↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/24

第十七夜:これからはずっと、ハルといたい

 ハルは明日、遠いロンドンの空へと飛び立つ。


 昨日、東京本社への出社と送別会を終えた彼は、今日は有休を取っている。

 それに合わせ、私も今日から二日間、サロンに休みをもらっていた。


 丸一日一緒に過ごせる、最後の日。

 昨晩も夜更かししてしまったけれど、早くにセットした目覚ましの音で、揃って瞼を擦りながら起き上がった。


 ◇


 オーナメント柄のレースカーテンを潜《くぐ》り抜けた朝陽が、フローリングへ美しい模様をつくっている。


 シャキッ、シャキッ。


 二人の家に、私の手元から鳴る軽やかな音だけが響く。


 美容師として就職したとき、父と弟がお祝いで買ってくれたこのハサミ。

 手にしっくりと馴染む重みと、家庭用ではあるものの滑らかで上質な切れ味を持っていた。


 サロン以外でハルの髪をカットするのは、初めてだ。


 部屋の中央に置いたダイニングチェアに腰掛け、いつものように瞼を閉じている彼。

 真夏の強い光が、その頬に、長い睫毛の影を落としている。


 幾度となくこの手で切り揃えてきた黒髪を見つめる。


 ロンドンの美容院事情は、どうなっているんだろう。

 次はどんな人が、この髪に触れることになるのだろうか。


 そんな想像をしたら、胸の奥が痛んだ。


 ◇


 カットを終え、頭や首に残った髪を、指先で優しく摘み取る。


 美容師モードの、明るい声をかけた。


「お客さま。いかがですか?」


 大きめの手鏡を渡し、仕上がりを確認してもらう。

 ゆっくりと目を開けたハルが、鏡の中にいる自分と視線を合わせた。


「……初めてのやつだな」


 今回は、前髪を思い切ってカットし、形の良い額がすべて見えるくらいの爽やかなショートヘアにした。

 首筋も、刈り上げに近いくらい短くしている。


「向こうに着いても、すぐに美容院へ行けないかもしれないので、できるだけ短めに仕上げておきました。伸びてきても形が崩れにくいスタイルですよ」


 少しでも長く、私が切った髪のままでいてほしい――。

 そんな身勝手な未練を隠すように、わざと敬語で説明する。


「…………」


 ハルは黙ったまま、鏡越しにじっと見つめてきた。

 鋭い瞳に、この想いが見透かされているような気がして、少し視線を逸らす。


「……ありがとうございます」


 やがて、口元をふっと緩めながら返してくれた。


「いえいえ。ご満足いただけて何よりです」


『美容院ごっこ』に乗ってくれたことが嬉しくて、思わずクスッとする。

 今回のために買ったクロスから、細かい髪の毛を払い落とし、その首元からそっと外した。


 床の掃除をするため、箒を取りに行こうと背を向けた、そのとき。



「じゃあ、シャンプーお願いします」



「え?」


 振り返ると、ハルは真顔のままTシャツを脱ぎ、しなやかな上半身を露わにしていた。


 ◇


 湿気の籠もったバスルーム。

 白いタイルに囲まれた空間には、シャワーの湯気と、シトラスの香りが充満している。


 目の前にあるのは――裸になって、楕円形のバスチェアに腰掛ける、ハルの背中。


「…………」


 そんな状況に戸惑いながらも、手のひらでたっぷりとシャンプーを泡立てていく。

 自分の服にかからないよう注意しながら、それをハルの頭に乗せた。


「なんで、服着てるんですか」


 さっきの『美容院ごっこ』は続いており、ハルの紡ぐぎこちない敬語が響く。


「え!? だって、私は洗う側なので、脱ぐ意味ないですし……」


 滑らかな肌の起伏を前にして、狼狽えてしまう。

 別に、何度も目にしているわけだけれど――いつもの薄暗い部屋と、真昼の明るいバスルームとでは、また少し訳が違うのだ。


 指の腹でゆっくりと、頭皮をマッサージするように洗っていく。

 地肌の感触が心地よくて、いつまでもこの泡まみれの彼に触れていたかった。


 やがて、名残惜しくも、温度を少し上げたシャワーでそっと洗い流していく。

 広い肩や背中から跳ね返った水飛沫が、私の着ているシャツとスキニーに飛んで、少しずつ生地の色を濃くしていった。



 綺麗に泡を流し終え、シャワーの蛇口を止めようとした。


 その瞬間。



「ほら。どうせ濡れるんですから、脱いだ方がよかったですよ」



 シャワーヘッドを握っていた私の右手首が、不意に捕えられた。


 腕をぐっと引っ張られ、為す術もなく体勢が前に崩れる。

 その拍子に、吹き出していた湯水が暴れ、着衣のままの私の全身へ容赦なくぶつかった。


「……ちょっと、ハル……!?」


 抗議の声も、肌にぴたりと張り付いた服も、気にする素振りを見せないまま。

 ハルは私の腰を、強く引き寄せる。


 そして、水滴の滴る唇を重ねられた。


 息ができないほど深くなっていく。

 彼は私から奪い取ったシャワーヘッドを、乱暴な音を立てて壁のフックに掛けた。


 頭上から降り注ぐ激しい水音が、狭い空間に反響して耳を打つ。


 浴室のものなのか、私たちが発するものなのか、どんどん白く曇っていく空気の中、しがみつくように腕を回す。

 濡れた短い髪へ指を潜り込ませ、そっと撫で続けた。


 ◇


 午後になったらどこかに出かけようかと、話してはいたものの。

