「一度目」の始まり
高校生活最後の、十二月。
期末テストから解放された身軽さのまま校舎を出て、吐く息が白く滲む通学路を急ぐ。
やがて、駅入り口の柱へ寄りかかる見慣れたシルエットを捉えた。
私の来る方向はわかっているはずなのに、いつもそっぽを向いている、生意気なくらい整った横顔。
毎回、必ず先に着いて待っている。
「ハルっ」
駆け寄って、声をかけた。
「……ん」
出会い頭の反応が淡白なのも、通常運転だ。
秋の文化祭で知り合ってから、約二か月。
恋人同士ではないのだけれど、なぜか週に一度は、会っている。
友人たちが受験の大詰めを迎える中、すでに専門学校への進学が決まっている私。
水泳のスクールには通っているけれど、部活には入っておらず、放課後を持て余しているハル。
お互い、気楽に誘いやすい相手というだけ――のはず。
学校の最寄駅が同じなので、駅で落ち合いその周辺で遊ぶことが多い。
しかし、今日の彼は、改札のほうへ足を向けている。
「あれ? どこ行くの?」
その背中を追いながら、確認した。
「今日、寒いし。暖かいところ行きたい」
マフラーに口元を埋めたまま、呟かれた。
◇
連れてこられたのは、隣駅にある大きな映画館。
シアター内の照明が落ち、予告編の映像が流れ始めた、そのとき。
膝の上に置いていた右手が――隣から伸びてきた左手に、何の躊躇もなく覆われた。
「えっ……なに?」
暗がりの中、戸惑って小声で尋ねる。
「別に?」
「別に、って……」
肘掛けを越え、すっと顔を寄せられた。
そして。
「初めて?」
からかうような、余裕を含んだ響き。
「……初めてでは、ないけどさ……」
中学時代に付き合っていた同級生と、帰り道に繋いだことはある。
「へえ」
スクリーンから漏れる僅かな光の中、ちらりと横を確認する。
口角は薄っすらと上がっていながらも、瞳の奥は少しも笑っていなかった。
「じゃあ、これは?」
今度は、手のひらを滑った指先が、私の指の間へと深く潜り込んできた。
「……っ」
その肌は、外の冷気を微かに残している。
触れ合う面積が跳ね上がり、逃げ場のない火照りが広がっていくような感覚だった。
この繋ぎ方は、したことがない。
けれど――。
「それも……初めてじゃないけど」
精一杯の平坦なトーンで、嘘を吐く。
『俺は経験あるけど、そっちは?』とでも言いたげな声に、妙に悔しくなってしまったのだ。
「……へえ」
彼はそのまま、私の手の甲を親指で摩った。
肌の感触を、確かめるように。
「ちょ、ちょっと……っ」
抗議しようと顔を向ける。
「なに?」
至近距離で、視線が交わった。
なんで、そんな目つきや、手つきをするの。
理由はわからないけれど、一度捉えられたら逃げられなくなるような、強烈な引力を感じた。
慌てて目を逸らし、手も振り解く。
「……落ち着かない。それに、もう本編始まるよ?」
そう口にして、すんとスクリーンへ向き直る。
暗闇の中、ハルは小さく肩を揺らしていた。
シリアスなミステリー映画だったけれど、内容にあまり集中できなかった。
◇
その翌週の放課後。
い草の匂いが漂う茶室で、目を輝かせる茶道部の後輩たちに囲まれる。
「週五で電話に、週一でデートって。付き合ってますよね?」
「…………」
女子校という花園では、恋愛に関する話が大いに好まれる。
少しでも浮いた話があれば、みんなして前のめりに興味を持つことが多い。
入学してから三年間、ずっと群がる側だった私が、今やその標的だ。
「……さっきも言ったけど、デートじゃないよ」
ふう、と息を吐きながら、後輩が点ててくれた抹茶を遠慮なくいただく。
彼女たちには、文化祭でハルに連絡先を聞かれたところを目撃されているため、こうして定期的に進捗を確認されるのだ。
「デートじゃないなら、何ですか」
気を抜くと、絡められた指の感触が甦りそうになり――口に広がる濃茶の苦味とともにぐっと飲み込む。
「向こうの暇つぶしに誘われてるだけ。今日だって、行き先ゲームセンターだよ?」
昨晩、いつもの時間に電話がかかってきたと思ったら、その第一声は『ゾンビゲームやろうぜ』だった。
