第十一夜:本当は、私だって
火曜日の夜、六時半。
西日が落ちきり、薄暗くなった廊下に、鍵穴へ金属が差し込まれる硬い音が響いた。
それを捉えた私は、小走りで玄関へ向かう。
重い扉が開くと、すっかり夏を迎えた外の生ぬるい空気とともにハルが姿を現した。
「おかえり」
明るく取り繕った声は空回りして、間の抜けた響きになる。
「…………」
ハルは何も答えない。
ただただ不機嫌な瞳で、じっと見下ろしてくる。
口元が、やや引き攣る。
やがて、ひんやりとした微笑みを浮かべるとともに、綺麗な手をスッと差し出してきた。
「出して?」
どうやら、私の懸念は的中したらしい。
◇
ダイニングテーブルに、遠慮がちにコトッと小さな音を立てる。
置いたのは、まだ薄いセロファンすら剥がしていない小ぶりな香水の箱。
昨日、サロンに来た同年代の男性客から『差し入れ』として渡されたものだった。
美容師という職業柄、お菓子などを頂くことはあるが、香水はさすがに初めてだ。
サロンのSNSを担当している一番若手のスタッフが、私のお客様だとわかるように『素敵な差し入れ、ありがとうございます!』と写真をアップしていた。
ハルがそのアカウントを定期的にチェックしていることは知っていたから、そのうちバレるだろうとは思っていたけれど。
「人妻に香水を差し入れるって、どういう神経?」
ハルは息を吐いて、鞄を椅子の上へ無造作に置いた。
ネクタイを緩めながら、感情を抑えるように低い声で問い詰めてくる。
「さ、さあ……? でもわざわざ買ったわけじゃなくて、お仕事の関係で手に入ったみたいで」
「なんで、マナに?」
「女性ものだし……その人、独身で彼女もいないらしいから、あげる人がいなかったのかも」
焦るあまり、つい余計な情報まで口走ってしまった。
「あ……ええっと……」
目を泳がせながら弁明を考えるけれど、何も浮かばない。
室内の温度が、もう一段階スッと下がった気がした。
ハルは有無を言わさぬ動作で箱を取り上げると、私の手の届かない場所へとそれを隠してしまった。
◇
夕食と入浴を早々に済ませ、ソファに並んで腰掛ける。
リビングには、私が選んだお仕事モノの洋画の音声だけが、単調に響いていた。
顔は一応画面に向けつつも、その視線は宙に浮いたままのハル。
肩に回された腕から、同じボディソープの香りが漂ってくる。
そして長い指先で、私の二の腕の素肌をなぞるように撫で続けていた。
微熱を帯びた感触のせいで、こちらまでストーリーが頭に入ってこない。
「……ハル」
「んー」
「映画、観てないでしょ」
「うん」
平然とそう答えたと思ったら、突然、強い力で肩を押された。
軋むソファの音とともに、視界がぐるりと反転してクッションに沈み込む。
上から覆い被さってきた影が、部屋の明かりを遮った。
すぐ横のモニターでは、相変わらず洋画の登場人物たちが早口で捲し立てている。
「ダメだ。苛々する」
平坦なトーンでそう呟いたあと、逃げ場を奪うように私の唇を塞いだ。
重なった場所から、体温を交わし合う。
だんだんと映画の音声が、遠い水底のノイズのように溶けて消えていく。
シャツの裾から素肌の隙間へ指先を滑り込ませると、ハルが私を抱きしめる強さが増した。
二つ年上という事実がどこかでブレーキをかけるのか、私はつい、投げかけられる感情を受け止めることに必死になってしまいがちだけれど。
私の想いは、ハルを求める熱は――ちゃんと伝わっているのだろうか。
しばらくして、ハルの方から、ゆっくりと離れた。
微かに汗ばんだ素肌を、エアコンの冷気が撫でる。
「……じゃあ、映画の続きに戻ろっか」
吐息混じりの声をかけられた。
私の反応に満足したのか、あるいはわざと寸止めにして楽しんでいるのか、いつもの余裕たっぷりな態度。
その表情からは、先ほどまでの鋭さは抜け落ちていた。
