最終夜:もう、降参するよ。
空は分厚い灰色の雲に覆われ、雨が降ったり止んだりを繰り返している。
日照時間も短く、気温も日本より数度低いロンドンは、すでに真冬のような寒さだ。
赴任から三か月。
言葉の壁や容赦ない業務の波にもようやく慣れ、生活の基盤は落ち着きを見せ始めていた。
しかし――俺は今、どうしようもない苛立ちに支配されている。
霧雨に濡れた石畳の趣や、古い街並みを彩るイルミネーションも目に入らない。
凍てつく夜風を切りながら、革靴の踵を荒々しく鳴らして歩く。
俺の心を乱す原因は、一つしかない。
それは、マナだ。
渡英してから毎日欠かさず、時差を縫って電話を繋いでいたというのに。
突然『二日間くらい、電話できないかも』と伝えられ、昨日から声も聞いていなければ、顔も見られていない。
――浮気してるんじゃ、ないよな。
冷たい画面越しでしか、彼女の存在を感じることができない今の状況。
よからぬ妄想ばかりが膨らみ、焦燥感が募っていく。
◇
自室のある階につき、薄暗い廊下を進む。
隣の部屋のドアが開き、アコースティックギターを抱えた青年と出くわした。
『おかえり。疲れてるね。癒されたくなったら、いつでも僕の音を聴きに来なよ』
不機嫌さを隠そうともしない俺の様子を察してか、屈託のない笑顔を向け、ゆっくりとした英語で話しかけられる。
苦笑いしながら短く返し、自分の部屋に入った。
コートを脱ぎ捨てるのと同時に聴こえてくる、優しいメロディ。
この階にある共有スペースで奏でられている。
さっきの彼は、ワーキングホリデーとしてシドニーからやってきた大学生らしい。
実家が裕福なのかもしれない。会社が費用を負担してくれている俺でさえ気が引けるほど家賃の高い、このマンションを借りているのだから。
最初は、毎晩こんなふうに演奏していたら、怒る人もいるのではないかと懸念したものの。
彼の人柄か、心地よい音色のおかげなのか、誰も文句を言う者はいない。
むしろ好意的に受け止められているようで、住人たちがスペースまでやってきて聴き入ったり、気さくに話しかけたりしているのを見かける。
自分一人しか呼吸していない、静まり返った部屋。
壁越しに届く軽やかな音が、この空気をほんの少しだけ緩ませる。
それはいつの間にか、闇に落ちそうな俺の心を繋ぎ止めてくれる救いとなっていた。
◇
翌日の夜。
定時から一時間後に、仕事を終えた。
今日はだいぶ早いほうだ。
「お疲れさまです」
「おー、お疲れ。ゆっくり休めよー」
上司や同僚からは、急な赴任にも対応し、すぐに現場に入れたことを感謝されている。
だがその一方で『幹本って、触れると切り傷ができそう』などと冗談混じりに怯えられてもいる。
結局のところ、マナと夫婦である事実に変わりはなくても、側にいなければ、元の刺々しい俺に戻ってしまうらしい。
ビルを背に、石畳の通りを歩き始めた。
有り難いことに、勤務場所の徒歩圏内に住居を構えることができている。
冷たい風に煽られ、乱れた前髪が視界を遮る。
普段は額の前で分けて誤魔化しているものの、そろそろ限界が近づいているようだ。
日本を発つ前日、家のリビングでマナにハサミを入れてもらったきりだった。
彼女が触れた余韻を手放したくなくて、ロンドンに来てから三か月、まだ一度も切れずにいる。
ふと、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面に表示された文字を見て、心臓が跳ねる。
それは――『茉奈』だった。
「……もしもし」
歩みを止め、周囲の雑踏から逃れるように壁際へ寄って電話に出る。
『ハル? ごめんね、電話できなくて』
三日ぶりに聞く、甘い響き。
全身の血が急激に巡り始め、目が眩むような感覚に陥りながらも、低い声で言い放った。
「浮気してねーよな?」
間髪入れない問いかけに、マナは小さく吹き出した。
『してないよ』
「じゃあ、なんで二日も電話できなかったわけ?」
つい、幼稚な問い詰め方をしてしまう。
次にいつ会えるかもわからない上に、声さえ聞けない日があったせいで、驚くほど短気になっていたのだ。
『理由は、あとで言うけどさ』
「……はい?」
そんな、よくわからない返しをされた。
なんだか、声が浮ついているようにも聞こえる。
「ていうか。そっち今、夜中だろ。……こんな時間まで飲んでたとか?」
彼女は『うーんとね』などと言って濁しながら、呑気に笑っている。
『ハル、何時に帰るの?』
「あと二十分くらいだけど」
答えてから、違和感に気づいた。
