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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第三章

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18/24

第十八夜:今さら?

 出発の朝を迎えた。

 最後の荷造りを見せたくなくて、マナより一時間早くベッドを出た。


 リビングのカーテンを開け、見慣れた景色を覗く。

 まだ六時台だというのに、外はすでに陽炎の気配を漂わせていた。



 荷物を隙間なく詰められ、いまにも弾けそうなほど膨らんだスーツケース。

 固いロックをかけ、玄関の脇に移動させた。

 

 そして、彼女の好物の準備へと取り掛かる。


 小気味よい音を立てながら、卵と牛乳を混ぜ合わせる。

 マナは甘さ控えめを好むため、砂糖は規定量の三分の二程度にしている。


 バターが溶けきる直前にパンを滑り込ませると、香ばしい匂いが漂う。

 重たい空気を、優しく塗り替えていくようだった。


 黄金色に変わっていく姿を、ただじっと見つめていた。


 卵とバターの甘さを閉じ込めたそれが出来上がった。

 マナのお気に入りの皿に盛り付け、寝室へと向かう。



 マナは、ガーゼケットの下、静かに寝息を立てている。

 暑かったのか、剥ごうとした形跡があった。


 ベッドの脇に座り、その顔を至近距離で眺めた。


 無防備に投げ出された白い首筋、薄紅色の唇。

 目覚めたとき、隣にいない朝がどれだけ続くのか、今は想像すらしたくなかった。


 やり場のない気持ちを、自分の中で強引に愛情へと変え、そっと口づける。


「……っ」


 マナは、すぐに瞼を開いた。


 いつもなら、こういった突然の行動には抵抗の姿勢を見せることが多いけれど、今日は俺の後頭部を撫でるように包み、応えてきた。

 俺のほうも、朝に似つかわしくない手つきで、彼女のいろんな感触を確かめた。



 しばらくそうしていたあと、ゆっくりと離れ、ようやく朝の挨拶を交わす。


「……おはよ」


「……おはよう」


 甘えたような声が愛しくて、もう一度だけキスを落とした。


「朝飯できてるけど、食べる?」


「もしかして、フレンチトースト?」


 香りで察知されていたようだ。


「ん」


「……やったあ」


 手を貸し、身体を起こしてやった。


 ◇


「いただきます」


 定位置に座り、一緒に食べ始めた。


「美味しい」


「ん」


 フライトは昼過ぎの便だが、空港での手続きを考え、もう二時間後には家を出る予定にしている。


 マナは「空港までは行かずに、家で見送りたい」と言った。

 俺も、それがいいと思った。

 理性を保ったまま、彼女を置いて飛行機に乗れる自信が、持てなかったからだ。


 なるべくいつも通りに。

 俺たちは、その無言のルールのもと、同じ味を口に運んでいった。


 ◇


 食後、キッチンに立ち、お湯を沸かす。


 戸棚からいつもの茶葉を取り出し、ガラスポットに入れる。

 立ち上る湯気とともに、ふわりとジャスミンの華やかな香りが広がった。


「淹れたよ」


「……ありがとう」


 テーブルに置いたマグカップを、彼女は両手で包み込むようにして持つ。


「淹れ方のメモ、冷蔵庫にも貼っといたけど。お湯は少し冷ましてから。蒸らすのは三分な」


「わかった。ありがと」


 何度目かの指導にクスクスと笑うマナを見て、胸の奥が締め付けられる。


 これらの行動はすべて、純粋な優しさなどではなく、ひとつでも多く俺の痕跡を残したいという気持ちゆえだった。

 味や香りを通して、俺の存在をできるだけ深く、彼女に刻み込みたい。

 そして、その微笑みを、この脳裏に焼き付けておきたかった。


 ◇


『その時』は、無情にもやってくる。


 玄関で、革靴を履く。

 スーツケースのハンドルを握った俺の前に、マナが立った。

 手を伸ばせば届く、たった一歩の距離が、これから途方もなく開いてしまう。

