第七夜:妬かせたい
小さなレストランを貸し切って開かれている同窓会。
立食形式の賑やかなフロアから距離を置き、壁際の席でグラスを傾けながら、元クラスメイトの他愛ない会話に適当な相槌を打っていた。
最初は顔を出す気などなかったが、幹事から送られてきた参加者リストに『ある名前』を見つけた瞬間、考えが変わった。
遠くのテーブル越しに、かつての担任と会話を交わしている人物を捉える。
彼女、鈴原は――マナと出会う直前まで、短い期間だけ付き合っていた相手。
ここに来た理由は、ただ一つ。
マナを、妬かせたい。
幼稚なのは、重々承知している。
でも、どうしても妬いているマナを見たいのだ。
強がりもあるのか、いつも飄々としてみせるマナだが、一度だけ明確に嫉妬心を露わにしてくれたことがある。
それが、あの鈴原に対してだった。
◇
マナが高校卒業を控えた、二月の終わりのことだった。
天気が悪いので俺の家で過ごそうと誘い、駅で落ち合ったところに、鈴原が通りかかった。
一言の挨拶を交わしただけなのに、マナは彼女が元恋人だと、すぐに気がついた。
そういう勘は鈍いだろうと勝手に思っていたから、電車の中で尋ねられたときは驚いた。
多少は嫉妬したりするだろうか――と期待してみるものの、特にそんな様子は見せない。
家の最寄り駅に着き、大通り沿いを歩き始めても、何も変わらない。
それどころか、いつも通りの明るいトーンで、別の話題を振ってくる。
その平然とした態度に、じわじわと苛立ちが募っていった。
『ハルの苦手なものって、なに?』
少し前で、水溜りを避けながら楽しそうに歩くマナが、傘越しに無邪気な声をかけてくる。
『……虫』
『じゃあ今日は、虫の映画にする』
『そんなん観たいのかよ?』
不機嫌を隠さずに返すと『やっぱりそれは私もイヤ』と笑い声を弾かせた。
雨音に混じるその軽い響きが、癇に障った。
地面を蹴る足を止め、冷え切った声を投げる。
『マナって……俺のことそんな好きじゃないよな』
振り返った彼女は『え?』と僅かに眉をひそめた。
『元カノ見たって、そんな感じだし』
立ち止まったまま、こちらを見つめている。
『どうせ、そんな興味ないよな。懐いてきた年下の子に付き合ってやってる、みたいな感じ?』
わざと傷つけるような言葉を吐き捨て、冷たい雨の中、ゆっくりと追い越した。
その直後。
背中にドサッと重い衝撃が走り、鈍い音が響いた。
驚いて振り返ると、水溜りのできたアスファルトの上に、マナの鞄が転がっている。
そして、それを投げつけた本人は――傘も足元に放り出したまま、唇を強く噛み締め、思いきりこちらを睨みつけていた。
その顔を見た瞬間。
ゾクッとするほどの歓喜で、全身が粟立った。
怒らせてしまった後悔を、微塵も感じられなかった。
マナが初めて生々しい感情を向けてくれたことが、ただただ嬉しかった。
自分の愛情が歪に捻くれていることを、明確に自覚した瞬間だった。
『……帰るっ!』
マナは荒々しく鞄を拾い上げ、踵を返す。
慌てて追いかけ、その細い腕を掴んだが、こちらを見ないまま力任せに振り払おうとする。
そのときだった。
真横の大通りを、大型トラックがけたたましい音を立てて走り抜けた。
跳ね上げられた巨大な水飛沫が、マナの足元を容赦なく打ち据え、ローファーもソックスも、あっという間に泥水に塗れた。
それなのに、なぜか俺の方は、少しの飛沫を浴びるだけで済んだ。
『…………』
『…………』
雨音だけが響く中、数秒間、完全に時が止まった。
ぐしょ濡れの足元と、呆然とする顔。
そんな状況に、堪えきれず小さく吹き出してしまった。
