第十八夜:今さら?
出発の朝を迎えた。
最後の荷造りを見せたくなくて、マナより一時間早くベッドを出た。
リビングのカーテンを開け、見慣れた景色を覗く。
まだ六時台だというのに、外はすでに陽炎の気配を漂わせていた。
荷物を隙間なく詰められ、いまにも弾けそうなほど膨らんだスーツケース。
固いロックをかけ、玄関の脇に移動させた。
そして、彼女の好物の準備へと取り掛かる。
小気味よい音を立てながら、卵と牛乳を混ぜ合わせる。
マナは甘さ控えめを好むため、砂糖は規定量の三分の二程度にしている。
バターが溶けきる直前にパンを滑り込ませると、香ばしい匂いが漂う。
重たい空気を、優しく塗り替えていくようだった。
黄金色に変わっていく姿を、ただじっと見つめていた。
卵とバターの甘さを閉じ込めたそれが出来上がった。
マナのお気に入りの皿に盛り付け、寝室へと向かう。
マナは、ガーゼケットの下、静かに寝息を立てている。
暑かったのか、剥ごうとした形跡があった。
ベッドの脇に座り、その顔を至近距離で眺めた。
無防備に投げ出された白い首筋、薄紅色の唇。
目覚めたとき、隣にいない朝がどれだけ続くのか、今は想像すらしたくなかった。
やり場のない気持ちを、自分の中で強引に愛情へと変え、そっと口づける。
「……っ」
マナは、すぐに瞼を開いた。
いつもなら、こういった突然の行動には抵抗の姿勢を見せることが多いけれど、今日は俺の後頭部を撫でるように包み、応えてきた。
俺のほうも、朝に似つかわしくない手つきで、彼女のいろんな感触を確かめた。
しばらくそうしていたあと、ゆっくりと離れ、ようやく朝の挨拶を交わす。
「……おはよ」
「……おはよう」
甘えたような声が愛しくて、もう一度だけキスを落とした。
「朝飯できてるけど、食べる?」
「もしかして、フレンチトースト?」
香りで察知されていたようだ。
「ん」
「……やったあ」
手を貸し、身体を起こしてやった。
◇
「いただきます」
定位置に座り、一緒に食べ始めた。
「美味しい」
「ん」
フライトは昼過ぎの便だが、空港での手続きを考え、もう二時間後には家を出る予定にしている。
マナは「空港までは行かずに、家で見送りたい」と言った。
俺も、それがいいと思った。
理性を保ったまま、彼女を置いて飛行機に乗れる自信が、持てなかったからだ。
なるべくいつも通りに。
俺たちは、その無言のルールのもと、同じ味を口に運んでいった。
◇
食後、キッチンに立ち、お湯を沸かす。
戸棚からいつもの茶葉を取り出し、ガラスポットに入れる。
立ち上る湯気とともに、ふわりとジャスミンの華やかな香りが広がった。
「淹れたよ」
「……ありがとう」
テーブルに置いたマグカップを、彼女は両手で包み込むようにして持つ。
「淹れ方のメモ、冷蔵庫にも貼っといたけど。お湯は少し冷ましてから。蒸らすのは三分な」
「わかった。ありがと」
何度目かの指導にクスクスと笑うマナを見て、胸の奥が締め付けられる。
これらの行動はすべて、純粋な優しさなどではなく、ひとつでも多く俺の痕跡を残したいという気持ちゆえだった。
味や香りを通して、俺の存在をできるだけ深く、彼女に刻み込みたい。
そして、その微笑みを、この脳裏に焼き付けておきたかった。
◇
『その時』は、無情にもやってくる。
玄関で、革靴を履く。
スーツケースのハンドルを握った俺の前に、マナが立った。
手を伸ばせば届く、たった一歩の距離が、これから途方もなく開いてしまう。
足が竦みそうだった。
マナがそっと歩み寄り、腰へ抱きついてきた。