 私たちは結局、冷蔵庫の余り物で小腹を満たす以外はずっと、シーツが散らかるベッドの上にいた。


 どんなに強く確かめ合っても、少しでも身体が離れると途端に恋しくなって、またどちらからともなくすがりつく。

 どうしようもなく甘くて苦しい行為を繰り返した。



 ついさっき、赤みを帯びた夕暮れになっていることに気づいた窓の外は、またすぐに色を変え、群青の闇へと化していた。


 夕食はハルの希望で、近所のちょっといいお寿司屋さんの出前をとった。

 ダイニングテーブルに向かい合って座り、よく冷えたビールとともに艶やかなお寿司を味わう。


 自分の薬指に、そっと視線を落とす。

 今日は、普段はめている結婚指輪の上に、大切な婚約指輪を重ねている。

 特別なときにだけ、箱から出すようにしているのだ。


 リビングの柔らかな照明を受け、静かに煌めいている。


 顔を上げると、ちょうどハルの視線も、その光に引き寄せられるように私の左手へと向いていた。


 指をふわりと開いてみせる。


「ハル、これくれたとき……仕事中ははめられないって知って、すごくがっかりしてたよね」


 美容師は、お客さんに当たってしまったり、薬剤が付いて変色してしまったりするのを避けるため、飾りがある指輪ははめない人が多い。


「だって。男除けだからって気合い入れて、貴重な初ボーナス注ぎ込んだから」


「ふふ。ごめん」


 この眩い輝きを見るたび、当時のことを思い出す。


 ◇


 偶然の再会から、腕を引かれるまま彼の部屋へたどり着き、言葉にできない熱を交わし合った。


 ずっと私に覆い被さっていたハルが、そっと顔を上げる。

 そして、すがるような瞳で言った。



『……結婚して』



 あまりに突然で、その意味を理解するのに数秒を要した。


『……えっ?』


 ただただ、目を見開く。

 だって、ほんの数時間前まで、ハルと再会するなんて夢にも思っていなかったのだ。


 三年ぶりに顔を合わせた瞬間から、互いの存在を確かめることだけに必死だった。

 これまでどう過ごしてきたのか。今、どんな仕事に就き、どんなふうに暮らしているのか。

 そんな当たり前の会話すら、何ひとつしていなかった。


 無言のまま固まる私に、彼はひどく低い声で問いかけてきた。



『……付き合ってる奴が、いる?』



 苦しげに、顔を歪ませている。


『あ、それは……いない、けど』


 慌てて否定した。


『…………』


『えっと。ただ……驚いて。だって、また会えるなんて、思ってなかったから……』


 強い眼差しに、さっきまでとは違った理由で心拍が上がっていくように感じる。

 あの頃と変わらない部分もあれば、纏う空気がうんと大人びて、色っぽくもなっている。


 そんなハルは、私の首元へ、深く顔を埋めた。


『俺は……ずっと会いたかった、から』


 肌を伝うその響きは、切実だった。


 彼ほど思い切りのよくない私。

 即答できずにいると、『返事は急がないから』と、言ってくれた。



 そのあと、駅まで送ってくれる道すがら、ハルは私の手をずっと、痛いほど強く握りしめていた。

 その感触が、懐かしくて仕方なかった。


 電子音が鳴る改札前。

 繋いでいた手がするりと解かれると、心地よい温度が急激に失われていく。

 誤魔化しようのない寂しさが込み上げた。


『……じゃあ、また』


 ハルが静かに呟く。


『うん……』


 小さく頷き、背を向けたけれど、足が動かない。


 私は、すぐに振り返った。


『……っ、やっぱり……返事、今していい?』


 ハルの顔が、強張る。


『……いい返事なら』


 そう言って、目を逸らした。


『うん……』


 私の短い答えに、彼は『え?』と勢いよく顔を上げる。



『私も……これからはずっと、ハルといたい』



 気恥ずかしくて少しずらしていた視線を、ゆっくりと合わせた。

 その瞬間、彼は弾かれたように私の手を引き、踵を返し始めた。


『……あの、ハル……!?』


『じゃあ、帰らないで』


『でも、ハルは明日仕事じゃ……』


『マナは休みだろ? 火曜日だし。だから……朝までいてよ』


 思わず、顔が綻ぶ。


『……私の休み、覚えてたんだね』



 そしてすぐに、この指輪を私にくれた。

 あの日から今日まで、私たちはずっと一緒にいた。


 私、あのとき――。

『これからはずっと、ハルといたい』って、言ったくせに。


 部屋の隅にひとつだけ置かれた大きなスーツケースが、視界の端に映った。


 ◇


 テレビはつけないまま、ずっとずっと喋っていた。

 飽きもせず昔話ばかりして、声を出して笑い合った。


 離れている二年間の過ごし方。ロンドンでの生活のこと。ここに残る私のこと。

 交わしておくべき「先の話」は、山ほどある。

 けれど、それらを口にした途端、この穏やかな時間が崩れ去ってしまいそうで、切り出すことができなかった。


 朝が来れば、私たちの物理的な距離は、何千キロも離れてしまう。


 それでも、見つめ合うハルの瞳は優しく、部屋には彼の温度と香りが満ちていた。

 一秒ずつ確実に、別れのときへと向かっているというのに、今の「この瞬間」は嘘みたいに楽しくて、幸福でたまらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。