第二十夜:本物の相手
微かに秋の気配を感じられる、よく晴れた火曜日。
私はある場所へと向かうため、午前中に家を出た。
陽が差し込む、ガラガラの下り電車に乗る。
急行もあるけれど、あえてゆっくりと進む各駅停車を選んだ。
一時間後、実家の最寄駅に着いたけれど、ここでは降りない。
その三駅先、今度は母校の最寄駅に着く。
窓の外、毎日通った駅前のロータリーを眺めた。
ハルとの瑞々しい思い出が、数え切れないほど詰まっているところ。
しかし、ここでもまだ降りないままでいる。
そのさらに三駅先で、ようやく私は席を立った。
◇
多くの車が行き交う大通りを歩くこと、十分ほど。
淡いグレーのマンションが見えてきた。
エントランスで呼び鈴を鳴らすと、元気な返事とともにオートロックが解除される。
エレベーターで十階まで上がり、目的の部屋に近づくと、扉から顔を覗かせている人物が見えた。
「マナちゃーん」
「お義母さん!」
そう。ここは、ハルの実家だ。
笑顔で「待ってたわよ〜」と中へ促してくれる。
「お邪魔します」
久しぶりの玄関へ、そっと足を踏み入れさせてもらった。
学生時代に何度も、ご両親が留守の間、ハルに腕を引かれ忍び込んだ場所――。
ここへ来るたび、あの頃の非礼を心の中でお詫びしている。
「やっとお休みが合ったわね」
義母は今でも、看護師としてバリバリと働いている。
「はい。火曜日に合わせていただいて、すみません」
「いいのよ。私が会いたかったんだから〜」
まるで実の娘のように接してくれて、いつ会っても心が若々しく、姑というよりは年の離れた姉のように話しやすい存在だ。
リビングに入ると、ふわりと、大好きな香りが鼻を掠める。
「あれ……ジャスミンティー、淹れてくださったんですか?」
「そうよー。マナちゃんが来ること、遥に連絡したら、用意しておけって」
キッチンカウンターの向こうで義母が笑う。
明るい光に満ちたリビング。
テーブルの上には、以前私が母の日に贈ったガラスのフラワーベースが、季節の花を抱えて輝いている。
ホットジャスミンティーが入ったマグカップを、二つ持ってきてくれた。
「美味しい淹れ方も長文で送られてきたんだけど、うちにはガラスポットはないし……簡単でごめんね?」
「いえいえ。私もハルと暮らす前は、いつも出来合いのものを買ってましたから……」
ノンカフェインの茶葉があることも、いくつかの工程を経て丁寧に淹れるとずっと美味しくなることも、ハルが教えてくれたのだ。
「普段、私の連絡には『はい』か『いいえ』しか返さないくせに。突然、ものすごい長文の説明がきて驚いたわ。ほら見て、いつものやり取り。心理テストじゃあるまいし」
「ふふ……」
ユーモアのあるツッコミに、思わず笑みがこぼれる。
差し出されたスマートフォンの画面にはたしかに、短い吹き出しばかりの淡白なやり取りの中、突如として投下された熱量の高いメッセージがあった。
「本当、マナちゃんに首ったけよね」
湯気が運んでくる上品な香りを楽しみながら、義母は呆れたように微笑んだ。
「それで……そんな遥が、よくマナちゃんと離れるなんて決断できたわね?」
その問いかけに、カップを持つ指先が僅かに強張る。
ずっと胸の奥につかえたままの重たい石を、吐き出さずにはいられなかった。
私が、一緒に行くと言えなかった理由――。
一度も日本を出たことのない自分が、大好きな仕事を手放したうえで、いきなり見知らぬ土地で暮らすなんて。
イメージできないどころか、孤独や不安から、彼の負担になってしまうのではないかと怖くなった。
過去の苦い別れの記憶も重なり、どうしても足が竦んでしまったのだ。
途切れ途切れに、打ち明けた。
