「一度目」の終わり
春の嵐が、新居の窓を叩く夜。
とりあえず掛けただけのレースカーテンが、稲妻の青白い光に透けた。
閃光が走るたび、窓辺へ駆け寄りはしゃぐところは、俺が出会った十八歳の彼女のままだ。
段ボールの匂いが微かに残る部屋の真ん中。
小さなローテーブルで、マナが頼んだ宅配ピザを囲む。
「荷解き、手伝ってくれてありがと。本当に助かった」
「マナ一人じゃ、永遠に終わらなかったな」
彼女は唇を尖らせつつも「事実だから言い返せない」と、へらっと笑った。
その手には、結露した缶ビールが握られている。
まだ飲めない年齢の俺を気にしているのか、彼女はいつも遠慮するが、今夜は俺から勧めた。
専門学校を卒業して社会人になり、この小さな部屋で一人暮らしを始めるマナ。
そして、大学の入学式を終えたばかりの俺。
「お礼は?」
床に座ったまま、距離を詰める。
「このピザ」
「足りねーよ」
俺の文句にクスクスと肩を揺らす姿をじっと見る。
アルコールのせいか、見つめ返してくる瞳はやや潤んでいる。
「じゃあ、何がいい?」
ほんのりと色づいた頬。
いつもより隙だらけで、どこか挑発的だ。
そんな彼女に、少しの苛立ちをおぼえる。
「泊まりたい」
逃がさないように、まっすぐ答えた。
「……お母さん、心配しない?」
「今日、夜勤でいない」
嘘だけど、大学生の息子が外泊したところで大して気にしないだろう。
「そっか。じゃあ……いいよ?」
窓ガラスを叩く激しい雨音が、静かな部屋に響いてくる。
「……あー、ハル。また、ここ見てるでしょ」
彼女が指すのは、自身の頬にあるほくろ。
「…………」
認める代わりに、そこへキスを落とした。
至近距離で視線をぶつけたあと、熱い頬を這い、少しだけ開いた唇を塞ぐ。
そのまま、真新しいシーツが掛けられたベッドへと誘った。
白く可憐に咲き誇りながらも、どこか儚さを持ち合わせる彼女に出会ってから、二年半。
俺は今もまだ、その香りに溺れ続けている。
◇
時給の良さだけで選んだ居酒屋のバイトを終え、油の匂いが染み付いたシャツを羽織り、勝手口を出た。
葉桜を揺らす夜風は、まだ肌寒い。
高校の校則から解放され、ようやく「自分で稼ぐこと」ができるようになった。
もうすぐ俺は十九歳になり、その後すぐ、彼女は二十一歳になる。
ちょうど一週間だけずれた誕生日。
今年こそ自分のお金で、彼女がほしがるものを買いたい。
そのために、こうして日付の変わるクローズまで働いている。
「…………」
自宅への帰路を歩き出したが、ふと踵を返し、駅へと向かった。
今日は本当に、母親が夜勤でいない。
そして、明日は火曜日。マナの仕事は休みで、俺も大学の講義を入れていない。
走ればギリギリ、上りの終電に間に合う。
◇
荒い息のままガラガラの車両へ滑り込み、揺られること三十分。
驚く顔が見たくて、連絡も入れずに辿り着いたマナのマンション。
だが、冷たいインターホンを押しても、分厚い扉の向こうは静まり返っていた。
もう、だいぶ遅い時間だ。
勢いで来てしまったけれど、寝ているかもしれない。
今さら焦り始める。
しかし、取り出したスマートフォンの画面をタップすると、あっさりと通話が繋がった。
『ハルっ? どうしたの?』
耳に届いた声は、普段よりワントーン高い。
その後ろには、特有のざわめき。
彼女が飲み屋にいることを物語っていた。
「……どこいるの」
『明日休みだから、専門学校のときのクラスで飲んでたんだけど。友達が終電逃しちゃって、付き合ってて』
「マナも……帰ってこないってこと?」
その問いかけに数秒黙っていたあと、『んっ?』と大きな声を出した。
『もしかして。私の家、来てる……!?』
電話の向こうで『彼氏、来てるの!?』という、女友達の驚く声が重なった。
だから、嘘ではないのだろう。
