して十五年、義父の周囲に別の女性の影が差したことはただの一度もないのだと。
気遣ったマナが『自分の幸せを遠慮しないでほしい』と告げたときも、『ただモテないだけだよ』と笑い飛ばされたらしい。
けれど、俺は勝手にこう感じている。
子供たちへの気兼ねだとか、妻への純愛を貫き通したいとか、そんな大層な理由ではなく。
ただシンプルに、今でもあの人のことがどうしようもなく好きで、他の誰かに目を向けられないだけなのではないかと。
◇
自宅へと帰り着き、軽く入浴を済ませると、すぐに布団へ潜り込んだ。
「明日から仕事なのに、遅くまでごめんね」
そう言って、マナは俺の胸元に顔を埋めてきた。
彼女は、心が揺れているときや、何かに想いを馳せているとき――こうして俺の心音に耳を澄ませる癖がある。
このときばかりは何も気づかないふりをして、ただ静かに抱き寄せるようにしている。
職業柄、いつも丁寧に手入れされている艶やかな黒髪へ、一定のリズムで指を通していく。
「お義母さんは、最近どうしてるかな?」
俺の母親について、切り出される。
「何の知らせもないってことは、元気なんじゃね」
マナと母親は、仲がいい。
うちは一人息子なので、娘ができたようで嬉しいらしい。
「じゃあ……お義父さんは?」
「……さあ?」
父親は、繰り返し転勤のある仕事をしている。
物心つくまでは母親と俺も赴任先についていったらしいが、母親が看護師の仕事を再開し、俺も小学校に入ると、単身赴任を選ぶようになった。
今もどこかの地方に出向しており、母親とは別々に暮らしている。
離婚するほどではないけれど、互いへの関心はとうの昔に失われている二人。
時間と距離は、夫婦の愛を簡単に冷めさせる。
彼らを見て育った俺は、そう確信していた。
だからマナの父を見て、あんなふうに残り続ける愛があることに、静かに驚かされた。
そして同時に、俺とマナも――これからどれだけ時間が経っても、互いに愛し抜くことができるんじゃないかと思えた。
とはいえ、義父のように『届かない距離』を受け入れることなど、俺には到底できない。
ただ、離れたくない。いつも触れていたい。
だから、マナとの時間が一秒でも長く続くよう、どうか彼女を守ってほしい。
写真の中で微笑む義母と向かい合うたび、そんな身勝手な願いを密かに伝えてしまうのだった。
「……ハル」
「なに?」
「…………」
小さな呼びかけに返事をしたものの、続きが聞こえてこない。
視線を向けると、腕の中にいる彼女は瞳を閉じ、すこやかな寝息を立てていた。
額にそっとキスを落とし、手を伸ばして枕元の小さな間接照明を消す。
暗闇の中で伝わってくる、たしかな体温を感じながら、ゆっくりと眠りについた。




