エピローグ:それでも、まだ足りない
この街へ来て、一週間が過ぎた。
結露で白く曇った窓ガラス。
表面を指先でなぞり隙間を作ると、厚い雲の下、華やかな街並みを縫うようにカラフルな車が行き交っている。
凍てつくような外の空気と、暖房の効いたこの部屋とでは、まるで別世界のようだ。
「マナ。淹れたよ」
背後から、柔らかな声で呼びかけられる。
ゆっくり振り返ると、ローテーブルには湯気が立ちのぼるマグカップがふたつ並んでいた。
鼻を掠めるのは、私の大好きな香り。
「ありがとう」
ソファに並んで座り、カップに両手を添えた。
触れ合う右の肩先と、陶器を包む手のひらから、ぬくもりが広がっていく。
さすがは紅茶の国。近所を散策するだけでも、いくつもの茶葉専門店を見つけることができる。
先日、二人でふらりと立ち寄ったお店は、ダークウッドの重厚な棚が壁一面に並び、そこかしこに芳醇な茶葉の匂いが染み付いていた。
ハルが淹れてくれたのは、そのとき上品な年配の女性店員に勧められるまま包んでもらったうちの一つだ。
秋口に収穫されたばかりの茉莉花は、濃厚でふくよかな香りが特徴なのだという。
「わ。これも美味しいね」
隣に顔を向ける。
立ち上る湯気の向こう側には、優しい瞳があった。
私がロンドンへ来てから、ハルはずっと穏やかだ。
ふとした瞬間の悪戯な視線は変わらないけれど、私の気配に心から安堵してくれているのがわかる。
「飲み終わったら、カットしようか」
「ん」
このあとは、彼の伸びた髪を切ってあげる約束をしている。
そうやって私たちは、愛情を交わし合う。
甘い香りと、あたたかい静寂が満ちる部屋。
同じ階の共有スペースから流れてくる、アコースティックギターの心地よい音色。
ゆるやかに溶けていくような、週末の午後。
◇
シャキッ、シャキッ、と手元で鳴らしていた音を止めた。
日本から連れてきた、父と弟からもらった大切なハサミを、ローテーブルへそっと置く。
「お客さま。いかがですか?」
首筋に落ちた髪を摘みながら、声をかけた。
ゆっくりと瞼を開けたハルが、差し出された手鏡を覗き込む。
「……あれ。そんなに切ってない?」
一目見て、不思議そうにする。
お気づきの通り、毛先を揃え、全体のバランスを整えただけだ。
鏡越しに視線を合わせながら、美容師らしい口調で説明する。
「はい。ここまで伸ばされているのは初めて見ましたが、すごくお似合いだったので。それを活かしたスタイルにしてみました」
後ろから指を潜り込ませ、耳元の髪を流す。
「こうしてみると、ちょっと色っぽいですよ?」
何か言いたげな瞳のハルは「ふーん」と呟いた。
「それに。一回でバッサリ切らなくても、これからはいつでも切れますし……」
少し照れくさくて、語尾が小さくなる。
鏡の中の彼をちらりと確認すると、さぞ愉快そうに口角を上げている。
「マナさんは俺に色っぽさを求めてる、と」
「……そのあと言ったこと、聞いてました?」
ハルは思いきり目を細め、声を立てて笑った。
無防備な笑顔に、胸の奥がくすぐったくなる。
そして、すっと立ち上がり、言った。
「じゃあお望み通り、色っぽいことしましょうか」
骨ばった指先で、私の手首を捕えてくる。
「え?」
「バスルーム、行きましょ。この前みたいに、シャンプーしてください」
日本を発つ前日の出来事で味を占めたのか――その目には明らかな企みの色が滲んでいる。
「いやいや、あれは……特例なので!」
その場に留まろうとするも「無理です」と引き寄せられる。
「無理が、無理です! ちょっと……っ」
そして、耳元に顔をぐっと近づけられ、ひどく優しい声を落とされた。
「じゃあ。今度はマナさんの髪、洗ってあげたい」
「…………」
拒みきれない私の背中を、茉莉花の残り香が優しく押す。
またしてもこうやって、この子の甘い誘惑に絆されてしまうのだった。
◇
翌日は、分厚いコートに身を包み、一緒に街へ出かけた。
閑静な住宅街が広がる地下鉄の駅を降り、白い息を吐きながら、運河沿いの並木道を歩く。
ロンドンの冬は、底冷えする。
彼のポケットの中で指先を絡めながら、「寒い」と言い合い、寄り添った。
澄んだ冷気の中を数分ほど進んだ先に、リトルベニスの船着場が見えてくる。
愛らしい伝統的なナロウボートに乗り込むと、水面に反射した午後の淡い日差しが、ハルの瞳に映っていた。
すぐそばを優雅に泳いでいく水鳥を眺めながら、他愛のないお喋りを楽しむ。
「ハル、ずっと笑ってる」
そう指摘すると、彼は「え?」と一度だけこちらを向いたあと、流れる景色に視線を戻した。
