第十四夜:口に出せない願い
逃げ込んだネットカフェの、埃っぽい匂いが淀む一人用の個室。
天井の送風口から、人工的な冷風が絶え間なく吹き下ろしてくる。
ただ意味もなく、真っ暗なモニターを見つめていた。
黒い画面には、ひどく強張った自分の顔が映り込んでいる。
傍らには、一口もつけていない烏龍茶。
プラスチックカップの表面にびっしりと浮かんだ結露が水滴となって滑り落ち、デスクに丸い染みを広げていた。
まだ付き合い始めの頃。ここと同じような場所に、マナと来たことがあった。
とにかく二人きりになりたくて、適当な口実をつけて連れ込んだ薄暗い部屋。
引き戸を閉めた途端、どうしようもない熱に急かされるように、彼女を壁際に押しやった。
『えっ……漫画! 取りに行こうよ……?』
周りに響かないよう必死に声をひそめ、胸を押し返してくる柔らかい手のひら。
『いいじゃん……ちょっとだけ』
狭い空間に満ちていく甘ったるい空気に呑み込まれないよう、どうにか理性を保とうとする彼女をよそに。
俺は己の渇きを癒すように、遠慮なく我儘を許してもらっていた。
こんな狂おしいほどの感情を抱えているのは、きっと自分だけ。
そう感じては勝手に苛立ち、あからさまに態度に出した。
マナはいつも困ったように眉を下げながら、そんな俺をあやした。
でも、苦い別れを経験して、再び会えて、一緒になれて。
渇望はいまだになくならないものの、彼女にとって心地のよい愛情表現の仕方を、幾分かは身につけることができたはずだった。
しかし、結局――。
根本的には、何も変われていなかった。
いとも簡単に「離れること」を受け入れようとした顔を見て、衝動的に浴びせてしまった不用意な言葉。
それが今になって、この胸を鋭く抉る。
仮に、マナが日本に残り、別々の場所で暮らすことになったとしても。
あのときとは違う。別れるわけじゃない。
一時帰国したら、あるいは彼女が訪ねてきてくれたら、また抱き合える。
一生を誓い合った、二人なのだから。
それなのに、一体何が足りないというのだろう。
いくら自問を繰り返しても、答えは何ひとつ出なかった。
どのくらい時間が経ったか、わからなかったけれど。
ポケットの奥で鳴った低い振動音に、意識を引き戻された。
発光する画面に浮かび上がったのは――『茉奈』。
愛しい名前。
「…………」
すぐにタップし耳元に当てるけれど、喉が張り付いて声が出ない。
俺が何かを伝えるより先に、震える掠れ声が届いた。
『……お願い……帰ってきて……』
肺の空気が全部押し出されるように、息が苦しくなった。
レザー調のリクライニングチェアから勢いよく立ち上がると、ガタンと鈍い音が響いた。
無人レジで会計を済ませ、すぐに店を後にした。
湿気を含んだ重い夜風を切り裂きながら、アスファルトを蹴る。
シャツに汗が滲むのも、息が上がるのも、厭うべきことではなかった。
家に着き、しんとした寝室に足を踏み入れる。
顔を上げたマナの頬には、濡れた跡がくっきりと残っていた。
彼女はひどく安堵したような吐息をこぼすと、その力ない腕を俺の腰へと回した。
そして、心音を確かめるように、胸元へ耳を当てる。
夜気を含んだ服越しに、彼女の高い体温と、どこか頼りない鼓動が伝わってくる。
何も言えず、ただその熱に埋もれていくことしかできなかった。
◇
あれから数日が経った。
マナは日本に残るとも、ついていくとも口にしない。
俺からも聞けなかった。
聞けなかったのだ。
離れたくない。でも――。
彼女が美容師として築いてきたものを思えば、これ以上は踏み込めない。
付き合った時や結婚した時は、戸惑う彼女を半ば強引に押し切ったけれど、今はそれができなかった。
マナ自身の意思で、一緒に来てほしい。
口に出せない願いだけが、胸の奥で燻っている。
出発まで一か月を切っている赴任への準備は、感情を整理する隙すら与えてくれず、帰宅が深夜に及ぶ日が続いた。
それでも、マナは必ず起きて待っていた。
言葉を交わさず、目も合わせないまま。
玄関で迎えてくれるその身体を、毎晩のようにベッドへと引きずり込んだ。
エアコンの冷気で満ちる部屋の中、無我夢中で肌を重ね合わせる。
壊れるほど強く抱きしめる。
繋がっているという事実だけを頼りに、二人に迫る暗闇を掻き消そうとした。
ずっと側に閉じ込めたい衝動と、縛りたくない理性がせめぎ合い、やり場のない熱だけが迸る。
重なる唇の感触、背中に回される指先の微かな力、時折ぎゅっと目を瞑る表情。
そのすべてから、彼女の奥底にある『何か』を確かめようと躍起になっていた。
けれど、どれだけ深く交わっても、焦燥感は拭えない。
いつもなら、事後すぐに腕の中で眠りにつくはずのマナ。
今は、ただ瞼を閉じているだけだ。
その胸の上下は、不規則で、浅い。
心地よい寝息の音もしない。
俺も息を殺し、貫かれる沈黙の重さに耐え続けていた。
◇
深夜のリビング。
マグカップを温めるためだけに入れておいた熱湯を、シンクに流し捨てた。
白く立ち上る湯気に煽られる。
そして、ガラスポットの中へ、ノンカフェインのジャスミンティーの茶葉を入れた。
適温のお湯を注いでいくと、いつもの上品な香りが広がる。
赴任の話を伝えてから、今日で一週間。
部屋の隅には、荷物を送るための段ボール箱が少しずつ増え、現実として積み上がっていた。
わかっている。
もしついてくる気があるのなら、マナだってそろそろ手続きを始めなければ間に合わない。
それでも、動かないということは――。
ポットの中でゆっくりと開いていく茶葉を無心で見つめるうち、次第に自分の体温まで冷えきっていくような錯覚に陥る。
そのとき。
背中へ、柔らかな重みが寄りかかってきた。
腰に回された細い腕。
背中に顔を押し付けるようにして、マナがしがみついている。
視線を落とすと、俺のシャツを掴む指先が、小さく震えていた。
「ハル……ごめん……」
茉莉花の香りが漂う、静寂の部屋で。
消え入りそうな声が、残酷なほどまっすぐに落ちてきた。