けれど。
喧騒に紛れながらも、次の一杯もビールでいいか、とマナに確認する、男の低い声が聞こえた。
急激に、全身の血が沸騰する。
慌てたように『それなら、タクシーで帰ろうかな!』と言う彼女を無視したまま、電話を切った。
繋いだままでいたら、暴言をぶつけてしまいそうだったからだ。
マンションから、暗い夜道に出た。
下り電車の終電も、もうない。
ポケットの中で、何度もスマホが震える。
折り返しの着信にもメッセージにも応えず、深夜の国道を無心で歩いた。
時折通り過ぎるトラックのヘッドライトが、アスファルトに長い影を落としては消えていく。
二十分ほど歩いた先、蛍光色の看板を掲げたファミリーレストランに入り、夜を明かした。
それからしばらく、マナとの連絡を絶った。
◇
そのまま、自身の誕生日を迎えた。
大学にはいつも通り向かい、五限目の講義を終え、夕暮れのキャンパスを後にしようとしたとき。
正門の脇、垢抜けない学生たちの波の中。
ひどく目を惹く、浮いた姿があった。
それは、マナだった。
今日は月曜日で、仕事があるはずなのに。
彼女も、俺に気づく。
反射的に目を逸らし、通り過ぎようとした。
「……ハル! この間は、本当にごめん……っ」
追いかけながら、必死に声をかけてくる。
「まだ、怒ってる……?」
その弱々しい響きに足を止め、振り返る。
「……俺が勝手に行っただけで、マナは悪くないのに、謝んなよ」
ただただ、情けない気持ちになった。
「そこが……ムカつく」
彼女を見下ろす目が、ひどく冷たかったのだろう。
胸を痛めているようなその表情が、俺を抉る。
再び背を向け、歩き出そうとしたけれど。
腕を腰に回され、引き止められた。
「私の部屋、来てよ……誕生日、お祝いしたい……」
指先で、シャツの生地を握りしめられている。
「イヤなら……振り払って」
その切実な声を聞き、俺に掴まる小さな手を、上から強く握りしめた。
「……ムカつく」
悪態をつきながらも、追ってくれたことに安堵してしまう自分がいた。
「……仕事は?」
背中越しに尋ねる。
「午後半休ってやつだよ」
「へえ」
「明日、火曜日だし……このまま一緒にいようよ」
その言葉をトリガーに、彼女の手を乱暴に引いていった。
◇
「十九歳、おめでとう」
シーツの波間で向かい合うマナが、ふわりと微笑みかけてくる。
「いちいち歳まで言うな」
「どうして?」
幼稚な苛立ちの意味に、マナは気づかない。
「来年は二十歳だね。ハルの初めてのお酒、一緒に楽しみたい」
そう言って、胸元へ顔を埋めてきた。
「ハル」
「なに」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
彼女が紡ぐその言葉は、静かな部屋の空気を震わせ、胸の奥に深く刻まれるようだった。
滑らかな髪に触れる。
そして、その身体をゆっくりと抱き寄せた。
「……二十一にならないで。待っててよ」
「え?」
来週、彼女が誕生日を迎えるまでの間だけ、一歳差になる。
けれどすぐにまた、二歳差へと元通りだ。
その僅かな距離が、今はどうしようもなくもどかしい。
不思議そうにする彼女を放置し、「誕生日プレゼント、何がいいの」と話題を変えた。
「うーん。何でもいい?」
「まあ、うん」
俺はさっき、シックな腕時計をもらった。
マナも物を希望すると思っていたけれど。
「じゃあ、ドライブ連れてって」
「……え」
春休みに免許を取ったばかりのペーパードライバーに、突然の試練が降ってきた。
「ハルの助手席、乗りたいの」
◇
一週間後、二十一歳になった彼女を乗せた運転は、余裕の欠片もなかった。
手に汗握る俺の横で、マナは「回り道でもいいじゃん」と笑いながら、適当にナビを操作していた。