そして。
「会いたかったし」
予想外の言葉。
思わず目を丸くして、その横顔を見る。
「……素直」
「マナとは違うんだよ」
それでもやっぱり、生意気なのは変わらない。
「私だって……会いたかったよ。だから、ここまで来たんだし」
繋いだ手を少しだけ引き寄せ、応戦してみる。
「でもまあ、結局、俺が上でしょ」
平然とそう返された。
やっぱりハルは、わかったつもりで全然わかっていない。
「ふ。実は、私のほうが上なんだよ」
「何言ってんの? 俺に決まってんじゃん」
「ちがうっ。私!」
目が合うと同時に、小さく吹き出した。
「なんか、バトルの方向性、変わってるし」
触れ合った肩を、同じリズムで揺らしたあと。
ハルが囁いてきた。
「マナのほうが上って言うなら、証明して」
「証明?」
見やると、挑戦的な瞳がこちらを射抜いていた。
その眼差しで、何を求めているのか悟る。
「外だよ? 人もいるし……」
「ここ、欧米だぞ? こんなの普通だから」
数秒間、じっと見つめ合う。
「……無理」
ぼそりと断ると、はあ、とわざとらしく大袈裟な溜息をつかれた。
「まあ、そうだよな。どうせ、熱量違うし」
「……出た、それ!」
赴任を切り出され、言い合いになったときの台詞だ。
諦めたふりを見せているけれど、流し目でこちらの様子を観察していることはわかっている。
「…………」
周囲へ視線を巡らせる。
週末のボートは満席に近かったが、乗客の興味は外の景色へ向けられていた。
葉を落とした木々の向こうに並ぶ、美しいレンガ造りの家々や、水面に映る空の広さ。
時刻はまだ十六時を迎える前だというのに、日没の早いロンドンの冬は、すでに深い藍色の闇に包まれようとしている。
沿道には、クリスマスのイルミネーションがぽつぽつと光を灯し始めていた。
「じゃあ……目、瞑って」
そう、小さく告げる。
応じるとは思っていなかったのか、ハルは数回瞬きをしてから、瞼を閉じた。
水上からの冷たい風が、船内に流れ込んでくる。
それから彼を守るように身を寄せると、夜気の中で互いの白い吐息が混ざり合った。
そこで、視線を感じる。
ハルの向こう側に座る地元の老夫婦が、あらあら、と微笑ましそうにこちらを見守っていたのだ。
慌てて少し距離を取ると、「まだ?」と不満げな声に急かされる。
どうしたものかと思案していたら、ふと、とびきりの案が浮かんだ。
逃さないよう、その肩に手のひらで重みをかける。
そして、思いきり甘くて長いキスを――頬にあげた。
「…………」
眉間に深く皺を寄せながら、ハルは目を開ける。
でも、わかる。怒っているのではない。
そうでもしなければ、きっと目尻や口元が緩んでしまうのだ。
「やっぱりハルは、こっちのほうが嬉しいかなあと思って」
悪戯っぽく言ってみせる。
「……それで勝ったつもりかよ?」
崩れかけた強がりに、たまらず笑いがこぼれてしまった。
「ねえ、なんで頬っぺた弱いの? やっぱり、『思い出』、あるから?」
肩にこつんと頭をもたせかけ、からかった。
「帰ったら覚えとけよ、マジで」
「きゃー。こわーい」
水面に揺れる光をすり抜けながら、ゆらりゆらりと運河を進んできた船は、やがて目的の船着場へと滑り込んだ。
差し出された手を取り、陸へ上がる。
自然と腕を組み、すっかり冷え切った夜道を歩き始めた。
「そういえば。クリスマスプレゼント、何がいい?」
見上げて尋ねる。
「マナ」
例のごとく真顔で即答され、「そうじゃなくて」と目を細める。
「ていうか……もう全部あげてるでしょ?」
「まだ、足りない」
上目遣いで事実を伝えても、すんとしている。
「なにが足りないの」
「たとえば、……とか、……とか」
冷えた耳元に、わざと熱を込めた低い声が落とされた。
「……そんなのばっかりじゃん!」
小さな拳でその肩をぽすんと叩く私を、ハルはひどく楽しげに見下ろしていた。
「ほしいんだよ」
笑い合いながら、石畳の上、二つの足音を鳴らしながら歩いていった。
まだ足りないのは、私だって同じだ。
部屋へ帰ったら、またソファにぴたりと並んで座り、新しい悪戯を仕掛けたい。
負けてばかりは悔しいから、たまにはそっちが、あの可愛い顔で降参してよ。
そうやってずっと隣で、二人だけの甘ったるい駆け引きを楽しみたいのだ。
―― 本編・完 ――
この作品を読んでいただき、本当にありがとうございます……!
このあと、夫婦のルーツである「一度目」の始まりと終わりを描いた「第零章」があります。
最後までお楽しみいただけたら、とても嬉しいです。