定時に仕事を終えていたら、家にいてもおかしくない時間だ。
会社を出たばかりだという状況は、まだ伝えていない。
「なんで俺が帰ってないって、わかったの」
『…………』
マナは、急に静かになる。
そこで、電話の向こう側の微かな音が拾い上げられ、耳に届いた。
それは――。
この数か月で聴き慣れた、俺の隣人が紡ぐ優しい音色だった。
「……今、どこにいる?」
『……どこだと思う?』
悪戯っぽく笑う気配。
無言で通話を切り、走り出した。
◇
そこからは、意識が曖昧だった。
鞄の持ち手に、握り潰さんばかりの力を込めながらも、気づけば落としていないか焦るほど、無我夢中で街を走り抜けていた。
間違いなく、これまでの人生で一番速く走った。
冷たくて湿った空気が、容赦なく肺へ入り込み、圧迫してくるような感覚。
喉の奥から血の味がする。
革靴が石畳を蹴る音が、早鐘を打つ心音と重なり、耳の奥で激しく鳴り響いていた。
マンションのエントランスに着くと、管理人が何かを話しかけてきたけれど、応えられないまま階段を駆け上がる。
自分の部屋の階に着き、角を曲がった瞬間。
革靴で、床にブレーキをかけた。
扉の前に、いたのは――。
世界でただ一人の、愛しい妻だった。
「えっと……ちょっとだけ、久しぶり」
照れ隠しのように、はにかんでいる。
その横には、新しく購入したのか、初めて見るダークグリーンの大きなキャリーケースがあった。
「ビックリした? せっかくなら驚かせたくて、内緒で来ちゃった」
「…………」
何も返せないまま、ゆっくりと何歩か歩み寄った。
マナの向こうにある共有スペースからは、さっき電話越しに聴こえた音色が響いてくる。
「ギター弾いてる人、お隣さんなんだね。マンションの下で会ったら、私でも聞き取れる英語で話しかけてくれて、管理人さんに説明してくれて……ハルが帰ってくるまで、ここで待ってていいよって、言ってもらえたの」
「…………」
目の前で生身の彼女が喋っていることに、現実味が湧かない。
立ち尽くす俺に、マナは一歩近づいた。
たった三か月会わなかっただけなのに、その香りで理性を失いそうになる。
「彼ね、私がハルの奥さんだって、すぐにわかったんだって。『笑い方が、そっくりだから』って……」
「…………」
「そろそろハルが寂しがってるかなと思って、来たの」
そう言って、得意げに笑った。
けれど、次の瞬間。
瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめん……嘘。寂しいのは……私」
俯きながら、声を震わせている。
「……マナ」
「一緒にいても、いい……?」
枯れた喉から、声を絞り出す。
「……これ、旅行?『一緒にいる』って、『一時的に』ってこと?」
俺の問いかけに、マナは首を横に振った。
「ううん。これから……ずっと」
「…………」
「サロンに相談したら、『新しい風を吸って、もっと素敵なスタイリストになって戻ってきて』って、快く言ってもらえたし……それに……」
視線を彷徨わせながら話していたマナは、勢いよく目を伏せた。
両手をぎゅっと、握りしめている。
そして、ついに。
震える唇から、その言葉が落ちる。
「もう……降参するよ。ハルがいないと、無理なの。うまく息ができない。笑えないの。だから……一緒にいさせて」
手にしていた鞄を放り投げ、残りの距離を一気に詰めると、その身体を勢いよく腕の中へ引き寄せた。
静かな衝撃が走る。
冷え切ったロンドンの空気の中で、彼女に触れた部分だけが熱を持っていく。
欲しくてたまらなかった香りが、俺に流れ込んでくる。
「……やっぱり、俺のことめっちゃ好きじゃん」
思わず声を出して笑いながら、抱きしめる腕に力を込めた。
「……だから、そう言ってるじゃん……!」
マナも俺の背中に腕を回し、顔を胸元に埋めながら笑い交じりに返してきた。
気づけば、廊下の先から響いていた音は止んでいた。
ギターを抱えて部屋に戻ろうとする隣人と、マナの肩越しに目が合う。
欧米人らしく大袈裟に瞳を見開き、口の形だけで『ワーオ』と呟いていた。
マナを抱き込んだまま、目線だけで感謝を伝える。
ニヤリと笑った彼は、片手を軽く上げて見せた。
パタン。
ひっそりと開かれた隣のドアが閉まった。
その音を、合図にするように。
俺たちは、夢中でその唇を重ね合わせた。
離れていた間の、互いの渇きを潤すように、何度も。
やがて、扉の向こう――部屋の中へと、共に吸い込まれていく。
鍵が回された音が響くと、誰も邪魔することのできない二人だけの世界が完成された。