この前、私が誤って弟の名で呼んでしまったときは、すっかり機嫌を損ねたくせに。
ハルのほうこそ私を、放課後に遊べる『小学生の男友達』か何かだと勘違いしているんじゃないだろうか。
「もう、焦れったいなあ」
「…………」
黙り込み、お茶菓子へ手を伸ばす。
顧問の香坂先生が「多めに用意してるから、よかったらいらっしゃい」と声をかけてくれた、クリスマスシーズン限定の洋風の羊羹。
ドライフルーツやナッツが詰まっている。
「ふふ。いいわねえ」
目尻を下げた香坂先生が、お茶を啜っている。
「……先生はどんなきっかけで、年下の旦那さんを好きになられたんですか?」
思わず、聞いてしまう。
先生には最近、こんな質問ばかりしてしまっている。
「そうねえ。年下の『男の子』だと思っていたのに、ふと、ちょっとした包容力を感じたとき、かしら」
「…………」
ハルの『包容力』など、微塵も感じたことはない。
隙あらば意地悪してきて、私のペースを乱しては愉快そうな笑みを見せるだけだ。
不意に、父の姿が思い浮かぶ。
写真の中の母へ毎日向けられる、穏やかな愛に満ちた微笑み。
私の理想はやはり『ああいうの』で――感情を乱されてばかりで落ち着かない恋愛など、望んでいないのだ。
「楽しそうね」
「……えっ」
どちらかというと悩んでいる表情のはずだったけれど、先生からはなぜか微笑ましい視線を向けられていた。
我に返り、勢いよく立ち上がる。
「あっ、私……そろそろ行きます! お邪魔しました!」
羊羹を頬張る後輩たちから「今日のデートの話も、あとで聞かせてくださいね〜」と、ひらひらと見送られた。
「……だから、デートじゃないっ」
◇
――ズドドドドンッ!
「っしゃあ」
腰の近くで、小さくガッツポーズを作るハル。
約束通り、ゾンビのシューティングゲームをやるため、ゲームセンターにやってきた。
「……なんかハル、上手くなってない?」
「マナが下手になっただけ」
「ちがうっ。あ、さては……こっそり練習してるでしょ!?」
「負け惜しみすんな」
前回は、私がキャリーしてあげた。
昔、弟と一緒にハマっていた時期があり、得意だったのだ。
四方八方からあらゆる音が響き合う空間で、白熱する。
コートは脱いで床に置き、二人とも腕まくりをしていた。
「マナ! 右から来てるそいつ、やれ!」
「わかってる!」
――ズドドドドンッ!
「あ」
「ちょっと、ハル! それゾンビじゃなくて、私っ!」
「やべ。本気で間違えた」
ハルが私に誤射したせいでライフが尽き、暗転した画面に『ゲームオーバー』という無機質な文字が浮かび上がった。
「もーっ! いい感じだったのに!」
「……おまえがゾンビに見えたんだよっ」
彼は切長の目を思いきり細め、これまで見た中で一番声を出して笑っていた。
汗ばんだ額にかかる前髪と、くっきり上がっている口角。
可愛い。
もし口にすれば、彼は絶対に怒るだろう。
でも、この『可愛い』は、たとえば弟や幼い子に感じるものとは、決定的に違っていて――。
笑い合いながら、胸の奥がギュッと苦しくなった。
◇
熱気の籠もったゲームセンターを出ると、すでに日は完全に落ちていた。
天気は良いものの、冬の夜風は汗をかいた身体を容赦なく冷やしていく。
マフラーを巻き直しながら駅に向かう途中、大きなクリスマスツリーの前を通りかかった。
どちらともなく足を止め、並んで見上げる。
平日の夕方。周囲に人通りはほとんどない。
ゴールドやオレンジ、深い赤。
暖色系のイルミネーションを中心に彩られ、寒空の下、優しくあたたかい光を放っていた。
その煌めきを見つめたまま、ハルが静かに口を開く。
「クリスマス……何すんの」
その質問に、心臓が少し跳ねた。
「……二十五日は、お父さんと舞台を観に行くよ。好きな俳優さんが出てて」
「誰?」
「去年、大河ドラマで主演してた人」
数秒間、記憶を辿っていたハルが「え、あいつ?」と怪訝な顔をする。
「オッサンじゃん」
「……渋いって言って! 殺陣がすごく上手なの」
反論するものの、興味なさげに「あっそ」と返された。
それからしばらく、イルミネーションの点滅だけが沈黙を埋めていたけれど。
