第十九夜:遅効性の毒のように
「どちらにしようか迷っていて……まだ、決められていないんです」
初めて来店してくださった、私より少し年下くらいの女性のお客様。
どこか申し訳なさそうに、視線を落としている。
「『これ、いいな』と思った画像などは、ありますか?」
穏やかな声で問いかけると、手元のスマートフォンを操作し、遠慮がちに画面を見せてくれた。
「これと、これなんですけど……」
「わあ、どちらもすごく可愛いですね!」
「すみません。全然違う系統ですよね……」
伏せられた横顔へ、明るく語りかける。
「たしかに、キュート系とクール系で分かれますが、いいとこ取りはできると思います。たとえば……こんなスタイルはどうでしょう?」
「失礼します」と一言かけてから、指先でそっと、大事に伸ばされた髪へ触れさせてもらう。
「ベースは、今の綺麗なロングを活かしたストレートに。顔まわりだけにレイヤーを入れて、ほんの少し甘めのスパイスを足すんです」
鏡越しに、そう提案してみる。
すると、強張っていた彼女の表情が、ふわりと和らいだ。
「……はい。それでお願いしたいです!」
「かしこまりました!」
オーダーがはっきり決まっていないと、美容師を困らせてしまうのではないかと、引け目を感じてしまう方は少なくない。
けれど、私はこのカウンセリングの時間が、とても好きだ。
お客様の気に入る形を、対話からヒントを得て一緒に探していくことに、心が躍るのだ。
◇
一時間半後。仕上がりに満足してくださったお客様を、エントランスへとご案内する。
「日差しが強いので、気をつけてお帰りくださいね!」
陽を反射するガラス戸を押し開けながら、そうお声がけした。
カレンダーは九月も半ばに差し掛かっているというのに、漂う空気はまだ真夏のそれだ。
「はい! 今日はありがとうございましたっ」
お店に入ってきた時よりも、足取りも表情もずっと軽やかになっている。
「こちらこそ、ありがとうございました!」
明るい挨拶とともに、深くお辞儀をした。
自分の手がけた髪型で、誰かの今日が少しだけ前向きになる。
美容師冥利に尽きる瞬間だ。
しかし、遠ざかる背中を見送り、ひとり店内に戻るとき。
緊張の糸がふっと緩むと、冷たくて暗い影が私の心を覆う。
◇
ハルがロンドンへ飛び立ったあの炎天の日から、一か月が過ぎた。
時差は八時間。
日本が夜で、向こうが昼下がりになる頃に、毎日数分でも電話をしている。
時間の合わせやすい週末は、ビデオ通話にして顔を見て話す。
それが、私たちの新しいルーティンになっていた。
『え、なに。煽ってんの?』
日曜日の夜。
画面越しに聞こえてきた第一声は、相変わらずの意地悪な響きを含んでいた。
入浴後、キャミソール姿でシーツに寝そべりながら映った私への感想だ。
「はい?」
眉をひそめるその顔に、小さく吹き出してしまった。
『どういう意図?』
「意図なんてないよ、ただ暑いだけ。夫婦なんだから、別にいいじゃん」
笑いながら、一人では持て余すくらい広々としたダブルベッドで、寝返りを打つ。
「……そっちの生活は、どう? 慣れてきた?」
『米、食いたい』
「ふふ。送ろうか?」
『次、荷物送ってもらうとき頼むわ』
画面の向こうの彼は、明るい部屋でマグカップを傾けている。
スピーカーから響く落ち着いた声は、すぐ耳元で囁かれているかのように鮮明だった。
「今さらだけど、電話って懐かしいよね。付き合う前、ハルが毎晩のようにかけてきて」
ふと思い出し、懐かしくて頬が緩む。
『あったな。そんなこと』
「ハル、私と話したそうにしてて、可愛かったなあ」
『話したがってたのはマナでしょ。毎回必ず、一、二コールで出たし。待ってたんだろ?』
「はい?」
ハルはいつも、水泳レッスンからの帰路でかけてきていた。
たしかにその時間が近づくと、ついスマートフォンを意識してしまっていた気がする。
電話では、他愛のない話で笑ったり、この日に駅前にあるカフェの限定メニューを食べに行こうとか、本屋に付き合ってなどと誘われたりした。
「一番可愛かったのは『半額クーポン事件』のハルかなあ」
『…………』
素知らぬ顔をつくり、コーヒーを啜る彼。
その事件とは――。
まだ恋人になる前、ハルと学校帰りに遊んでいたとき。
うっかり『アキラ』と、弟の名で呼びかけてしまったのが発端だった。
そんなつもりはなかったのだが、『結局、弟みたいな存在なんだな』と腹を立てたハルは、目も合わせないまま足早に帰ってしまった。
