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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第三章

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第十二夜:昔と同じじゃん

 分厚いガラスの向こう側で、アスファルトを焦がすような太陽が白く燃えている。

 一方で、空調が必要以上に効いたオフィス内。首筋を這う人工的な冷気を感じながら、俺は乾いたプラスチックの打鍵音だけを規則正しく刻んでいた。


 あちこちから響く電話の音や、絶え間なく交差する誰かの話し声。

 その無機質な喧騒を縫うようにして、頭上から甘ったるい声が降ってくる。


「幹本さあん。今日のシャツ、素敵ですね」


 タイピングの手を止めず、視線だけを斜め上に向けた。


 ベージュのシフォンブラウスに、膝丈の花柄のスカートというフェミニンな装い。

 部署のアシスタントをしている、新卒の女性社員だ。


 胸元に抱きかかえられたクリアファイルが、蛍光灯の光を反射している。


「これか。奥さんにもらった」


 正確には、一緒に買い物へ行った際に選んでもらったものだけれど。


 綺麗に描かれた眉が、ピクリと引き攣っていた。

 それを一瞥し、モニターの青白い光へと視線を戻す。


 しかし、彼女は横に留まったまま、さらに声を張ってくる。


「へえっ! 奥さん、センスいいんですね。幹本さんの二つ上でしたっけ。二十六歳……ですか?」


 ひっそり込められた棘を気にも留めず、前を向いたまま答える。


「誕生日過ぎてるから、二十七」


「二十七歳かあ。大人ですねえ?」


 年齢を強調するような挑戦的な嫌味に対し、唇の端だけで意味深な弧を描いてみせた。


「あー。大人(・・)、だよ?」


 その裏に俺たちの気配を意図的に匂わせて。


 彼女は一瞬息を詰まらせたあと、「……へえ!」と上擦った声を残して去っていった。



 遠ざかるヒールの音を聞き流しながら、脳裏には妻の顔が浮かんでいた。


 この前、同窓会に行った夜。不満げに頬を染めながら嫉妬を明かしてくれた。

 思い返すたび、腹の底が甘く痺れる。


 正直、何度でも見たい。


 だから時折、この女性社員が頻繁に声をかけてくることも、あえて話したりしている。

 そっけなく「ふうん」と流そうとしながらも、その横顔が微かに曇る瞬間を観察するのは、至福の時間だ。


 もちろん、本気で不安にさせたいわけじゃない。

 絶妙なラインを見極め、ギリギリのところで理性を保っている。


 マナの余裕が崩れる瞬間だけが、俺の芯を熱くする。

 そんな歪んだ嗜好に気づいたのは、彼女と出会ってから。

 自分のそんな一面に驚いたものの、他の人間にどんな感情を向けられようと欠片も興味が湧かない。

 結局のところ、この仄暗い欲求は、ただ一人だけに向けられる特別なものなのだろう。



 微かに残る余韻を呼び起こし、密かに堪能していた、そのとき。

 数メートル先に座る上司から「幹本、ちょっといいか」と声を投げられた。


「はい」


 ごく軽いトーンの呼び出しに、静かに立ち上がると、わざわざ小さな会議室まで連れていかれた。



「資料は予定通り、お渡しできそうですけど」


 扉を閉めながら、作業の進捗を伝える。

 上司は「ああ、その件じゃなくて」と振り返り、立ったまま話し始めた。


「こんな場所で悪いが、急ぎなんだ。後から正式に通達があると思うけど」


 それは、唐突だった。



「ロンドンに行ってほしい。期間は、最低二年だ」



 一瞬、思考が停止する。


 空調の唸り声が、不自然に大きくなった気がした。


「赴任……ですか?」


「そうだ。ロンドン支社のチームにいる一人が、身内の事情で急遽帰国することになってな」


 総合商社でキャリアを積む上で、海外駐在の経験は圧倒的な意味を持つ。

 もちろん、チャンスがあれば行きたいとは望んでいた。

 しかし今回、急な欠員という事情もあり前振りが一切なかったため、心の準備はまるでできていなかった。



 マナには――どう切り出すべきか。



 いつかそういうことがあるかもしれないと、伝えたことはある。

 けれど、いざそうなったとき具体的にどうするかまでは、話し合えていなかった。


「長くて五年……かな。急で悪いが、一か月後には飛んでもらいたい。ビザの手続きはアシスタントから聞いてくれ」


「……分かりました」


 辞令である以上、当然そのまま受け入れる。

 ただ、どうしたものかと心が波立った。


 ◇


 クミンとコリアンダーの香りが、リビングいっぱいに広がっている。


