第八夜:仕返ししたい
玄関の奥で、ゆっくりと鍵の開く音がした。
やがて、聞き慣れた足音が廊下から近づいてくる。
その足取りは、照明を落とした寝室へとまっすぐに向かってきた。
「ただいま」
暗がりの中、そっと声をかけられる。
「…………」
柔らかなガーゼケットに包まった背中を向け、動かずにいた。
「マーナ」
寝たふりだとわかっているハルが、耳元に吐息を落としてきた。
その穏やかな声色から、後ろめたい出来事はなかったことがわかり、少しだけ安堵する。
それでも、私の中にある小さな棘のようなものは、すぐには消えてくれない。
「マナちゃん。帰ってきたよ」
唇を直接耳に押し当てられ、思わずピクッと肩が跳ねてしまった。
その反応を面白がるような、小さな笑い声が降ってくる。
鼻先を掠める、ほんのりとしたウイスキーの香り。
ハイボールでも飲んできたのだろう。
「……あっち行って。酔っ払い」
頭までケットを引き上げ、すっぽりと潜り込んで防御する。
「酔ってないんだけどなー」
間延びした声は遠ざかり、バスルームの方へと向かっていった。
戻ってくる前に寝てやると決意し、強く瞼を閉じていたのに、水音はあっという間に止んだ。
微かな湿気を纏った気配が近づく。
私が身体を向けていた先のスペースに、ドサッと沈み込んできた。
「……ちょっと。乾かさないと、キューティクル傷むよ?」
パジャマ姿の濡れた髪を前に、たまらず小言をこぼしてしまった。
職業柄、どうしても見過ごせない。
「じゃあ、マナがやって」
そう言うが否や、こちらの返事も待たずに洗面所からドライヤーを持ってくると、ベッドの上にあぐらをかいて座り込んだ。
渋々上体を起こして背後に回り、スイッチをカチッと押し込んだ。
静かな寝室に、低い駆動音が響き渡る。
細く柔らかな髪を指の腹で掻き分けながら、根元から丁寧に風を当てていく。
水分を吸って少し重たくなっている髪。温風を当てると、シトラスの香りがふわりと立ち昇った。
いつもなら「乾かしてあげようか?」と声をかけても「いい」と断られるのに、珍しい。
サロンに来てくれるときも、ほとんどの時間を黙って過ごしているし、他人に髪を触られること自体があまり好きではないのだろうと、勝手に思っていたくらいだ。
手櫛を通しながら乾かし終えると、何のスタイリング剤もついていない、素のサラサラとした髪に戻った。
温風を止める。
ハルはそっと私の手から本体を抜き取り、元の場所へと片付けに行った。
やれやれ、と小さく息を吐いて再び横になる。
戻ってきた彼は、身を寄せるようにして潜り込んできた。
そして。
「それで。聞きたいこととか、ある?」
何かを期待している瞳で、そんなことを言い出した。
「……ないっ。おやすみ」
そっけなく言い放ち、寝返りを打って背中を向けた。
しかし、すぐに背後から抱き込まれる。
「でも、拗ねてんじゃん」
「拗ねてないってば」
「意地張るなって」
首筋に顔を埋めてくる。
「……っ」
柔らかい毛先が素肌に触れて、くすぐったい。
「なあ。妬いた?」
調子に乗ったハルは、ストレートに問いかけてきた。
「…………」
「マナ」
「…………」
「妬いたって、言えよ」
「…………」
私の身体を這うように伸びてくる手のひら。
このままでは終わらないと、観念した。
「……妬いたけど、なに?」
そう口にするや否や。
苦しくなるくらい、強く抱きしめられた。
肩を掴まれ、強引に身体の向きを変えられる。
視界に映ったハルは――こちらをモヤモヤさせていたことなど気にも留めないほど、思いきり嬉しそうに目を細めていた。
「……可愛い」
甘い声とともに、深い口づけが落ちてくる。
まだ薄っすらと残る、シャンプーの香りに包まれた。
諦めて身を委ねたその夜、ハルはいつも以上に暴走していた。
やっぱり少し酔っていたんじゃないかなと、思うくらいに。
◇
翌朝。日曜の七時。
目を覚ますと、ハルは隣にいなかった。
代わりに向こうの部屋から、フライパンで何かを焼く音と、焦がしバターの甘い匂いがする。
素足の裏にフローリングの冷たさを感じながら、そちらに引き寄せられる。
微かな物音で、広い背中がゆっくりと振り返った。
「おはよ」
一目見ただけで、わかった。
とっても、機嫌がいい。
「……おはよう。もしかして、フレンチトースト作ってる?」
「そう」
「わあ、ハルのフレンチトースト! 食べたい」
「どうぞ」
ちょうど焼き上がった分を平たいお皿に乗せ、軽い音を立ててテーブルに置いてくれる。
洗面所で手早く顔を洗ってきてから、そっと椅子を引いて腰掛けた。
「いただきます」
一口含むと、卵液がたっぷりと染み込んだ、温かくて優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「んーっ」
綻んだ顔を向けると、ハルは静かに、けれどとても満足そうに微笑んでいた。
本当に、機嫌がいい。
――嫉妬する私を見られたのが、そんなに嬉しかったのだろうか。
昨晩、愛の言葉を繰り返し囁きながら、私の感触に浸っていた彼。
いろいろなことが甦ってきたら、頬に熱が集まった。
「何か、思い出してる?」
頬杖をつくハルが、また楽しげに目を細める。
自分の食事にはまだ口をつけず、こちらの様子を観察していたようだ。
「べ、べつに……」
「昨日の夜、楽しかったな?」
「……ご馳走様でした!」
寝起きだというのにあっという間に平らげていた私は、その視線に耐えかねて空のお皿を持ち上げた。
食器の片付けを装い、シンクへと逃げ込む。
背後で、小さく笑いながら食べ始めるハル。
なんだか、気に食わない。
わざと嫉妬させるような言動をしてきた方が、終始余裕たっぷりで面白がっているなんて。
仕返し、したい。
私だって、ハルの弱点は知っているんだから――。
「美味かった? フレンチトースト」
私のささやかな企みなど知る由もなく、背を向けたまま問いかけてくる。
足音を殺して忍び寄り、斜め後ろに立った。
そして、座っている彼の横へと身を屈め――頬にそっと、口づけを落とした。
「美味しかったよ、すごく。ありがと」
勢いよく振り返ったハルと、至近距離で視線がぶつかる。
目論見通り。
不意打ちを食らった彼は、小さく息を呑み、ペースを乱されていた。
「今日は私の、勝ち」
得意げな笑みを浮かべ、踵を返そうとした瞬間。
手首を力強く掴まれた。
「……出勤まで、時間ある?」
鋭い眼差しには、さらなる仕返しを企むような、危険で甘い光が宿っている。
私を捕まえている指先から、じわりと、昨晩と同じ熱が伝わってきた。
「ないよ〜」
慌ててその拘束をするりと解くと、洗面所へと逃げ込み、メイクを始めるのだった。