義母は、静かに耳を傾けてくれていた。
「お義母さんも、前に……話してくれましたよね。お義父さんの赴任がきっかけで、すれ違い始めてしまったって……」
そう尋ねると、義母はマグカップを口へ運ぶ手を止め「あらっ」と目を丸くした。
「私ってば、息子が不利になる話を教えちゃった感じ?」
「あっ、いえ……そういうわけじゃ……」
「ふふ。冗談よ、冗談」
慌てて否定する私を、優しく制してくれた。
「たしかに赴任が、大きなきっかけにはなったんだけどねえ」
義母は、コトッ、とマグカップを置くと、少し遠くを見るような目をした。
「あのね、マナちゃん。私ね……結婚する前、看護師の仕事が本当に辛くて。逃げるように家庭に入ったの」
初めて聞く話だ。
「……そうだったんですね」
看護師の仕事は、人の命と、その側にいる家族の気持ちとも向き合う、想像を絶するほど大変なものだ。
かつて、母を担当してくれた方も――冷たくなった母を前にして泣きじゃくる私の小さな背中を、震える手で摩ってくれたのを覚えている。
「夫も、転勤の多い自分をサポートしてくれるような相手を望んでいたから、ニーズがマッチしたというか」
「なるほど……」
「でもね。遥を産んで、小さな命の尊さに触れているうちに、不思議とエネルギーが湧いてきて。日本に戻ってから思いきって再開してみたら、そのやりがいを痛いほど実感して。自分が社会の役に立てる居場所のようにも思えたし」
穏やかな声で語られる、より深い過去。
「勝手だけど……そうなると、自分の仕事を犠牲にしてまで彼に合わせることができなくなった。ずれていく価値観を責め合うばかりで、お互いを理解する努力を怠っていたの。そうしたらいつの間にか、取り返しのつかないほど気持ちが冷え切っていたのよね」
義母はそこで言葉を区切り、私を見た。
ハルとよく似た、芯の強い瞳。
「でも、マナちゃんと遥は違うよね」
「え……?」
「あなたたちは心から求め合って結婚したし、今でもそうじゃない。どの不安や迷いも、相手を思いやるゆえのものでしょう? 私たちとは、前提がまったく違うわよ」
その言葉が、濃い霧に包まれていた私の心へ、一筋の光のように差し込まれていく。
「だから、私たちの過去と重ねても、あまり意味がないかもよ? マナちゃんがしたいようにして、遥にその想いを伝えれば、大丈夫だと思う」
柔らかい微笑み。
それを見て、肩に入っていた余計な力が抜けていくとともに、堪えていた涙腺まで緩んでしまいそうになる。
「もちろん、マナちゃんにとって、美容師っていうお仕事も大切よね。それは私も働いている身として、すごく共感するわ」
「…………はい……」
「何年かロンドンで遥と過ごしながら、美容師としてのセンスを磨くっていうのもありだし。もちろん、このまま日本に残って、こうして時々私とお茶したり、自分の仕事を楽しみながら、遥の帰りを待ってもいいよね」
そう言ったあと「あっ」と口元を押さえた。
「私、また良くない提案してる? 『余計なこと言うな』って、遥に怒られるかな?」
おどけたように肩をすくめた。
「そんなこと……ないです。ありがとうございます」
首を振りながら、弱々しい声で心からの感謝を伝えた。
「私の息子は、ちゃんと『本物の相手』を見つけられて、よかったわ」
義父のいない、この家で。
安心したように呟く義母を見つめながら、少しぬるくなったジャスミンティーに手を伸ばした。
自分の、本当の想いの輪郭に触れる。
私が一番ほしいもの。恐れているもの。そして、失いたくないものは、何だろう。
カップに添えた指先が、じんとした。
私は――。
あの少し伸びてしまっていた前髪を、自分のこの手で、切ってあげたいのだ。




