第十七夜:これからはずっと、ハルといたい
ハルは明日、遠いロンドンの空へと飛び立つ。
昨日、東京本社への出社と送別会を終えた彼は、今日は有休を取っている。
それに合わせ、私も今日から二日間、サロンに休みをもらっていた。
丸一日一緒に過ごせる、最後の日。
昨晩も夜更かししてしまったけれど、早くにセットした目覚ましの音で、揃って瞼を擦りながら起き上がった。
◇
オーナメント柄のレースカーテンを潜り抜けた朝陽が、フローリングへ美しい模様をつくっている。
シャキッ、シャキッ。
二人の家に、私の手元から鳴る軽やかな音だけが響く。
美容師として就職したとき、父と弟がお祝いで買ってくれたこのハサミ。
手にしっくりと馴染む重みと、家庭用ではあるものの滑らかで上質な切れ味を持っていた。
サロン以外でハルの髪をカットするのは、初めてだ。
部屋の中央に置いたダイニングチェアに腰掛け、いつものように瞼を閉じている彼。
真夏の強い光が、その頬に、長い睫毛の影を落としている。
幾度となくこの手で切り揃えてきた黒髪を見つめる。
ロンドンの美容院事情は、どうなっているんだろう。
次はどんな人が、この髪に触れることになるのだろうか。
そんな想像をしたら、胸の奥が痛んだ。
◇
カットを終え、頭や首に残った髪を、指先で優しく摘み取る。
美容師モードの、明るい声をかけた。
「お客さま。いかがですか?」
大きめの手鏡を渡し、仕上がりを確認してもらう。
ゆっくりと目を開けたハルが、鏡の中にいる自分と視線を合わせた。
「……初めてのやつだな」
今回は、前髪を思い切ってカットし、形の良い額がすべて見えるくらいの爽やかなショートヘアにした。
首筋も、刈り上げに近いくらい短くしている。
「向こうに着いても、すぐに美容院へ行けないかもしれないので、できるだけ短めに仕上げておきました。伸びてきても形が崩れにくいスタイルですよ」
少しでも長く、私が切った髪のままでいてほしい――。
そんな身勝手な未練を隠すように、わざと敬語で説明する。
「…………」
ハルは黙ったまま、鏡越しにじっと見つめてきた。
鋭い瞳に、この想いが見透かされているような気がして、少し視線を逸らす。
「……ありがとうございます」
やがて、口元をふっと緩めながら返してくれた。
「いえいえ。ご満足いただけて何よりです」
『美容院ごっこ』に乗ってくれたことが嬉しくて、思わずクスッとする。
今回のために買ったクロスから、細かい髪の毛を払い落とし、その首元からそっと外した。
床の掃除をするため、箒を取りに行こうと背を向けた、そのとき。
「じゃあ、シャンプーお願いします」
「え?」
振り返ると、ハルは真顔のままTシャツを脱ぎ、しなやかな上半身を露わにしていた。
◇
湿気の籠もったバスルーム。
白いタイルに囲まれた空間には、シャワーの湯気と、シトラスの香りが充満している。
目の前にあるのは――裸になって、楕円形のバスチェアに腰掛ける、ハルの背中。
「…………」
そんな状況に戸惑いながらも、手のひらでたっぷりとシャンプーを泡立てていく。
自分の服にかからないよう注意しながら、それをハルの頭に乗せた。
「なんで、服着てるんですか」
さっきの『美容院ごっこ』は続いており、ハルの紡ぐぎこちない敬語が響く。
「え!? だって、私は洗う側なので、脱ぐ意味ないですし……」
滑らかな肌の起伏を前にして、狼狽えてしまう。
別に、何度も目にしているわけだけれど――いつもの薄暗い部屋と、真昼の明るいバスルームとでは、また少し訳が違うのだ。
指の腹でゆっくりと、頭皮をマッサージするように洗っていく。
地肌の感触が心地よくて、いつまでもこの泡まみれの彼に触れていたかった。
やがて、名残惜しくも、温度を少し上げたシャワーでそっと洗い流していく。
広い肩や背中から跳ね返った水飛沫が、私の着ているシャツとスキニーに飛んで、少しずつ生地の色を濃くしていった。
綺麗に泡を流し終え、シャワーの蛇口を止めようとした。
その瞬間。
「ほら。どうせ濡れるんですから、脱いだ方がよかったですよ」
シャワーヘッドを握っていた私の右手首が、不意に捕えられた。
腕をぐっと引っ張られ、為す術もなく体勢が前に崩れる。
その拍子に、吹き出していた湯水が暴れ、着衣のままの私の全身へ容赦なくぶつかった。
「……ちょっと、ハル……!?」
抗議の声も、肌にぴたりと張り付いた服も、気にする素振りを見せないまま。
ハルは私の腰を、強く引き寄せる。
そして、水滴の滴る唇を重ねられた。
息ができないほど深くなっていく。
彼は私から奪い取ったシャワーヘッドを、乱暴な音を立てて壁のフックに掛けた。
頭上から降り注ぐ激しい水音が、狭い空間に反響して耳を打つ。
浴室のものなのか、私たちが発するものなのか、どんどん白く曇っていく空気の中、しがみつくように腕を回す。
濡れた短い髪へ指を潜り込ませ、そっと撫で続けた。
◇
午後になったらどこかに出かけようかと、話してはいたものの。
