第十二夜:昔と同じじゃん
分厚いガラスの向こう側で、アスファルトを焦がすような太陽が白く燃えている。
一方で、空調が必要以上に効いたオフィス内。首筋を這う人工的な冷気を感じながら、俺は乾いたプラスチックの打鍵音だけを規則正しく刻んでいた。
あちこちから響く電話の音や、絶え間なく交差する誰かの話し声。
その無機質な喧騒を縫うようにして、頭上から甘ったるい声が降ってくる。
「幹本さあん。今日のシャツ、素敵ですね」
タイピングの手を止めず、視線だけを斜め上に向けた。
ベージュのシフォンブラウスに、膝丈の花柄のスカートというフェミニンな装い。
部署のアシスタントをしている、新卒の女性社員だ。
胸元に抱きかかえられたクリアファイルが、蛍光灯の光を反射している。
「これか。奥さんにもらった」
正確には、一緒に買い物へ行った際に選んでもらったものだけれど。
綺麗に描かれた眉が、ピクリと引き攣っていた。
それを一瞥し、モニターの青白い光へと視線を戻す。
しかし、彼女は横に留まったまま、さらに声を張ってくる。
「へえっ! 奥さん、センスいいんですね。幹本さんの二つ上でしたっけ。二十六歳……ですか?」
ひっそり込められた棘を気にも留めず、前を向いたまま答える。
「誕生日過ぎてるから、二十七」
「二十七歳かあ。大人ですねえ?」
年齢を強調するような挑戦的な嫌味に対し、唇の端だけで意味深な弧を描いてみせた。
「あー。大人、だよ?」
その裏に俺たちの気配を意図的に匂わせて。
彼女は一瞬息を詰まらせたあと、「……へえ!」と上擦った声を残して去っていった。
遠ざかるヒールの音を聞き流しながら、脳裏には妻の顔が浮かんでいた。
この前、同窓会に行った夜。不満げに頬を染めながら嫉妬を明かしてくれた。
思い返すたび、腹の底が甘く痺れる。
正直、何度でも見たい。
だから時折、この女性社員が頻繁に声をかけてくることも、あえて話したりしている。
そっけなく「ふうん」と流そうとしながらも、その横顔が微かに曇る瞬間を観察するのは、至福の時間だ。
もちろん、本気で不安にさせたいわけじゃない。
絶妙なラインを見極め、ギリギリのところで理性を保っている。
マナの余裕が崩れる瞬間だけが、俺の芯を熱くする。
そんな歪んだ嗜好に気づいたのは、彼女と出会ってから。
自分のそんな一面に驚いたものの、他の人間にどんな感情を向けられようと欠片も興味が湧かない。
結局のところ、この仄暗い欲求は、ただ一人だけに向けられる特別なものなのだろう。
微かに残る余韻を呼び起こし、密かに堪能していた、そのとき。
数メートル先に座る上司から「幹本、ちょっといいか」と声を投げられた。
「はい」
ごく軽いトーンの呼び出しに、静かに立ち上がると、わざわざ小さな会議室まで連れていかれた。
「資料は予定通り、お渡しできそうですけど」
扉を閉めながら、作業の進捗を伝える。
上司は「ああ、その件じゃなくて」と振り返り、立ったまま話し始めた。
「こんな場所で悪いが、急ぎなんだ。後から正式に通達があると思うけど」
それは、唐突だった。
「ロンドンに行ってほしい。期間は、最低二年だ」
一瞬、思考が停止する。
空調の唸り声が、不自然に大きくなった気がした。
「赴任……ですか?」
「そうだ。ロンドン支社のチームにいる一人が、身内の事情で急遽帰国することになってな」
総合商社でキャリアを積む上で、海外駐在の経験は圧倒的な意味を持つ。
もちろん、チャンスがあれば行きたいとは望んでいた。
しかし今回、急な欠員という事情もあり前振りが一切なかったため、心の準備はまるでできていなかった。
マナには――どう切り出すべきか。
いつかそういうことがあるかもしれないと、伝えたことはある。
けれど、いざそうなったとき具体的にどうするかまでは、話し合えていなかった。
「長くて五年……かな。急で悪いが、一か月後には飛んでもらいたい。ビザの手続きはアシスタントから聞いてくれ」
「……分かりました」
辞令である以上、当然そのまま受け入れる。
ただ、どうしたものかと心が波立った。
◇
クミンとコリアンダーの香りが、リビングいっぱいに広がっている。
「今日ね、常連さんが小学生の娘さんを連れてきてくれて、カットしたの。その子、最初はすごく緊張してたんだけど、仕上がりを見たら目をキラキラさせて喜んでくれて……」
