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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第二章

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第八夜:仕返ししたい

 玄関の奥で、ゆっくりと鍵の開く音がした。


 やがて、聞き慣れた足音が廊下から近づいてくる。

 その足取りは、照明を落とした寝室へとまっすぐに向かってきた。


「ただいま」


 暗がりの中、そっと声をかけられる。


「…………」


 柔らかなガーゼケットに包まった背中を向け、動かずにいた。


「マーナ」


 寝たふりだとわかっているハルが、耳元に吐息を落としてきた。

 その穏やかな声色から、後ろめたい出来事はなかったことがわかり、少しだけ安堵する。


 それでも、私の中にある小さな棘のようなものは、すぐには消えてくれない。


「マナちゃん。帰ってきたよ」


 唇を直接耳に押し当てられ、思わずピクッと肩が跳ねてしまった。

 その反応を面白がるような、小さな笑い声が降ってくる。


 鼻先を掠める、ほんのりとしたウイスキーの香り。

 ハイボールでも飲んできたのだろう。


「……あっち行って。酔っ払い」


 頭までケットを引き上げ、すっぽりと潜り込んで防御する。


「酔ってないんだけどなー」


 間延びした声は遠ざかり、バスルームの方へと向かっていった。


 戻ってくる前に寝てやると決意し、強く瞼を閉じていたのに、水音はあっという間に止んだ。


 微かな湿気を纏った気配が近づく。

 私が身体を向けていた先のスペースに、ドサッと沈み込んできた。


「……ちょっと。乾かさないと、キューティクル傷むよ?」


 パジャマ姿の濡れた髪を前に、たまらず小言をこぼしてしまった。

 職業柄、どうしても見過ごせない。


「じゃあ、マナがやって」


 そう言うが否や、こちらの返事も待たずに洗面所からドライヤーを持ってくると、ベッドの上にあぐらをかいて座り込んだ。

 渋々上体を起こして背後に回り、スイッチをカチッと押し込んだ。


 静かな寝室に、低い駆動音が響き渡る。


 細く柔らかな髪を指の腹で掻き分けながら、根元から丁寧に風を当てていく。

 水分を吸って少し重たくなっている髪。温風を当てると、シトラスの香りがふわりと立ち昇った。


 いつもなら「乾かしてあげようか?」と声をかけても「いい」と断られるのに、珍しい。

 サロンに来てくれるときも、ほとんどの時間を黙って過ごしているし、他人に髪を触られること自体があまり好きではないのだろうと、勝手に思っていたくらいだ。


 手櫛を通しながら乾かし終えると、何のスタイリング剤もついていない、素のサラサラとした髪に戻った。


 温風を止める。

 ハルはそっと私の手から本体を抜き取り、元の場所へと片付けに行った。

 やれやれ、と小さく息を吐いて再び横になる。


 戻ってきた彼は、身を寄せるようにして潜り込んできた。


 そして。


「それで。聞きたいこととか、ある?」


 何かを期待している瞳で、そんなことを言い出した。


「……ないっ。おやすみ」


 そっけなく言い放ち、寝返りを打って背中を向けた。

 しかし、すぐに背後から抱き込まれる。


「でも、拗ねてんじゃん」


「拗ねてないってば」


「意地張るなって」


 首筋に顔を埋めてくる。


「……っ」


 柔らかい毛先が素肌に触れて、くすぐったい。



「なあ。妬いた?」


 調子に乗ったハルは、ストレートに問いかけてきた。



「…………」


「マナ」


「…………」


「妬いたって、言えよ」


「…………」


 私の身体を這うように伸びてくる手のひら。

 このままでは終わらないと、観念した。



「……妬いたけど、なに?」



 そう口にするや否や。

 苦しくなるくらい、強く抱きしめられた。



 肩を掴まれ、強引に身体の向きを変えられる。


 視界に映ったハルは――こちらをモヤモヤさせていたことなど気にも留めないほど、思いきり嬉しそうに目を細めていた。


「……可愛い」


 甘い声とともに、深い口づけが落ちてくる。


 まだ薄っすらと残る、シャンプーの香りに包まれた。


 諦めて身を委ねたその夜、ハルはいつも以上に暴走していた。

 やっぱり少し酔っていたんじゃないかなと、思うくらいに。


 ◇


 翌朝。日曜の七時。

 目を覚ますと、ハルは隣にいなかった。


 代わりに向こうの部屋から、フライパンで何かを焼く音と、焦がしバターの甘い匂いがする。



 素足の裏にフローリングの冷たさを感じながら、そちらに引き寄せられる。

 微かな物音で、広い背中がゆっくりと振り返った。


「おはよ」


 一目見ただけで、わかった。

 とっても、機嫌がいい。


「……おはよう。もしかして、フレンチトースト作ってる?」


「そう」


「わあ、ハルのフレンチトースト! 食べたい」


「どうぞ」


 ちょうど焼き上がった分を平たいお皿に乗せ、軽い音を立ててテーブルに置いてくれる。


 洗面所で手早く顔を洗ってきてから、そっと椅子を引いて腰掛けた。


「いただきます」


 一口含むと、卵液がたっぷりと染み込んだ、温かくて優しい甘さが口いっぱいに広がる。


「んーっ」


 綻んだ顔を向けると、ハルは静かに、けれどとても満足そうに微笑んでいた。

 本当に、機嫌がいい。


 ――嫉妬する私を見られたのが、そんなに嬉しかったのだろうか。


 昨晩、愛の言葉を繰り返し囁きながら、私の感触に浸っていた彼。

 いろいろなことが甦ってきたら、頬に熱が集まった。


「何か、思い出してる?」


 頬杖をつくハルが、また楽しげに目を細める。

 自分の食事にはまだ口をつけず、こちらの様子を観察していたようだ。


「べ、べつに……」


「昨日の夜、楽しかったな?」


「……ご馳走様でした!」


 寝起きだというのにあっという間に平らげていた私は、その視線に耐えかねて空のお皿を持ち上げた。

 食器の片付けを装い、シンクへと逃げ込む。


 背後で、小さく笑いながら食べ始めるハル。


 なんだか、気に食わない。

 わざと嫉妬させるような言動をしてきた方が、終始余裕たっぷりで面白がっているなんて。


 仕返し、したい。


 私だって、ハルの弱点は知っているんだから――。



「美味かった? フレンチトースト」


 私のささやかな企みなど知る由もなく、背を向けたまま問いかけてくる。


 足音を殺して忍び寄り、斜め後ろに立った。

 そして、座っている彼の横へと身を屈め――頬にそっと、口づけを落とした。



「美味しかったよ、すごく。ありがと」



 勢いよく振り返ったハルと、至近距離で視線がぶつかる。


 目論見通り。

 不意打ちを食らった彼は、小さく息を呑み、ペースを乱されていた。


「今日は私の、勝ち」


 得意げな笑みを浮かべ、踵を返そうとした瞬間。

 手首を力強く掴まれた。


「……出勤まで、時間ある?」


 鋭い眼差しには、さらなる仕返しを企むような、危険で甘い光が宿っている。

 私を捕まえている指先から、じわりと、昨晩と同じ熱が伝わってきた。


「ないよ〜」


 慌ててその拘束をするりと解くと、洗面所へと逃げ込み、メイクを始めるのだった。

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