私たちは結局、冷蔵庫の余り物で小腹を満たす以外はずっと、シーツが散らかるベッドの上にいた。
どんなに強く確かめ合っても、少しでも身体が離れると途端に恋しくなって、またどちらからともなくすがりつく。
どうしようもなく甘くて苦しい行為を繰り返した。
ついさっき、赤みを帯びた夕暮れになっていることに気づいた窓の外は、またすぐに色を変え、群青の闇へと化していた。
夕食はハルの希望で、近所のちょっといいお寿司屋さんの出前をとった。
ダイニングテーブルに向かい合って座り、よく冷えたビールとともに艶やかなお寿司を味わう。
自分の薬指に、そっと視線を落とす。
今日は、普段はめている結婚指輪の上に、大切な婚約指輪を重ねている。
特別なときにだけ、箱から出すようにしているのだ。
リビングの柔らかな照明を受け、静かに煌めいている。
顔を上げると、ちょうどハルの視線も、その光に引き寄せられるように私の左手へと向いていた。
指をふわりと開いてみせる。
「ハル、これくれたとき……仕事中ははめられないって知って、すごくがっかりしてたよね」
美容師は、お客さんに当たってしまったり、薬剤が付いて変色してしまったりするのを避けるため、飾りがある指輪ははめない人が多い。
「だって。男除けだからって気合い入れて、貴重な初ボーナス注ぎ込んだから」
「ふふ。ごめん」
この眩い輝きを見るたび、当時のことを思い出す。
◇
偶然の再会から、腕を引かれるまま彼の部屋へたどり着き、言葉にできない熱を交わし合った。
ずっと私に覆い被さっていたハルが、そっと顔を上げる。
そして、すがるような瞳で言った。
『……結婚して』
あまりに突然で、その意味を理解するのに数秒を要した。
『……えっ?』
ただただ、目を見開く。
だって、ほんの数時間前まで、ハルと再会するなんて夢にも思っていなかったのだ。
三年ぶりに顔を合わせた瞬間から、互いの存在を確かめることだけに必死だった。
これまでどう過ごしてきたのか。今、どんな仕事に就き、どんなふうに暮らしているのか。
そんな当たり前の会話すら、何ひとつしていなかった。
無言のまま固まる私に、彼はひどく低い声で問いかけてきた。
『……付き合ってる奴が、いる?』
苦しげに、顔を歪ませている。
『あ、それは……いない、けど』
慌てて否定した。
『…………』
『えっと。ただ……驚いて。だって、また会えるなんて、思ってなかったから……』
強い眼差しに、さっきまでとは違った理由で心拍が上がっていくように感じる。
あの頃と変わらない部分もあれば、纏う空気がうんと大人びて、色っぽくもなっている。
そんなハルは、私の首元へ、深く顔を埋めた。
『俺は……ずっと会いたかった、から』
肌を伝うその響きは、切実だった。
彼ほど思い切りのよくない私。
即答できずにいると、『返事は急がないから』と、言ってくれた。
そのあと、駅まで送ってくれる道すがら、ハルは私の手をずっと、痛いほど強く握りしめていた。
その感触が、懐かしくて仕方なかった。
電子音が鳴る改札前。
繋いでいた手がするりと解かれると、心地よい温度が急激に失われていく。
誤魔化しようのない寂しさが込み上げた。
『……じゃあ、また』
ハルが静かに呟く。
『うん……』
小さく頷き、背を向けたけれど、足が動かない。
私は、すぐに振り返った。
『……っ、やっぱり……返事、今していい?』
ハルの顔が、強張る。
『……いい返事なら』
そう言って、目を逸らした。
『うん……』
私の短い答えに、彼は『え?』と勢いよく顔を上げる。
『私も……これからはずっと、ハルといたい』
気恥ずかしくて少しずらしていた視線を、ゆっくりと合わせた。
その瞬間、彼は弾かれたように私の手を引き、踵を返し始めた。
『……あの、ハル……!?』
『じゃあ、帰らないで』
『でも、ハルは明日仕事じゃ……』
『マナは休みだろ? 火曜日だし。だから……朝までいてよ』
思わず、顔が綻ぶ。
『……私の休み、覚えてたんだね』
そしてすぐに、この指輪を私にくれた。
あの日から今日まで、私たちはずっと一緒にいた。
私、あのとき――。
『これからはずっと、ハルといたい』って、言ったくせに。
部屋の隅にひとつだけ置かれた大きなスーツケースが、視界の端に映った。
◇
テレビはつけないまま、ずっとずっと喋っていた。
飽きもせず昔話ばかりして、声を出して笑い合った。
離れている二年間の過ごし方。ロンドンでの生活のこと。ここに残る私のこと。
交わしておくべき「先の話」は、山ほどある。
けれど、それらを口にした途端、この穏やかな時間が崩れ去ってしまいそうで、切り出すことができなかった。
朝が来れば、私たちの物理的な距離は、何千キロも離れてしまう。
それでも、見つめ合うハルの瞳は優しく、部屋には彼の温度と香りが満ちていた。
一秒ずつ確実に、別れのときへと向かっているというのに、今の「この瞬間」は嘘みたいに楽しくて、幸福でたまらなかった。