なんとか目的地である、海を跨ぐ大きな橋へたどり着くことができた。
車を降り、煌めく夜景を眺める。
「これから毎年、誕生日はこれがいい」
肩に頭を乗せ、珍しく素直にねだってきた。
「……いいよ」
潮風が煽る甘い香りに包まれ、キスをした。
けれど。
毎年のドライブも、俺の初めてのお酒を一緒に楽しむ約束も、どちらも果たされることはなかった。
次の誕生日を迎える直前に、俺たちは別れたからだ。
マナのいない、二十歳の誕生日。
彼女が好きだと言っていたビールを口にした。
これを好むなんて正気かよと疑うほど、ひどく苦かった。
けれど、その苦味を舌で感じる瞬間だけは、どうしようもない胸の痛みが、僅かに誤魔化される気がした。
マナは今、誰とこれを飲んでいるのだろう。
そんな考えがよぎるたび、意味のない深酒をした。
彼女を失うに至った、自らの幼稚さや愚かさに、吐き気が込み上げた。
◇
色褪せた季節を重ね、やがて就職が決まり、実家を出ることになった。
段ボールがいくつか積まれた、見慣れたダイニング。
引っ越し前夜の食卓に、父親の姿はいつも通りない。
軽い音を立て、缶のタブを開ける。
コップにも入れないまま、無表情で黄金色の液体を流し込む俺を見て、向かいにいる母親が口を開いた。
「あんたって、なんでビールばっかり飲むの」
「苦くて、不味いから」
「はあ? じゃあ、飲まないでくれる? 高いんだから!」
大袈裟な溜息をつきながら、母親は『門出だから』と買ってきたデパ地下の惣菜を摘まむ。
「ちゃんと節約しなさいよ? ちょっと良い会社に入れたからって、あんな都会のど真ん中にある部屋なんか選んで……本当に大丈夫かしら」
色鮮やかなマリネを口に運びながら、ぶつぶつとこぼしている。
マナが今、どこに住んでいるのかは知らない。
ただ、働く場所が変わっていないことだけは、サロンのホームページを見て知っていた。
だから、あの街に部屋を借りた。
他人が聞けば、ちょっとした恐怖をおぼえるほど、未練がましい理由だろう。
ふと視線を感じて顔を上げると、母親が箸を止め、じっとこちらを見つめていた。
「遥って……マナちゃんと別れたあと、誰かと付き合ったりしてるの?」
「……は?」
突然出されたその名に、喉の奥が引きつった。
さっきまでの思考が顔に滲んでいたのかと、やや焦る。
「まあ……それなりに」
動揺を隠すように惣菜へ視線を落とし、素っ気なく答えた。
「今は?」
「いない。最近別れた」
「なんで」
「引っ越すし」
「……? へえ」
「ていうか、なんでそんなこと聞くの」
探るような問いから逃げるように、再びビールを煽る。
母親は頬杖をついて「いやあ」と小さく息を吐いた。
「なんかあんた、危ういなって思って」
「……なにが」
「わかんないけど。ちゃんと愛し、愛される人がいたほうが安心だなって、思ったのよ」
離れている夫と連絡さえ取らないあなたに言われても、という嫌味が頭に浮かんだが、口には出さないでおいた。
もしも、もう一度会えたら。
どんなに苦くても、不味くても、すべての感情を一生飲み干し続けるから。
ただ、咲き誇るあの笑顔に、触れたい。
蕾が膨らむ季節に、俺は一歩先へと踏み出した。
茉莉花の花開く、そのときを待ち侘びて。
―― 第零章・完 ――
この作品を読んでいただき、本当にありがとうございました。
元々この物語は、彼らが出会うところから時の流れに沿って書いていました。
しかし、途中で「この二人は、別れを迎えることになる」と感じてしまい……
「でも、再び会えて結ばれてほしい」。そんな想いで書き直したものです。
茉奈を象徴する茉莉花。変わっていく遥の執着の形。
過去と現在の対比やリンクする部分、ちょっとした伏線も、いろいろ散りばめてみました。
少しでもお楽しみいただけていたら、幸いです……!