 足が竦みそうだった。


 マナがそっと歩み寄り、腰へ抱きついてきた。

 自分と同じシトラスの香りが、その髪から漂う。


「浮気……しないでね」


 顔を埋めたまま、くぐもった声で呟かれた。

 思わず「あ?」と呆れる。


「それはこっちの台詞」


「するわけないじゃん」


 俺の胸元で、唇を尖らせている。


「したら、地獄の果てまで追いかけるから」


 本気の色を混ぜて脅すと、マナは「こわーい」と肩を揺らして笑った。

 その振動が、身体へ直に伝わってくる。


「マナは?」


「え?」


「俺が浮気したら、どうすんの」


 意地悪な問いを投げると、「んーそうだなあ」と少しだけ考える素振りを見せた。


「藁人形作って、呪ってやる」


 顔を上げて睨みつけられ、吹き出した。


「なんか、小学生の答えって感じ」


「なによう」


 マナもつられたように笑い出す。

 二人を包む空気が、ふわりと緩んだ。


 視線が絡み合う。

 互いの瞳の奥には、どうしようもない痛みが隠されているのを感じ取った。


 吸い寄せられるように、顔を近づける。


 重なった唇は、先ほどの笑い混じりの空気とは裏腹に、ひどく切ない熱を帯びていた。


 角度を変えて、何度も。

 体温と匂いを、細胞の隅々にまで染み渡らせるように。


 押し込めたはずの本音が、隙間から零れ落ちそうになるのを堪え、ゆっくりと自分の身体を引き剥がした。


「……じゃあ、行くな」


 真鍮のドアノブに手を掛け、ぐっと押し開ける。


「うん、いってらっしゃい。お休みとれたら、遊びに行くから」


 いつもの笑顔を見せるマナ。


「嘘くさ」


「本当だって」


『行けたら行く』と言って絶対に実行しない人間の台詞そのもので、逆に笑えた。


「毎日、ちゃんと戸締りして」


「うん」


「他の男に、隙見せんな」


「はあい」


 へらへらとする彼女に、軽く睨みをきかせる。

 そして、その笑顔が崩れないうちに、重い扉の外に出た。


 パタン、と響いた無機質な音が、二人の世界を完全に分断した。



 スーツケースのキャスターが、共有廊下のコンクリートを転がる。

 一歩進むごとに、半身を引き千切られるような錯覚に陥った。


 決して、戻ってはいけない。

 戻ってしまったら、今日までの努力を水の泡にしてでも、マナを引きずって連れていくか、自分のやるべきことなんて捨て、側に留まりたくなってしまうだろう。


 奥歯を噛み締め、エレベーターホールへと続く角を曲がった、そのときだった。



 これまで聞いたこともないような、悲痛な泣き声が届いた。



 心臓が、跳ね上がる。


 数秒前までの決意なんて忘れ、踵を返し、スーツケースを放って走り出した。


 閉めたばかりの、まだ鍵のかけられていない扉に手をかけ、勢いよく開ける。


 そこには――。


 冷たい床にへたり込み、大声を上げて泣きじゃくる、マナの姿があった。


「……っ」


 慌てて屈み、その壊れそうな身体を、これ以上ないくらいきつく抱き寄せた。


 まるで迷子になった子どものように、俺の腕にすがりつき、何かを探し求めている。

 熱い涙が、シャツを通して肌へと染み込んできた。


 こんなふうに泣くところを見るのは、初めてだった。

 さっきまで、平気なふりをしていたくせに。


 本当に、どうしようもない俺は。

 そんな姿にも、愛しさと少しの安堵が、込み上げてきてしまうのだった。


「……マナ、俺のこと、めっちゃ好きじゃん」


 震える背中をそっと撫でながら、言った。


「……っ……今さら……?」


 顔を押し付けたままのマナは、しゃくりあげながら返してきた。


 目頭が熱くなり、腕に力を込めた。


 その頬を濡らす涙が、少しでもおさまるように。

 出発の時間が許す、本当にギリギリの瞬間まで。

 硬い床の上で、愛しい妻のすべてを、ただひたすらに強く抱きしめ続けた。

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