◇
マンションの部屋には、濡れた靴下を放り込んだ乾燥機が、低い駆動音を鳴らしていた。
二人きりのリビングに戻る。
母親は夜勤で不在だった。
『……寒いから、ズボン借りたい』
遠慮がちにソファの端に座るマナが言った。
何の布にも覆われていない、白い素足が目に留まる。
『ない』
雑にそのお願いを断る。
『ないわけないでしょ。何でもいいから、貸してよ』
『無理』
『なんでっ』
抗議を無視して、隣に腰を下ろす。
先ほどの雨の中での興奮がまだ残っていて、いつも以上に歯止めが利かなかった。
冷え切った小さな膝に手のひらを乗せると、彼女の身体がビクッと震えた。
『いい眺めだから』
意地悪く微笑んでみせると、『……いい加減にして』と乱暴に振り払われた。
俯いたままのマナが、やや震えた声を落とす。
『……全部経験済みだからって、からかわないでよ』
その一言で、なんとなく察した。
過去の交際相手とすでにそういう段階まで経験済みだと、誤解されているのかもしれない。
『……最後までしてないけど? 誰とも』
それを聞いたマナは、弾かれたように顔を上げ、こちらを見た。
言葉の意味を考えるように少しの間だけ静止したあと、再び視線を落とす。
『え……あ、そうなんだ』
ぎこちない呟きとともに、静寂が降りた。
『…………』
『…………』
乾燥機の単調な音だけが、脱衣所から響いてくる。
目が合わない横顔を見つめながら、口を開いた。
『とっておいたんじゃん。喜べよ』
言い放った直後、さすがに気恥ずかしさが込み上げてきて、俺も視線を逸らした。
すると。
肩に手を置かれると同時に――頬に柔らかな感触が触れた。
ほんの一瞬だった。
けれど、頬へのそれは初めてだったため新鮮で、思わず目を見開く。
彼女は赤らんだ顔を隠すよう、すぐに目を伏せ、ぽつりと呟いた。
『……嬉しいから、お礼』
それで、マナへのいろんな感情が、音を立てて決壊した。
堪えきれず、細い肩をそのままソファへと押し倒す。
熱を持った瞳で見下ろすと『な、なんで笑うの?』と、恥ずかしそうに戸惑っていた。
たしかに、自分の顔が緩んでいるのがわかる。
敵わない。
完全に白旗を揚げた気分で、甘く降参を告げた。
『……負けた』
そうして俺とマナは、初めて結ばれたのだった。
◇
遠い記憶の余韻に浸り、早く家に帰りたくなっていた頃だった。
「久しぶり」
目の前に見覚えのある人物が立つ。
適度な距離を空けて隣に腰を下ろしたのは、鈴原だった。
「結婚したんでしょ? 高校のとき、付き合ってた先輩だっけ」
共通の知り合いからでも聞いたのだろう。
「うん」
「綺麗な人だったもんね」
どうやら、あの冷たい雨の日のことを、彼女も覚えているらしい。
「まあ、黙ってると」
長い黒髪に、頬のほくろ。女性としては、高めの身長。
そんなマナは、初対面だとアンニュイな印象を抱かせる風貌をしているけれど。
「喋ると、どうなの?」
「面白い」
口を開けば百面相なのだ。
「じゃあ、最高だね」
惚気を隠さない俺を見て、愉快そうに小さく笑っている。
「もう、終わりそうだね。二次会行くの?」
鈴原の言葉に、周囲を見渡す。
すでにラストオーダーの時間は過ぎ、すっかりお開きの空気が漂っていた。
「いや、帰るわ」
「ふうん。私も」
彼女が、グラスの底に残っていたわずかなレモンサワーを飲み干すと、氷の音がカランと鳴った。
「一緒に、帰る?」
その横顔は、静かな微笑みを浮かべていた。
「……一人で帰る」
一瞥だけして淡々と返すと、彼女は再び楽しそうに目を細めた。
「冗談だって〜」
相変わらず掴めない性格をしている。