「今日ね、常連さんが小学生の娘さんを連れてきてくれて、カットしたの。その子、最初はすごく緊張してたんだけど、仕上がりを見たら目をキラキラさせて喜んでくれて……」


 マナの得意料理のひとつである、色鮮やかな夏野菜が乗ったキーマカレー。

 それをスプーンで口に運びながら、弾むような声を聞く。


 楽しそうに一日の出来事を語る、穏やかな笑顔。

 それを前にすると、どうしても喉が詰まった。


 味わう余裕を持てないまま、カチャカチャと陶器を鳴らし、相槌を打っていた。


 ◇


 食後。真っ暗なテレビ画面に、ソファに沈み込む自分の輪郭が映っている。


 なんて伝えたらいいか。

 どんな反応をするだろうか。


 マナは海外旅行の経験すらなく、パスポートも持っていない。

 そもそも、ロンドンは俺も初めて足を踏み入れる土地だ。


 彼女には、大切にしている美容師の仕事がある。

 当然、悩むだろう。


 でも、俺は正直――ついてきてほしい。

 二年も離れるなんて、考えられない。



 バスタブにお湯を溜め始めたマナが、リビングへと戻ってきた。


 ソファを僅かに沈ませながら、隣にそっと腰掛けてきた。

 甘い香りが、ふわりと漂う。


「ハル、疲れてる?」


 覗き込んできた瞳には、こちらを気遣うような、やや不安げな色が浮かんでいる。


「あ……いや」


 言葉を濁し、目を逸らす。


 すると、躊躇いがちに、ぽつりとこぼしてきた。



「……お風呂、一緒に入っても、いいよ……?」



 俺が誘うときはいつも、恥じらって断るくせに。

 口数の少ない俺を元気づけようと、背伸びしてくれているのが伝わってくる。


 その姿を見て胸が締め付けられ、重い口を開いた。


「実は……」


 広いリビングに、乾いた自分の声が落ちていく。



「ロンドンに、赴任が決まった。最低、二年」



 息を呑む気配。

 ゆっくりと確認すると、その瞳は、静かに見開かれている。


 見つめ合ったまま、沈黙が流れる。


「……ロンドン……」


「…………」


「……赴任……」


「…………」


 自分の膝の上に置いた指先へと視線を移し、俺が伝えたことを独り言のように繰り返す。


「二年か……結構、長いね」


 そう呟いたあと、マナは再び、俺を見上げる。


 そして――。


 ひどく力のない、諦めたような微笑みを浮かべ、言った。



「毎日電話とかすれば……乗り越えられるかな?」



 ドクン、と嫌な動悸が鳴る。

 それは、俺が切り出した別れを受け入れた日の表情と、残酷なほど重なっていた。



「……なんで最初から、離れる前提?」


 気がつけば、低く冷たい声が出ていた。


 急激に頭に血が上っていくのがわかる。

 考える余裕もなく、詰問のようなトーンになっていた。


「あ、そっか……『ついていく』っていう選択肢も、あるよね……」


 ハッとしたように、マナが目を泳がせた。


「仕事を休むか辞めるかして、知らない土地で、ただハルの帰りを待つのが想像できなかったっていうか……」


 宙を彷徨う視線。慌てて紡がれる釈明。



 奥のバスルームから、お湯が浴槽を打つ音だけが、響き続けていた。



「……マナがどういう気持ちで美容師やってるか知ってるし、俺の都合に合わせてなんて言わない。でも、『離れる』ってことに一ミリも躊躇しないわけ?」


「…………」


 マナは俯き、絡ませた指先を白くなるほど強く握りしめていた。


「夫婦になったって結局、昔と同じじゃん」


 苛立ちと情けなさが入り混じった、黒い感情が溢れ出していく。


「え……?」


「どうせ俺ら、熱量違うもんな」


「…………」


 マナは唇を強く噛み締め、小刻みに肩を震わせ始めた。

 止めるべきと頭では分かっているのに、ブレーキを失った言葉が次々と口から飛び出していく。


 そして――決して言ってはいけない台詞まで、吐き捨ててしまった。



「結婚だって、俺が押したから流されたんじゃないの」



 その瞬間、柔らかな衝撃とともに、一瞬だけ視界が真っ暗になった。

 マナが手元のクッションを、俺の顔めがけて思いきり投げつけてきたのだ。


「なんでそんなこと言うの!?」


 大粒の涙を溜めた瞳が、真っ赤な怒りで満ちている。


 初めて結ばれたあの日。

 雨の中で、不器用に怒りをぶつけてきた時と同じだった。


 あの時は、マナが感情を剥き出しにしてくれたことがただ嬉しくて、有頂天になっただけだった。


 でも、今は――。



「……頭冷やすわ」


 それだけを言い残し、ソファから立ち上がる。


 重い扉を開け、二人の家を出た。

 夏の生ぬるい夜気が、逃げ場を塞ぐようにまとわりついてきた。

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