第十五夜:一か月後の予約
涼しくて明るい店内に、フローラル系のスタイリング剤と、ツンとしたカラー剤の匂いが溶け合っている。
リズミカルに動かされるハサミや、シャンプー台を軽やかに打つ水の音。お客様の弾む声。
私にとって日常の心地よい喧騒の中、常連の香坂先生と、他愛のないお喋りを楽しんでいた。
「先週ね、主人と車を出して、ラベンダー園へ行ってきたのよ」
目尻にふわりと皺を寄せて語られるのは、爽やかな避暑地での出来事。
見渡す限りの紫の絨毯は、遠方でしか見られない景色だと思っていたため、櫛を通す手を止めて目を丸くした。
「えっ! 日帰りで行ける距離にあるんですか?」
「ええ。風が吹くと、濃い香りがして。とても癒されたわ」
そんなふうに、和やかな空気が流れていたはずだった。
けれど、ふと、鏡越しの先生の瞳からまっすぐに射抜かれる。
「何か、あったの?」
すっと、トーンを落とした声。
「えっ?」
「笑顔が少しだけ、悲しそうに見えたから」
ハサミを持った指先が、空中でぴたりと止まる。
息を呑む音は、隣のスタイリストが操るドライヤーの温風が掻き消してくれた。
けれど――すぐに口角を引き上げ、微笑んでみせる。
「いえ……元気いっぱいですよ!」
◇
丁寧にブローを終え、合わせ鏡で背面の仕上がりを確認してもらう。
「綺麗だわ。ありがとう」
先生はずっと、自然な丸みをもたせたショートボブを好まれている。
「よかったです!」
ケープをそっと外し、レジカウンターへご案内する。
スモーキーベージュの長財布が鞄にしまわれるのを見届け、予約管理のタブレットを開いた。
「次回も……一か月後に、いらっしゃいますか?」
そのときも、私は変わらず――日本にいる。
声に出した言葉が耳に響き、自らの決断を再確認させられた。
「ええ。来月の同じ日に、よろしくお願いします」
「……はい。お待ちしていますね」
懸命に笑顔をつくって頷き、冷え切った指先で画面をタップした。
出口までお見送りする途中。
隣を歩く先生が、独り言のように言葉を紡いだ。
「あなたが茶道部に入ってきたとき、お花が咲くような笑顔をする子だなと思ったのよ」
「……えっ」
不意にかけられた素敵な言葉に、思わず瞬きする。
「でも、その裏でどこか痛みを抱えているように見えて、ずっと気になっていたの」
「そう……だったんですね」
自分では、平気なつもりでいた。
けれど、先生の目にそう映っていたのなら、きっと――母を失った傷痕は、私が思うよりずっと深く残っていたのだろう。
「最近は、それが解きほぐされたようだったから、安心していたのよ」
ガラス扉を押し開けると、真夏の熱気が押し寄せる。
外に出た先生の足が止まり、振り返った。
「何か辛いことがあっても……心だけは無理しないでね」
深くは踏み込まない、あたたかい声。
それが、沈んだ心へと、たしかに染み込んでいく。
「……はい。ありがとうございます」
喉の奥のつかえを飲み込み、頭を下げた。
「それでは……また一か月後に。お待ちしてますね!」
強い日差しを照り返すアスファルト。
その向こうへと遠ざかっていく背中を、長く見送った。
◇
ハルが静かにジャスミンティーを淹れてくれた、あの深夜。
身体を震わせながら、伝えた。
『一緒に、行けない』と。
その答えを聞いた彼は、ただ『わかった』とだけ返し、責めることも怒ることもしなかった。
私は、美容師という仕事が大好きだ。
専門学校時代から憧れていたサロンで、スタイリストデビューを叶えてから三年。
ハサミを握る手には、ようやく確かな感触が宿り始めている。
今は、一番楽しいときだった。
もっと腕を磨いて、たくさんのお客様に寄り添いたい。
その気持ちを、背中を向けたままの彼に顔を埋め、絞り出すように明かした。
けれど――ハルの手をとれなかった理由は、それだけではない。
いつか、ハルの母から聞いた話が蘇る。
看護師を辞め、生まれたばかりのハルを連れ、義父の海外赴任に帯同した。
言葉の通じない街の、閉ざされた部屋。
孤独のなかで、激務にすり減る夫に当たり、そんな自身にも失望する日々。
積み重なったものが、二人の心を確実に削っていったという。
『そこからね。お互いへの愛が、冷め始めたのは』
起伏のない声で語られたその過去が、どうしても頭から離れなかった。
ハルとの別離を招いてしまった、あの頃の自分が嫌でも重なる。
若かったとはいえ、環境の変化から心身の余裕をなくし、彼のことを思いやれなくなってしまった。
家族や友人、大切な仕事とも離れ、静かな部屋でハルだけを待つ生活。
不慣れな地で奮闘する彼を支えるどころか、普段の前向きな自分を見失い、二人の歯車を狂わせてしまったら。
あの瞳から私への愛が消え去り、冷ややかな諦めの色に染まってしまったら。
『ついていく』未来を想像しても、なぜかそんな絶望的な光景しか浮かばなかったのだ。
哀しみに臆して、去っていく彼をただ見送るだけしかできないなんて。
別れを告げられたあの日から、私は何ひとつ変われていないのかもしれない。
◇
赴任前の手続きや引き継ぎに追われるハルは、かつてないほど忙しくしている。
今夜も終電に間に合わなかったようで、『会社の近くに泊まる』と短い連絡があったきりだ。
ハルの音がないダブルベッドでは、眠りにつくことができなかった。
泊まるのは、一人で――だよね?
彼が以前、新卒の女の子がやたらと話しかけてくるのだと、いつもの悪戯顔でからかってきたことが頭をよぎる。
『もちろん一緒にいたい』と頷かなかった妻に、愛想を尽かしたのではないか。
確認する勇気もないまま、ただ暗闇の中で寝返りを打つ。
顔を合わせれば会話はするし、たまにふっと笑ってもくれる。
耐えきれずにシーツの上で抱きつくと、そっと頭を撫でてもくれる。
けれど、私の決断を伝えたあの夜以来。
ハルの方からは、一切触れてこなくなった。
甘い悪戯も、隙間なく並んで座ってくる火曜日も、ないまま。
ただ、時間だけが過ぎていく。
出発まで、あと一週間となってしまっていた。