隣で身を起こし、「ちょっと巻き戻す?」と言いながら、リモコンの硬いボタンをカチ、カチと鳴らしている。
モニターの青白い光に淡く照らし出された、形の良い横顔。
たまらず、彼にすがりついた。
「ん?」
不意の行動に、頭上から低い声が落とされる。
パリッとしたシャツを羽織っている肩口に、火照った頬を押し当てた。
「……ベッド、行きたい」
気恥ずかしさを飲み込み、どうにか絞り出した。
返事はない。
テレビの微かな駆動音だけが流れている。
恐る恐る、顔を上げた。
いつもは涼しげに澄ましている口元が、堪えきれずに緩んでいる。
私からその言葉を引き出したのが、嬉しくて仕方ないのだろう。
「…………いいよ?」
愉悦に満ちた響き。
ぷつりとモニターの電源が落とされ、二人で深い夜の寝室へと吸い込まれていった。
◇
肌にまとわりつくようなシーツの余熱。
寝室を包むオレンジ色の間接照明の下、至近距離で視線が絡む。
「今日のマナ、素直で可愛かった」
ハルが浸るように言った。
「……いつも意地張ってるから、大抵は可愛くないってことね?」
照れ隠しに唇を尖らせると「いや?」と即座に否定された。
「それを崩すのも楽しいから。バランスよく配分して」
至極真面目なトーンで告げられ、「なに、配分って……」と小さく吹き出してしまった。
シーツから腕を抜き、その目にかかる前髪へそっと指先を伸ばす。
さらりとした感触が、心地いい。
「伸びてきたね。切ってから、もう一か月経ったもんね」
「あー。今週末とか、行こうかな」
再会して以来ずっと、私が働くサロンに通い、必ず指名を入れてくれている。
次はどんなヘアスタイルにしようか。
この甘いマスクとは対照的な、スッキリと男らしいものにしてみようか。
柔らかな毛束を弄りながら、いろんな顔を想像して楽しむ。
「たまには別の人にカットしてもらいたいとか、ある?」
ふと気になって尋ねると、迷いのない答えが返ってきた。
「いや? 普通にマナが一番上手いし」
ストレートな褒め言葉に、思わず心臓が跳ねる。
「……そ、そう……?」
照れた私をすぐに察知し、からかうような視線を送ってきた。
それから逃れるように、慌てて話題を切り替える。
「……っ、ハルの仕事は? 最近、どんな感じ?」
「特に変わらず」
総合商社に勤める彼の仕事は、毎日鏡の前でお客様の髪と向き合い続ける美容師の私からすると、まるで想像もつかないような規模の世界だ。
「今は、エネルギー系の部署だよね」
「そう」
「えっと……海外で石油とか掘ったり?」
「いや。今は、液化天然ガスの権益確保とか、次世代向けの水素サプライチェーンの構築とか。まあ、ざっくり言うと、海外の企業と交渉して、日本に安定してエネルギーを運ぶ仕組みを作ってる」
何か質問すればいつも端的に教えてくれるけれど、専門外の私には、頭の片隅を文字が通り過ぎていくだけだ。
分かったふりをして「うんうん」と頷いてみせるものの、ハルは見透かしたような目を向けていた。
「『ふーん。よく分かんないけど』って思ってない?」
「えっ、なんでバレたの」
「マナのことは、全部お見通し」
トン、と軽い衝撃。
細い指先で、額に優しくデコピンを落とされた。
『お見通し』なんて、得意げに言うけれど。
この生意気な年下夫は、実は私のことをまだまだ分かっていない。
きっと、自分ばかりが熱を上げていて、私はただそれを受け止めているだけだと思っているけれど。
本当は、私だって――どうしようもないくらい好きなんだよ。
さっきまでの余韻を確かめるように、広い胸元へ顔を擦り寄せた。
石鹸の清潔な香りに、微かに甘さが混ざった匂いがする。
「……なに。もう一回?」
ハルは面白がるように囁きながら、腰のラインをなぞってきた。
「ばか。違うよ」
素肌から伝わる、小さく笑う身体の振動と、規則正しい心音を感じながら、静かに目を閉じた。
ひどく穏やかな、満たされた夜だった。