「年上が……好き?」
ハルはそう言いながら、ゆっくりと私を見下ろしてきた。
また――あの射抜くような瞳で。
「あ、別に……そういうわけじゃないんだけど……」
「…………」
なぜかもどかしい空気が滞留し、視線が泳いでしまう。
彼はそんな私をじっと見ていたけれど、話題を変えてきた。
「……そういえば、うちの母親もその俳優好きだった気がする」
「えっ、本当? お母さんと、気が合うかも」
弾んだ声を上げたら、ハルはふっと口元を緩めた。
そして、何気なく会話の続きが紡がれる。
「ていうか、なんで父親と行くの。母親と行ったほうが、女同士で盛り上がりそうじゃん」
その一言に――つい固まってしまう。
ハルにはまだ、母のことを伝えていない。
友人には、会話の流れで自然に明かすことが多かった。
あれからもう六年という月日が経っている。
悲しみの底から抜け出せていないわけではないし、話すこと自体に抵抗はない。
でも、楽しく遊んだ帰り道に、綺麗なツリーの前で。
突然打ち明けて、変な気を遣わせてしまわないだろうか。
重い話だと引かれないだろうか。
「えっと……」
少し躊躇したけれど、嘘をつくのも違う気がして――。
できるだけ深刻にならないようなトーンで、切り出した。
「うち、お母さんいないんだよね」
「……え?」
私は「気にしないでね」というサインのように、一度だけ小さな微笑みを見せてから、ツリーへと視線を戻した。
「私が十二歳の頃に、病気で」
「…………」
「でも、今はもう、立ち直れてるから」
「……そうなんだ」
「うん」
「…………」
ハルは何も言わず、私の横顔を見ているようだった。
冷たい風が、二人の間をすり抜けていく。
やがて彼は、喉の奥から小さな声を出した。
「なんで、無理して笑うの」
「……え?」
予期せぬ言葉。
光の粒を反射するその瞳は、私の表面的な強がりの奥にある何かを、見抜いているように思えた。
「あ……うーんと。ただ、暗い気持ちにさせたくないっていうか……気を遣ってほしくなかっただけだよ」
どうしたんだろう、私。
イルミネーションの光に、心の内側まで鮮明に照らされてしまっているのか、笑顔が上手く作れない。
「笑うなよ」
見つめ合ったまま、ハルは続けた。
「隠さないで」
「…………」
「全部、知りたい」
「…………」
この子は一体、何を言っているんだろう。
戸惑いと、胸の奥から突き上げる鼓動。
その強い視線に、身動きがとれなくなった。
立ち尽くしていると、ハルは手を伸ばし、指先をそっと絡めてきた。
映画館のときと、同じ繋ぎ方。
けれど、どこかが決定的に違っていた。
外気に晒され冷えていたはずなのに、じんわりと包み込まれていく。
「ハルって、私のこと、どう思ってるの……」
衝動的に聞いてしまった。
だってハルが、私の心を掻き乱すようなことばかり言うから――。
「…………」
彼は、何も答えない。
居た堪れなくなって、再び視線をツリーへと逃がした。
時間が一秒、また一秒と進むたび、心拍が速度を上げていく。
その時だった。
私の視界から、煌びやかな光がすべて消え去った。
ハルの顔が、目の前でそれらを塞いだのだ。
そして、唇に小さな温度が触れた。
起きたことを頭で理解するよりも早く、ハルの香りで満たされていく。
ウールのコートに、冷たい風が染みた匂い。
そして、これまでも時折掠めていた、静かで落ち着いた香り。
ゆっくりと離れていく彼の後ろから、光の海が戻ってくる。
呆然としたまま、至近距離にある瞳を見つめ返すことしかできなかった。
「付き合おう」
「…………」
「俺ら、一緒にいたら、笑えるじゃん」
いつものように強引な物言いではあるものの、その声の端々には、少しの気恥ずかしさと不安が滲んでいるように思えた。
視線だけは、私をしっかりと捉えたままでいる。
繋がれたままの指先に、きゅっと力を込めた。
「……うん」
そのぬくもりに導かれるように、小さく頷いた。
私の答えを聞いたハルは、もう一度顔を近づけ、さっきよりも熱と輪郭を帯びたキスを重ねてきた。
優しい光に包まれながら、私も少しだけ背伸びをして――それに応えたのだった。




