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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第三章

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第十六夜:買い込んだ茉莉花茶

『一緒に……行けない』


 静かだけれど覆る気配のない響きで、そう告げられた夜から。

 俺は、自分から彼女に触れることができなくなってしまった。


 遮光カーテンに閉ざされた寝室は、月明かりすら入り込まない濃密な闇に包まれている。

 外の熱帯夜から隔たれ、機械が絶え間なく冷やしていく空間。

 同じベッドに横たわっているというのに、二人の間には、見えない境界線が引かれているように感じる。


 これは、どちらが作ったものなのだろう。


 マナは時折、寝返りを打つとともに俺の胸元へ顔を埋めてきた。

 そのときだけ、ひどく慎重に、手のひらを艶やかな黒髪へ添えた。

 それが今できる精一杯の愛情表現であり、ギリギリの防衛線だった。


 もしも力強く腕を回し、柔らかい身体を抱きしめてしまったら。

 俺の奥底に渦巻く醜い渇望が、堰を切ったように流れ出してしまいそうだった。


『やっぱり一緒にいたいって、言えよ』


 彼女が身を切る思いで下した決断も、そうやって突き返してしまいそうだった。



 湯がジャスミンの色に染まっていくのを見つめる傍ら、背中越しに明かされた決断の理由は、痛いほどに真っ当だった。


 マナにとって、美容師の仕事はもはやアイデンティティそのものだ。

 それを手放し、海の向こうという未知の場所へ行くことが、到底想像できないという。


 誰かと笑い合うのが好きな彼女にとって、部屋で一人、夫の帰りを待つだけの生活はあまりに寂しい。

 自分を見失ってしまうのではないかという恐怖は理解できたし、反論の余地などなかった。


 懸命に納得しようとする、その一方で。

 身勝手に怒り狂いたくなる自分が確かに存在し、息を潜めている。

 一度でも素肌に触れてしまえば、その優しさに付け込んででも、意思を変えてやりたくなってしまいそうで。


 だから、手を伸ばせなかった。


 ◇


「幹本さん、本当にお忙しそう。何かあったら、私がお手伝いしますからね?」


 例の後輩アシスタントだ。

 すぐ横に来て、俺の赴任に関わる書類をデスクでトントンと揃えながら、声をかけてくる。


「奥さまは、日本に残るんですよね?」


「……あー、うん」


「私だったら、絶対についていくのになあ」


 意味ありげな空気を語尾に纏わせながら、ちらりと視線を向けられた。

 手を止め、無機質な微笑みを向ける。


「俺、昨日と同じ服着てるし、離れた方がいいよ」


 ギリギリの引き継ぎ作業に追われ、昨晩も帰宅を諦め会社の近くにあるカプセルホテルに泊まった。

 この一週間で、三度目だ。

 狭いスペースで寝た身体は、軋んでいる。


「えー? いい匂いしかしないですよー?」


 甲高い声はスルーして席を立ち、必要なものだけ鞄に詰め込むと、そのまま立ち去った。


 ようやく今日、赴任の事前準備の目処はついた。

 定時より少し早いが、帰ることにする。


 気づけば、出発まであと三日となってしまった。


 今日は、火曜日。

 サロンの定休日で、マナが家にいる日だ。


 ◇


 家の扉を開け、革靴を脱ぐ。

 一昨日ぶりの我が家の匂いが、肺に染み渡った。


 廊下を歩み進めると、リビングの脇へ置かれた大きめの段ボールが視界に映る。

 必要最低限の荷物はすでに空輸で送ったのだが、そこに詰めきれなかったものをまとめている最中だ。


 俺が発ったあと、マナに発送してもらうことになっている。


 突きつけられる現実から目を逸らし、箱の横を通り過ぎる。



 開け放たれたベランダの窓際で、ぼうっと外を眺めている背中が見えた。



「……っ」


 たった一日だ。

 たった一日離れていただけで、どうしようもないほどの飢えが募っている。


 こんなんじゃ、先が思いやられる。


 今すぐ引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動が、身体の底から激しく湧き上がった。


 なんとか理性を総動員し、一度深呼吸をしてから、声をかける。


「……マナ」


 彼女は、ゆっくりと振り返る。


「あ……おかえり」


「昨日、ごめん。帰れなくて」


「ううん。お疲れさま」


 夕暮れの陽を背に受けた微笑みは、そのまま透けて消えてしまいそうだった。

 その光景になぜか焦燥感をおぼえ、手に提げていた紙袋を持ち上げて見せる。


「これ……買っといたから」


 中身は、彼女の愛する茉莉花茶(ジャスミンティー)。


 店に立ち寄れるのは赴任前最後だったため、大量に買い込んだ。

 鞄には入らない量だったので、初めて立派な紙袋に包んでもらった。

 上質な素材の表面には、美しい花びらの模様が散りばめられている。


 彼女がそれを見た、次の瞬間だった。


「……っ」


 ベランダとリビングの境界を飛び越え、俺の胸元へ飛び込んできた。


 あまりの勢いに、身体が僅かに揺らぐ。


「……マナ?」


「…………」


 返事はない。


 手にしていた鞄と紙袋を、そっとフローリングの床に手放す。

 カサリ、と、茶葉の包装が擦れる、小さな音が響いた。


 躊躇いながらも、空いた手をその背中に回す。



 すると――全身が震えた。



 服越しの、柔らかな感触。たしかな体温。


 Yシャツ一枚を隔てて感じる彼女の吐息は、ひどく熱い。

 そして冷房の効いた部屋で、胸元にだけ、温かくて湿った感覚がじわりと広がっていくのがわかった。


 マナは、声を出さずに泣いていた。


 両手でゆっくりと、その顔を持ち上げる。

 瞼の縁から、ひと粒がこぼれ落ち、頬にあるほくろに伝う。

 それを、親指で優しく拭った。


 俺のその行動に、マナは新たな粒を、次々と溢れさせていく。


 どちらからともなく顔を傾け、ひとたび唇を重ねると。

 どうして触れ合わずにいられたのかわからないくらい、息継ぎすら忘れて繰り返した。


 数日間の空白と、失われかけていた温度を確かめるように、無我夢中で抱き寄せ合う。



「ハル……」


 荒い息のまま、マナは俺の肩に頭を預け、もたれかかった。

 それを支えてやるように、腰に手を添える。


「……ん」


 短く応え、表情を覗こうとした。


 しかし彼女は、それを見られるより先に、俺の耳元へ、震える吐息とともにこぼした。



「…………したいよ……」



 それは火曜日の夜にいつも、ソファに並んで座り、甘い心理戦の末に引き出そうとしていた言葉だった。


 ◇


 消え入りそうな懇願を合図に、もつれ合うようにして向かった寝室。

 あっという間に、二人の高鳴る体温と吐息で満ちていく。


 決して、都合のいい自惚れなんかじゃない。

 濡れた瞳。背中に回される細い指先の力。切実な響きを持った掠れ声。

 表情や仕草のすべてから、俺への痛烈な恋しさが伝わってきた。


 行き場のない視線が絡み合うたび。

 互いの胸の内で張り裂けそうになっている『本当の気持ち』が、喉の奥から何度も出てきそうになる。


 その寸前で、強く唇を重ね、塞ぎ合った。


 言葉は口に出した瞬間、輪郭を帯びてしまう。

 そのとき、絶望的な辛さを突きつけられるのは、言った本人になるのかもしれない。


 それを、避けてやりたい。

 そう、思ったからだ。


 すがりついてほしかったはずなのに。

 言わせたい言葉があったはずなのに。


 あまりに深く想うことで、初めて出会う愛情の形があった。

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