そして、日課だった着信が途絶えたのだ。
鳴らないスマートフォンを見つめる、落ち着かない夜が続いた。
耐えきれなくなった私は、初めて自分から彼の番号をタップした。
当時、周りの高校生はみんな登録していたファストフード店のメルマガ。
そこで送られてきた、ソフトクリーム半額クーポンの二枚綴りを口実にしようと考えた。
『一緒に……行かない?』
『……友達と行けば』
上擦りそうになる声を抑えて誘ったものの、そっけなく返された。
『……私、もう自分のクーポン使いきっちゃったんだもん。ハルはまだ、使ってないんでしょ? もうすぐ期限切れるし、連れていって』
『え、なに。ソフトクリーム乞食ってこと?』
独特なワードチョイスに、思わず笑ってしまう。
『まあ、そんな感じ』
ハルはいつもより低いトーンではあったが、『いいけど』と、私の初めてのおねだりを了承してくれた。
もちろん、誘った理由は、ただ会いたかっただけ。
顔を見て話したかっただけだ。
翌日の放課後。
騒がしい店内で横並びになって、冷たいソフトクリームをつついて喋るうち、わだかまりはいつの間にか溶けてなくなっていた。
その日の夜も、寝る前、柔らかい毛布に包まりながら通話した。
『今日、ありがとう』
『……弟にソフトクリーム乞食しないでもらっていい?』
『弟なんて、思ってないよ』
『どうだか』
拗ねたように鼻で笑う音が聞こえた。
私は、少し速くなる心音を感じながら、悪戯っぽく明かした。
『……クーポンなくなったって、嘘だったし』
スピーカーの向こうのハルは、黙り込む。
やがて、私の意図――つまり『ただ会いたくて、適当な嘘をついて誘った』ということに気づくと、『……はっ?』と素っ頓狂な声を上げた。
顔が見えなくてもわかるくらい、動揺していた。
その反応が、可愛くて、こそばゆくて。
胸の奥の甘い疼きを感じながら、クスクスと肩を揺らした。
そして、また数日後に会う約束をして、眠りについたのだった。
『なに笑ってんの』
十六歳の彼を思い出していたら、二十五歳の彼に目を細められた。
「べつにー?」
『……次会ったとき、覚えとけよ?』
「きゃー。こわーい」
そう言って、いつものように笑い合ったけれど。
嫌でも突きつけられてしまう。
隣に、その心音も体温もないことを――。
いつになるかわからない『次』、じゃなくて。
今、会いたい。触りたい。
笑っている彼の、揺れる髪先に目が止まった。
短く切り揃えてあげたはずの前髪は伸び、綺麗な額に影を作っていた。
私が最後に触れてから、それくらいの時間が経ってしまったんだ。
ほんの些細な変化が、堰き止めていたダムをいともたやすく決壊させる。
突然、目頭が熱くなり、視界が滲んだ。
溢れ出す水分を悟られないよう、慌てて顔をシーツに押し付ける。
『マナ?』
そんな私に、ハルが怪訝そうな声を上げた。
「…………」
『どうした?』
「…………」
『……え、もしかして寝た?』
「…………」
声を出せば、確実に震えてしまう。
泣いていることが知られたら、異国で一人頑張っているハルに、余計な心配をかけてしまうだけだ。
彼が都合のよい勘違いをしてくれたのをいいことに、じっと息を殺した。
しばらく、通話は繋がれたままだった。
スピーカーからは、部屋の片付けをしているような物音や、静かな足音が聞こえてくる。
そんな生活音の一つひとつが、彼が今、私とは違う場所で暮らしているという事実を、ひしひしと感じさせる。
やがて、顔を伏せたまま微動だにしない私に向けて、ハルが短く囁いた。
『……おやすみ』
通話が切れる、無機質で虚しい電子音が、私しかいない部屋に響き渡る。
「…………っ……」
堪えきれなくなった涙が、みるみる流れ出した。
湿っていくシーツの上で、何度も鼻を啜る。
キャミソールから出ている腕は、ひどく冷え切っていた。
ハルとは『夫婦』として、たしかな絆で結ばれている。
少しの間、離れた場所で暮らすことくらい、乗り越えられると思った。
だって、会えなくても変わらぬ愛を抱き続ける父の姿を、いつも側で見ていたから――。
でも、甘かったのだ。
共に暮らし、同じ空気を吸い、互いの心音と体温を求め合った日々の積み重ねは、確実に私を作り変えていた。
ハルはもう、夫や恋人という枠を超え、私という人間を構成する一部になってしまっていたのだ。
それをもがれた痛みが、遅効性の毒のように、私の全身を苛んでいた。




