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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
最終章

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19/24

第十九夜:遅効性の毒のように

「どちらにしようか迷っていて……まだ、決められていないんです」


 初めて来店してくださった、私より少し年下くらいの女性のお客様。

 どこか申し訳なさそうに、視線を落としている。


「『これ、いいな』と思った画像などは、ありますか?」


 穏やかな声で問いかけると、手元のスマートフォンを操作し、遠慮がちに画面を見せてくれた。


「これと、これなんですけど……」


「わあ、どちらもすごく可愛いですね!」


「すみません。全然違う系統ですよね……」


 伏せられた横顔へ、明るく語りかける。


「たしかに、キュート系とクール系で分かれますが、いいとこ取りはできると思います。たとえば……こんなスタイルはどうでしょう?」


「失礼します」と一言かけてから、指先でそっと、大事に伸ばされた髪へ触れさせてもらう。


「ベースは、今の綺麗なロングを活かしたストレートに。顔まわりだけにレイヤーを入れて、ほんの少し甘めのスパイスを足すんです」


 鏡越しに、そう提案してみる。

 すると、強張っていた彼女の表情が、ふわりと和らいだ。


「……はい。それでお願いしたいです!」


「かしこまりました!」


 オーダーがはっきり決まっていないと、美容師を困らせてしまうのではないかと、引け目を感じてしまう方は少なくない。

 けれど、私はこのカウンセリングの時間が、とても好きだ。

 お客様の気に入る形を、対話からヒントを得て一緒に探していくことに、心が躍るのだ。


 ◇


 一時間半後。仕上がりに満足してくださったお客様を、エントランスへとご案内する。


「日差しが強いので、気をつけてお帰りくださいね!」


 陽を反射するガラス戸を押し開けながら、そうお声がけした。

 カレンダーは九月も半ばに差し掛かっているというのに、漂う空気はまだ真夏のそれだ。


「はい! 今日はありがとうございましたっ」


 お店に入ってきた時よりも、足取りも表情もずっと軽やかになっている。


「こちらこそ、ありがとうございました!」


 明るい挨拶とともに、深くお辞儀をした。


 自分の手がけた髪型で、誰かの今日が少しだけ前向きになる。

 美容師冥利に尽きる瞬間だ。


 しかし、遠ざかる背中を見送り、ひとり店内に戻るとき。

 緊張の糸がふっと緩むと、冷たくて暗い影が私の心を覆う。


 ◇


 ハルがロンドンへ飛び立ったあの炎天の日から、一か月が過ぎた。


 時差は八時間。

 日本が夜で、向こうが昼下がりになる頃に、毎日数分でも電話をしている。

 時間の合わせやすい週末は、ビデオ通話にして顔を見て話す。

 それが、私たちの新しいルーティンになっていた。



『え、なに。煽ってんの?』


 日曜日の夜。

 画面越しに聞こえてきた第一声は、相変わらずの意地悪な響きを含んでいた。


 入浴後、キャミソール姿でシーツに寝そべりながら映った私への感想だ。


「はい?」


 眉をひそめるその顔に、小さく吹き出してしまった。


『どういう意図?』


「意図なんてないよ、ただ暑いだけ。夫婦なんだから、別にいいじゃん」


 笑いながら、一人では持て余すくらい広々としたダブルベッドで、寝返りを打つ。


「……そっちの生活は、どう? 慣れてきた?」


『米、食いたい』


「ふふ。送ろうか?」


『次、荷物送ってもらうとき頼むわ』


 画面の向こうの彼は、明るい部屋でマグカップを傾けている。

 スピーカーから響く落ち着いた声は、すぐ耳元で囁かれているかのように鮮明だった。


「今さらだけど、電話って懐かしいよね。付き合う前、ハルが毎晩のようにかけてきて」


 ふと思い出し、懐かしくて頬が緩む。


『あったな。そんなこと』


「ハル、私と話したそうにしてて、可愛かったなあ」


『話したがってたのはマナでしょ。毎回必ず、一、二コールで出たし。待ってたんだろ?』


「はい?」


 ハルはいつも、水泳レッスンからの帰路でかけてきていた。

 たしかにその時間が近づくと、ついスマートフォンを意識してしまっていた気がする。


 電話では、他愛のない話で笑ったり、この日に駅前にあるカフェの限定メニューを食べに行こうとか、本屋に付き合ってなどと誘われたりした。


「一番可愛かったのは『半額クーポン事件』のハルかなあ」


『…………』


 素知らぬ顔をつくり、コーヒーを啜る彼。



 その事件とは――。


 まだ恋人になる前、ハルと学校帰りに遊んでいたとき。

 うっかり『アキラ』と、弟の名で呼びかけてしまったのが発端だった。

