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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第三章

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第十五夜:一か月後の予約

 涼しくて明るい店内に、フローラル系のスタイリング剤と、ツンとしたカラー剤の匂いが溶け合っている。


 リズミカルに動かされるハサミや、シャンプー台を軽やかに打つ水の音。お客様の弾む声。

 私にとって日常の心地よい喧騒の中、常連の香坂先生と、他愛のないお喋りを楽しんでいた。


「先週ね、主人と車を出して、ラベンダー園へ行ってきたのよ」


 目尻にふわりと皺を寄せて語られるのは、爽やかな避暑地での出来事。

 見渡す限りの紫の絨毯は、遠方でしか見られない景色だと思っていたため、櫛を通す手を止めて目を丸くした。


「えっ! 日帰りで行ける距離にあるんですか?」


「ええ。風が吹くと、濃い香りがして。とても癒されたわ」


 そんなふうに、和やかな空気が流れていたはずだった。


 けれど、ふと、鏡越しの先生の瞳からまっすぐに射抜かれる。



「何か、あったの?」



 すっと、トーンを落とした声。


「えっ?」


「笑顔が少しだけ、悲しそうに見えたから」


 ハサミを持った指先が、空中でぴたりと止まる。

 息を呑む音は、隣のスタイリストが操るドライヤーの温風が掻き消してくれた。


 けれど――すぐに口角を引き上げ、微笑んでみせる。


「いえ……元気いっぱいですよ!」


 ◇


 丁寧にブローを終え、合わせ鏡で背面の仕上がりを確認してもらう。


「綺麗だわ。ありがとう」


 先生はずっと、自然な丸みをもたせたショートボブを好まれている。


「よかったです!」


 ケープをそっと外し、レジカウンターへご案内する。

 スモーキーベージュの長財布が鞄にしまわれるのを見届け、予約管理のタブレットを開いた。



「次回も……一か月後(・・・・)に、いらっしゃいますか?」



 そのときも、私は変わらず――日本(ここ)にいる。

 声に出した言葉が耳に響き、自らの決断を再確認させられた。


「ええ。来月の同じ日に、よろしくお願いします」


「……はい。お待ちしていますね」


 懸命に笑顔をつくって頷き、冷え切った指先で画面をタップした。



 出口までお見送りする途中。

 隣を歩く先生が、独り言のように言葉を紡いだ。


「あなたが茶道部に入ってきたとき、お花が咲くような笑顔をする子だなと思ったのよ」


「……えっ」


 不意にかけられた素敵な言葉に、思わず瞬きする。


「でも、その裏でどこか痛みを抱えているように見えて、ずっと気になっていたの」


「そう……だったんですね」


 自分では、平気なつもりでいた。

 けれど、先生の目にそう映っていたのなら、きっと――母を失った傷痕は、私が思うよりずっと深く残っていたのだろう。


「最近は、それが解きほぐされたようだったから、安心していたのよ」


 ガラス扉を押し開けると、真夏の熱気が押し寄せる。

 外に出た先生の足が止まり、振り返った。


「何か辛いことがあっても……心だけは無理しないでね」


 深くは踏み込まない、あたたかい声。

 それが、沈んだ心へと、たしかに染み込んでいく。


「……はい。ありがとうございます」


 喉の奥のつかえを飲み込み、頭を下げた。


「それでは……また一か月後に。お待ちしてますね!」


 強い日差しを照り返すアスファルト。

 その向こうへと遠ざかっていく背中を、長く見送った。


 ◇


 ハルが静かにジャスミンティーを淹れてくれた、あの深夜。

 身体を震わせながら、伝えた。


『一緒に、行けない』と。


 その答えを聞いた彼は、ただ『わかった』とだけ返し、責めることも怒ることもしなかった。


 私は、美容師という仕事が大好きだ。

 専門学校時代から憧れていたサロンで、スタイリストデビューを叶えてから三年。

 ハサミを握る手には、ようやく確かな感触が宿り始めている。

 今は、一番楽しいときだった。

 もっと腕を磨いて、たくさんのお客様に寄り添いたい。


 その気持ちを、背中を向けたままの彼に顔を埋め、絞り出すように明かした。



 けれど――ハルの手をとれなかった理由は、それだけではない。



 いつか、ハルの母から聞いた話が蘇る。


 看護師を辞め、生まれたばかりのハルを連れ、義父の海外赴任に帯同した。

 言葉の通じない街の、閉ざされた部屋。

 孤独のなかで、激務にすり減る夫に当たり、そんな自身にも失望する日々。

 積み重なったものが、二人の心を確実に削っていったという。


『そこからね。お互いへの愛が、冷め始めたのは』


 起伏のない声で語られたその過去が、どうしても頭から離れなかった。


 ハルとの別離を招いてしまった、あの頃の自分が嫌でも重なる。

 若かったとはいえ、環境の変化から心身の余裕をなくし、彼のことを思いやれなくなってしまった。


 家族や友人、大切な仕事とも離れ、静かな部屋でハルだけを待つ生活。

 不慣れな地で奮闘する彼を支えるどころか、普段の前向きな自分を見失い、二人の歯車を狂わせてしまったら。

 あの瞳から私への愛が消え去り、冷ややかな諦めの色に染まってしまったら。


『ついていく』未来を想像しても、なぜかそんな絶望的な光景しか浮かばなかったのだ。


 哀しみに臆して、去っていく彼をただ見送るだけしかできないなんて。

 別れを告げられたあの日から、私は何ひとつ変われていないのかもしれない。


 ◇


 赴任前の手続きや引き継ぎに追われるハルは、かつてないほど忙しくしている。

 今夜も終電に間に合わなかったようで、『会社の近くに泊まる』と短い連絡があったきりだ。


 ハルの音がないダブルベッドでは、眠りにつくことができなかった。



 泊まるのは、一人で――だよね?



 彼が以前、新卒の女の子がやたらと話しかけてくるのだと、いつもの悪戯顔でからかってきたことが頭をよぎる。


『もちろん一緒にいたい』と頷かなかった妻に、愛想を尽かしたのではないか。

 確認する勇気もないまま、ただ暗闇の中で寝返りを打つ。


 顔を合わせれば会話はするし、たまにふっと笑ってもくれる。

 耐えきれずにシーツの上で抱きつくと、そっと頭を撫でてもくれる。


 けれど、私の決断を伝えたあの夜以来。

 ハルの方からは、一切触れてこなくなった。


 甘い悪戯も、隙間なく並んで座ってくる火曜日も、ないまま。

 ただ、時間だけが過ぎていく。


 出発まで、あと一週間となってしまっていた。

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