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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第三章

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第十三夜:平気なわけ、ない

「ロンドンに、赴任が決まった。最低、二年」


 帰宅してからずっと、不自然なほど静かだったハルの口から、その理由が明かされた。


 ロンドン。イギリスの首都。

 地図や映像の中でしか知らない、遠い異国の地。


 唐突な話に、頭の芯が痺れていくような感覚をおぼえる。


 やっぱり商社って、海外赴任とかあるんだ、とか。

 まだ若いのに声がかかるなんて、期待されてるんだな、とか。

 混乱する自分を宥めるように、そんなことばかりを考えた。


「毎日電話とかすれば……乗り越えられるかな?」


 思考が追いつかないまま、こぼした言葉。

 それが、ハルをひどく怒らせてしまった。


「結婚だって、俺が押したから流されたんじゃないの」


 刺すような、冷たい声。

 違う。そんなわけ、ない。


 否定する間もなく、背を向けられた。


 やがて廊下の奥から響いた、玄関の重い扉が軋み、閉まる音。

 ハルは、夏の夜へと消えていった。


 彼の気配が残るソファから、立ち上がることができなかった。


 さっき向けられた、冷たい瞳。

 あれは昔、別れを告げられたときと同じだった。


 視界が滲み、どこにも焦点が合わないまま、記憶が呼び覚まされていく。


 ◇


 火曜日の昼下がり、明るいカフェだった。

 冷房が効きすぎていて、肌寒かったのを覚えている。


 久しぶりに会えたはずのハルのトーンは、初めから低かった。

『会いたい』と言われていた、次の火曜日。先輩スタイリスト主催の勉強会、そして夜の懇親会が重なってしまい、誘いを断ったことが尾を引いていたのだと思う。


『コーヒー、奢るから!』


 機嫌をとらなきゃと、取り繕うようにかけた声は空回りした。

 学生扱いされたと感じたのか、こちらを見ようともしなくなった。


 窓際の席。

 行き交う車を眺めていたハルは、平坦な声で吐き捨てた。


『もう、別れよ。マナといると、疲れる』


 ガラスの外へ向けられたままの横顔は、心底うんざりしているように見えた。


 就職してから一年が経ったばかりだった、私。

 慣れない仕事やレッスンに追われ、心身ともに余裕がなかった。

 ハルとの些細な喧嘩も増えていた。


 それでも、結局はいつも求め合っていたから。

 一緒にいて楽しいのは、互いに変わらないと信じていたから。

 油断していたのかもしれない。

 こんなに頑張っているのだから、わかってくれるだろうと、コミュニケーションを疎かにしていたかもしれない。


 突きつけられた本音に、胸が張り裂けそうになった。


 大学生のハルは、もっと自由に遊びたいはずだ。

 解放してあげたほうが、いいのかもしれない。


 変に背伸びをして『物分かりのいい彼女』を演じ、そんなふうに考えたけれど。

 本当はただ、私への愛情を失ったハルを見るのが怖かっただけだ。


 震える口元を隠すように、精一杯の微笑みを返した。


『……わかった』


 冷ややかな瞳がこちらを一瞥し、すらっと長い脚が立ち上がる。

 一口も手をつけていないグラスを残し、彼はあっけなく去っていった。


 僅かな力で指先を握りしめ、ただ遠ざかる背中を見送った。


 当然、別れたくなんてなかった。

 けれど、そのときのハルが出会った頃のように笑わなくなっていたことも、心に引っかかっていて。


 ハルは、私をたくさん笑顔にしてくれた。

 それなのに、私は彼からそれを奪ってしまっているのかもしれない。


 ハルの望む通りにしよう――。

 そう自分に言い聞かせ、受け入れてしまった。


 それでもやっぱり、会いたくて。


『ごめんね』って連絡すれば、なかったことにできるのだろうかと、ずっと悩んでいたけれど。

 最後に見た表情を思い出すたび、あれで終わりなのだと痛感させられた。


 その答え合わせをするかのように、ハルからの連絡もなかった。

 鳴らないスマートフォンを見つめながら、ただ絶望するしかなかった。


 だから――数年越しに再会できたとき。

 恋人という形じゃなくても顔を見られたことが、どうしようもなく嬉しかった。

 抱きしめたくなる気持ちも、あの体温を恋しく思う気持ちも、彼の迷惑にならないように、なんとか押さえつけようとした。


 それでもハルは、自分の感情に行動が追いつかない私を、いつだって力強く引っ張ってくれた。

 私の望む道へと、導いてくれた。


 離れても平気なわけ、ない――。



 唐突に、バスルームから派手な水音が聞こえていることに気づき、我に返る。


「……っ」


 慌てて立ち上がり、走った。


 白い浴槽から、止めどなくお湯が溢れ出し、タイルを叩いていた。


 蛇口を捻り、鏡に映った顔を見て、息を呑む。

 気づかないうちに、頬全体が涙で覆われていた。


 そこからは、自分がどう動いたのか記憶が曖昧だ。

 服を脱ぎ捨ててお湯に浸かり、力が入らない手で髪を乾かし、ふらつく足取りでベッドに潜り込んだ。


 隣にあるはずの温もりがないシーツは、その冷たさで私を追い詰める。



 ハルは、今――どこにいるの。



 暗闇の中で、不安だけが膨れ上がっていく。

 もう、耐えられなかった。


 震える指先でスマートフォンを引き寄せ、画面をタップした。


 数回のコールのあと。

 繋がった向こう側から、微かな息遣いだけが聞こえた。


 すがるように、掠れた声を絞り出す。


「……お願い……帰ってきて……」


 通話は、すぐに切れた。



 それから、どれくらい時間が過ぎたのだろう。

 二十分、あるいはもっと長く感じたかもしれない。


 鍵穴でキーが回され、扉が開く音がした。


 やがて、汗と夜の匂いを薄っすらと纏った影が、寝室へと入ってくる。


 たまらず駆け寄って、その腰に腕を回した。


 何も、喋らなかった。

 さっきの口論の続きも、今後についての話し合いも。


 そのまま、マットレスに沈み込まされた。


 力強い手のひらから伝わってくるのは、不安を塗りつぶすような、息が詰まるほど必死な熱だった。

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