 そんなつもりはなかったのだが、『結局、弟みたいな存在なんだな』と腹を立てたハルは、目も合わせないまま足早に帰ってしまった。


 そして、日課だった着信が途絶えたのだ。


 鳴らないスマートフォンを見つめる、落ち着かない夜が続いた。

 耐えきれなくなった私は、初めて自分から彼の番号をタップした。


 当時、周りの高校生はみんな登録していたファストフード店のメルマガ。

 そこで送られてきた、ソフトクリーム半額クーポンの二枚綴りを口実にしようと考えた。


『一緒に……行かない?』


『……友達と行けば』


 上擦りそうになる声を抑えて誘ったものの、そっけなく返された。


『……私、もう自分のクーポン使いきっちゃったんだもん。ハルはまだ、使ってないんでしょ? もうすぐ期限切れるし、連れていって』


『え、なに。ソフトクリーム乞食ってこと?』


 独特なワードチョイスに、思わず笑ってしまう。


『まあ、そんな感じ』


 ハルはいつもより低いトーンではあったが、『いいけど』と、私の初めてのおねだりを了承してくれた。


 もちろん、誘った理由は、ただ会いたかっただけ。

 顔を見て話したかっただけだ。


 翌日の放課後。

 騒がしい店内で横並びになって、冷たいソフトクリームをつついて喋るうち、わだかまりはいつの間にか溶けてなくなっていた。


 その日の夜も、寝る前、柔らかい毛布に包まりながら通話した。


『今日、ありがとう』


『……弟にソフトクリーム乞食しないでもらっていい?』


『弟なんて、思ってないよ』


『どうだか』


 拗ねたように鼻で笑う音が聞こえた。

 私は、少し速くなる心音を感じながら、悪戯っぽく明かした。


『……クーポンなくなったって、嘘だったし』


 スピーカーの向こうのハルは、黙り込む。


 やがて、私の意図――つまり『ただ会いたくて、適当な嘘をついて誘った』ということに気づくと、『……はっ?』と素っ頓狂な声を上げた。


 顔が見えなくてもわかるくらい、動揺していた。

 その反応が、可愛くて、こそばゆくて。

 胸の奥の甘い疼きを感じながら、クスクスと肩を揺らした。


 そして、また数日後に会う約束をして、眠りについたのだった。



『なに笑ってんの』


 十六歳の彼を思い出していたら、二十五歳の彼に目を細められた。


「べつにー?」


『……次会ったとき、覚えとけよ?』


「きゃー。こわーい」


 そう言って、いつものように笑い合ったけれど。


 嫌でも突きつけられてしまう。

 隣に、その心音も体温もないことを――。


 いつになるかわからない『次』、じゃなくて。

 今、会いたい。触りたい。


 笑っている彼の、揺れる髪先に目が止まった。

 短く切り揃えてあげたはずの前髪は伸び、綺麗な額に影を作っていた。

 

 私が最後に触れてから、それくらいの時間が経ってしまったんだ。


 ほんの些細な変化が、堰き止めていたダムをいともたやすく決壊させる。

 突然、目頭が熱くなり、視界が滲んだ。

 溢れ出す水分を悟られないよう、慌てて顔をシーツに押し付ける。


『マナ?』


 そんな私に、ハルが怪訝そうな声を上げた。


「…………」


『どうした?』


「…………」


『……え、もしかして寝た?』


「…………」


 声を出せば、確実に震えてしまう。

 泣いていることが知られたら、異国で一人頑張っているハルに、余計な心配をかけてしまうだけだ。


 彼が都合のよい勘違いをしてくれたのをいいことに、じっと息を殺した。


 しばらく、通話は繋がれたままだった。

 スピーカーからは、部屋の片付けをしているような物音や、静かな足音が聞こえてくる。

 そんな生活音の一つひとつが、彼が今、私とは違う場所で暮らしているという事実を、ひしひしと感じさせる。


 やがて、顔を伏せたまま微動だにしない私に向けて、ハルが短く囁いた。


『……おやすみ』


 通話が切れる、無機質で虚しい電子音が、私しかいない部屋に響き渡る。


「…………っ……」


 堪えきれなくなった涙が、みるみる流れ出した。

 湿っていくシーツの上で、何度も鼻を啜る。

 キャミソールから出ている腕は、ひどく冷え切っていた。


 ハルとは『夫婦』として、たしかな絆で結ばれている。

 少しの間、離れた場所で暮らすことくらい、乗り越えられると思った。


 だって、会えなくても変わらぬ愛を抱き続ける父の姿を、いつも側で見ていたから――。


 でも、甘かったのだ。


 共に暮らし、同じ空気を吸い、互いの心音と体温を求め合った日々の積み重ねは、確実に私を作り変えていた。

 ハルはもう、夫や恋人という枠を超え、私という人間を構成する一部になってしまっていたのだ。


 それをもがれた痛みが、遅効性の毒のように、私の全身を苛んでいた。

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