マナの得意料理のひとつである、色鮮やかな夏野菜が乗ったキーマカレー。
それをスプーンで口に運びながら、弾むような声を聞く。
楽しそうに一日の出来事を語る、穏やかな笑顔。
それを前にすると、どうしても喉が詰まった。
味わう余裕を持てないまま、カチャカチャと陶器を鳴らし、相槌を打っていた。
◇
食後。真っ暗なテレビ画面に、ソファに沈み込む自分の輪郭が映っている。
なんて伝えたらいいか。
どんな反応をするだろうか。
マナは海外旅行の経験すらなく、パスポートも持っていない。
そもそも、ロンドンは俺も初めて足を踏み入れる土地だ。
彼女には、大切にしている美容師の仕事がある。
当然、悩むだろう。
でも、俺は正直――ついてきてほしい。
二年も離れるなんて、考えられない。
バスタブにお湯を溜め始めたマナが、リビングへと戻ってきた。
ソファを僅かに沈ませながら、隣にそっと腰掛けてきた。
甘い香りが、ふわりと漂う。
「ハル、疲れてる?」
覗き込んできた瞳には、こちらを気遣うような、やや不安げな色が浮かんでいる。
「あ……いや」
言葉を濁し、目を逸らす。
すると、躊躇いがちに、ぽつりとこぼしてきた。
「……お風呂、一緒に入っても、いいよ……?」
俺が誘うときはいつも、恥じらって断るくせに。
口数の少ない俺を元気づけようと、背伸びしてくれているのが伝わってくる。
その姿を見て胸が締め付けられ、重い口を開いた。
「実は……」
広いリビングに、乾いた自分の声が落ちていく。
「ロンドンに、赴任が決まった。最低、二年」
息を呑む気配。
ゆっくりと確認すると、その瞳は、静かに見開かれている。
見つめ合ったまま、沈黙が流れる。
「……ロンドン……」
「…………」
「……赴任……」
「…………」
自分の膝の上に置いた指先へと視線を移し、俺が伝えたことを独り言のように繰り返す。
「二年か……結構、長いね」
そう呟いたあと、マナは再び、俺を見上げる。
そして――。
ひどく力のない、諦めたような微笑みを浮かべ、言った。
「毎日電話とかすれば……乗り越えられるかな?」
ドクン、と嫌な動悸が鳴る。
それは、俺が切り出した別れを受け入れた日の表情と、残酷なほど重なっていた。
「……なんで最初から、離れる前提?」
気がつけば、低く冷たい声が出ていた。
急激に頭に血が上っていくのがわかる。
考える余裕もなく、詰問のようなトーンになっていた。
「あ、そっか……『ついていく』っていう選択肢も、あるよね……」
ハッとしたように、マナが目を泳がせた。
「仕事を休むか辞めるかして、知らない土地で、ただハルの帰りを待つのが想像できなかったっていうか……」
宙を彷徨う視線。慌てて紡がれる釈明。
奥のバスルームから、お湯が浴槽を打つ音だけが、響き続けていた。
「……マナがどういう気持ちで美容師やってるか知ってるし、俺の都合に合わせてなんて言わない。でも、『離れる』ってことに一ミリも躊躇しないわけ?」
「…………」
マナは俯き、絡ませた指先を白くなるほど強く握りしめていた。
「夫婦になったって結局、昔と同じじゃん」
苛立ちと情けなさが入り混じった、黒い感情が溢れ出していく。
「え……?」
「どうせ俺ら、熱量違うもんな」
「…………」
マナは唇を強く噛み締め、小刻みに肩を震わせ始めた。
止めるべきと頭では分かっているのに、ブレーキを失った言葉が次々と口から飛び出していく。
そして――決して言ってはいけない台詞まで、吐き捨ててしまった。
「結婚だって、俺が押したから流されたんじゃないの」
その瞬間、柔らかな衝撃とともに、一瞬だけ視界が真っ暗になった。
マナが手元のクッションを、俺の顔めがけて思いきり投げつけてきたのだ。
「なんでそんなこと言うの!?」
大粒の涙を溜めた瞳が、真っ赤な怒りで満ちている。
初めて結ばれたあの日。
雨の中で、不器用に怒りをぶつけてきた時と同じだった。
あの時は、マナが感情を剥き出しにしてくれたことがただ嬉しくて、有頂天になっただけだった。
でも、今は――。
「……頭冷やすわ」
それだけを言い残し、ソファから立ち上がる。
重い扉を開け、二人の家を出た。
夏の生ぬるい夜気が、逃げ場を塞ぐようにまとわりついてきた。




