第十六夜:買い込んだ茉莉花茶
『一緒に……行けない』
静かだけれど覆る気配のない響きで、そう告げられた夜から。
俺は、自分から彼女に触れることができなくなってしまった。
遮光カーテンに閉ざされた寝室は、月明かりすら入り込まない濃密な闇に包まれている。
外の熱帯夜から隔たれ、機械が絶え間なく冷やしていく空間。
同じベッドに横たわっているというのに、二人の間には、見えない境界線が引かれているように感じる。
これは、どちらが作ったものなのだろう。
マナは時折、寝返りを打つとともに俺の胸元へ顔を埋めてきた。
そのときだけ、ひどく慎重に、手のひらを艶やかな黒髪へ添えた。
それが今できる精一杯の愛情表現であり、ギリギリの防衛線だった。
もしも力強く腕を回し、柔らかい身体を抱きしめてしまったら。
俺の奥底に渦巻く醜い渇望が、堰を切ったように流れ出してしまいそうだった。
『やっぱり一緒にいたいって、言えよ』
彼女が身を切る思いで下した決断も、そうやって突き返してしまいそうだった。
湯がジャスミンの色に染まっていくのを見つめる傍ら、背中越しに明かされた決断の理由は、痛いほどに真っ当だった。
マナにとって、美容師の仕事はもはやアイデンティティそのものだ。
それを手放し、海の向こうという未知の場所へ行くことが、到底想像できないという。
誰かと笑い合うのが好きな彼女にとって、部屋で一人、夫の帰りを待つだけの生活はあまりに寂しい。
自分を見失ってしまうのではないかという恐怖は理解できたし、反論の余地などなかった。
懸命に納得しようとする、その一方で。
身勝手に怒り狂いたくなる自分が確かに存在し、息を潜めている。
一度でも素肌に触れてしまえば、その優しさに付け込んででも、意思を変えてやりたくなってしまいそうで。
だから、手を伸ばせなかった。
◇
「幹本さん、本当にお忙しそう。何かあったら、私がお手伝いしますからね?」
例の後輩アシスタントだ。
すぐ横に来て、俺の赴任に関わる書類をデスクでトントンと揃えながら、声をかけてくる。
「奥さまは、日本に残るんですよね?」
「……あー、うん」
「私だったら、絶対についていくのになあ」
意味ありげな空気を語尾に纏わせながら、ちらりと視線を向けられた。
手を止め、無機質な微笑みを向ける。
「俺、昨日と同じ服着てるし、離れた方がいいよ」
ギリギリの引き継ぎ作業に追われ、昨晩も帰宅を諦め会社の近くにあるカプセルホテルに泊まった。
この一週間で、三度目だ。
狭いスペースで寝た身体は、軋んでいる。
「えー? いい匂いしかしないですよー?」
甲高い声はスルーして席を立ち、必要なものだけ鞄に詰め込むと、そのまま立ち去った。
ようやく今日、赴任の事前準備の目処はついた。
定時より少し早いが、帰ることにする。
気づけば、出発まであと三日となってしまった。
今日は、火曜日。
サロンの定休日で、マナが家にいる日だ。
◇
家の扉を開け、革靴を脱ぐ。
一昨日ぶりの我が家の匂いが、肺に染み渡った。
廊下を歩み進めると、リビングの脇へ置かれた大きめの段ボールが視界に映る。
必要最低限の荷物はすでに空輸で送ったのだが、そこに詰めきれなかったものをまとめている最中だ。
俺が発ったあと、マナに発送してもらうことになっている。
突きつけられる現実から目を逸らし、箱の横を通り過ぎる。
開け放たれたベランダの窓際で、ぼうっと外を眺めている背中が見えた。
「……っ」
たった一日だ。
たった一日離れていただけで、どうしようもないほどの飢えが募っている。
こんなんじゃ、先が思いやられる。
今すぐ引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動が、身体の底から激しく湧き上がった。
なんとか理性を総動員し、一度深呼吸をしてから、声をかける。
「……マナ」
彼女は、ゆっくりと振り返る。
「あ……おかえり」
「昨日、ごめん。帰れなくて」
「ううん。お疲れさま」
夕暮れの陽を背に受けた微笑みは、そのまま透けて消えてしまいそうだった。
その光景になぜか焦燥感をおぼえ、手に提げていた紙袋を持ち上げて見せる。
「これ……買っといたから」
中身は、彼女の愛する茉莉花茶。
店に立ち寄れるのは赴任前最後だったため、大量に買い込んだ。
鞄には入らない量だったので、初めて立派な紙袋に包んでもらった。
上質な素材の表面には、美しい花びらの模様が散りばめられている。
彼女がそれを見た、次の瞬間だった。
「……っ」
ベランダとリビングの境界を飛び越え、俺の胸元へ飛び込んできた。
あまりの勢いに、身体が僅かに揺らぐ。
「……マナ?」
「…………」
返事はない。
手にしていた鞄と紙袋を、そっとフローリングの床に手放す。
カサリ、と、茶葉の包装が擦れる、小さな音が響いた。
躊躇いながらも、空いた手をその背中に回す。
すると――全身が震えた。
服越しの、柔らかな感触。たしかな体温。
Yシャツ一枚を隔てて感じる彼女の吐息は、ひどく熱い。
そして冷房の効いた部屋で、胸元にだけ、温かくて湿った感覚がじわりと広がっていくのがわかった。
マナは、声を出さずに泣いていた。
両手でゆっくりと、その顔を持ち上げる。
瞼の縁から、ひと粒がこぼれ落ち、頬にあるほくろに伝う。
それを、親指で優しく拭った。
俺のその行動に、マナは新たな粒を、次々と溢れさせていく。
どちらからともなく顔を傾け、ひとたび唇を重ねると。
どうして触れ合わずにいられたのかわからないくらい、息継ぎすら忘れて繰り返した。
数日間の空白と、失われかけていた温度を確かめるように、無我夢中で抱き寄せ合う。
「ハル……」
荒い息のまま、マナは俺の肩に頭を預け、もたれかかった。
それを支えてやるように、腰に手を添える。
「……ん」
短く応え、表情を覗こうとした。
しかし彼女は、それを見られるより先に、俺の耳元へ、震える吐息とともにこぼした。
「…………したいよ……」
それは火曜日の夜にいつも、ソファに並んで座り、甘い心理戦の末に引き出そうとしていた言葉だった。
◇
消え入りそうな懇願を合図に、もつれ合うようにして向かった寝室。
あっという間に、二人の高鳴る体温と吐息で満ちていく。
決して、都合のいい自惚れなんかじゃない。
濡れた瞳。背中に回される細い指先の力。切実な響きを持った掠れ声。
表情や仕草のすべてから、俺への痛烈な恋しさが伝わってきた。
行き場のない視線が絡み合うたび。
互いの胸の内で張り裂けそうになっている『本当の気持ち』が、喉の奥から何度も出てきそうになる。
その寸前で、強く唇を重ね、塞ぎ合った。
言葉は口に出した瞬間、輪郭を帯びてしまう。
そのとき、絶望的な辛さを突きつけられるのは、言った本人になるのかもしれない。
それを、避けてやりたい。
そう、思ったからだ。
すがりついてほしかったはずなのに。
言わせたい言葉があったはずなのに。
あまりに深く想うことで、初めて出会う愛情の形があった。