自分と同じシトラスの香りが、その髪から漂う。
「浮気……しないでね」
顔を埋めたまま、くぐもった声で呟かれた。
思わず「あ?」と呆れる。
「それはこっちの台詞」
「するわけないじゃん」
俺の胸元で、唇を尖らせている。
「したら、地獄の果てまで追いかけるから」
本気の色を混ぜて脅すと、マナは「こわーい」と肩を揺らして笑った。
その振動が、身体へ直に伝わってくる。
「マナは?」
「え?」
「俺が浮気したら、どうすんの」
意地悪な問いを投げると、「んーそうだなあ」と少しだけ考える素振りを見せた。
「藁人形作って、呪ってやる」
顔を上げて睨みつけられ、吹き出した。
「なんか、小学生の答えって感じ」
「なによう」
マナもつられたように笑い出す。
二人を包む空気が、ふわりと緩んだ。
視線が絡み合う。
互いの瞳の奥には、どうしようもない痛みが隠されているのを感じ取った。
吸い寄せられるように、顔を近づける。
重なった唇は、先ほどの笑い混じりの空気とは裏腹に、ひどく切ない熱を帯びていた。
角度を変えて、何度も。
体温と匂いを、細胞の隅々にまで染み渡らせるように。
押し込めたはずの本音が、隙間から零れ落ちそうになるのを堪え、ゆっくりと自分の身体を引き剥がした。
「……じゃあ、行くな」
真鍮のドアノブに手を掛け、ぐっと押し開ける。
「うん、いってらっしゃい。お休みとれたら、遊びに行くから」
いつもの笑顔を見せるマナ。
「嘘くさ」
「本当だって」
『行けたら行く』と言って絶対に実行しない人間の台詞そのもので、逆に笑えた。
「毎日、ちゃんと戸締りして」
「うん」
「他の男に、隙見せんな」
「はあい」
へらへらとする彼女に、軽く睨みをきかせる。
そして、その笑顔が崩れないうちに、重い扉の外に出た。
パタン、と響いた無機質な音が、二人の世界を完全に分断した。
スーツケースのキャスターが、共有廊下のコンクリートを転がる。
一歩進むごとに、半身を引き千切られるような錯覚に陥った。
決して、戻ってはいけない。
戻ってしまったら、今日までの努力を水の泡にしてでも、マナを引きずって連れていくか、自分のやるべきことなんて捨て、側に留まりたくなってしまうだろう。
奥歯を噛み締め、エレベーターホールへと続く角を曲がった、そのときだった。
これまで聞いたこともないような、悲痛な泣き声が届いた。
心臓が、跳ね上がる。
数秒前までの決意なんて忘れ、踵を返し、スーツケースを放って走り出した。
閉めたばかりの、まだ鍵のかけられていない扉に手をかけ、勢いよく開ける。
そこには――。
冷たい床にへたり込み、大声を上げて泣きじゃくる、マナの姿があった。
「……っ」
慌てて屈み、その壊れそうな身体を、これ以上ないくらいきつく抱き寄せた。
まるで迷子になった子どものように、俺の腕にすがりつき、何かを探し求めている。
熱い涙が、シャツを通して肌へと染み込んできた。
こんなふうに泣くところを見るのは、初めてだった。
さっきまで、平気なふりをしていたくせに。
本当に、どうしようもない俺は。
そんな姿にも、愛しさと少しの安堵が、込み上げてきてしまうのだった。
「……マナ、俺のこと、めっちゃ好きじゃん」
震える背中をそっと撫でながら、言った。
「……っ……今さら……?」
顔を押し付けたままのマナは、しゃくりあげながら返してきた。
目頭が熱くなり、腕に力を込めた。
その頬を濡らす涙が、少しでもおさまるように。
出発の時間が許す、本当にギリギリの瞬間まで。
硬い床の上で、愛しい妻のすべてを、ただひたすらに強く抱きしめ続けた。




