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ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第二章

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第六夜:今日の夜、俺、いないから

 記念日のディナーから、数週間後。

 サロンでの仕事を終え、土曜日の疲れとともに自宅へ帰り着いた。


 鍵穴でキーが回る無機質な音が、やけに大きく響く。


 少しひんやりとした闇に足を踏み入れ、パチン、と乾いた音を立てて壁のスイッチを押す。

 一気に部屋を照らすその明るさに、思わず目が眩んだ。


 いつもなら、眼鏡をかけたオフモードのハルが「おかえり」と低い声をかけてくれるはずのリビング。

 その空間には今、廊下から流れ込んだ微かな風の匂いしかない。


 無垢材のダイニングテーブルに、コンビニのポリ袋から取り出したプラスチックの容器を並べる。

 千切りキャベツ中心のサラダ、茹で卵、梅のおにぎり。

 手軽さと、栄養の数字だけを重視した食事だ。


 普段なら、一週間で最も慌ただしい一日を終えたご褒美が待っている。

 湯船にゆっくりと浸かり、冷えたビール缶を開け、今日あった出来事をハルに聞いてもらう、満ち足りた時間。


 けれど、今夜は浴槽に湯を張る気力が湧かなかった。


 ぬるめのシャワーで手早く汗を洗い流し、髪を乾かすとすぐにベッドへ滑り込んだ。

 リネンのシーツは、まだ体温を知らずに冷たい。


「…………」


 顔半分を枕に埋めたまま、スマートフォンの液晶を点した。

 画面の端に表示された時刻は、二十二時前。

 ハルからの通知は、特にない。


 彼は今夜、高校の同窓会に出かけているのだ。


 今頃、二次会にでも向かっているのだろうか。

 そんな考えが掠めた瞬間、胸の奥に雲が広がった。



 記念日の夜のことが蘇る。


 ディナーを楽しんでいたお店で、偶然、専門学校時代の男友達に会った。

 卒業後も複数人で何度か集まっていたけれど、本当にただのクラスメイトで、数回食事をしただけの関係。


 それなのにハルは、激しい不快感を露わにした。


 言葉もなく腕を引かれ、なだれ込んだホテルのベッド。

 有無を言わせない強引な抱き方には、彼の独占欲が滲んでいた。


 それなのに。


『今日の夜、俺、いないから』


 今朝、彼は端正な笑みを浮かべながら、改めてそう報告してきた。

 その集まりには――『元カノ』もいるとのこと。


 昔、一度だけ見かけたことがあるけれど。

 独特の透明感を纏った子だった。


 あんなに私のことを縛り付けておいて、自分は元恋人のいる場所へ、何食わぬ顔で出向いていくなんて。

 私も私で、文句のひとつでも言えばいいものを、またしても平気なふりをしてしまった。


「……なによ。あのワンマン夫」


 湿った夜気に吐き出された声は、誰に届くこともなく消えた。


 ◇


 高校三年の冬、年が明けた頃のことだった。


 夏の間に美容専門学校への進学を決めていた私は、周りが受験シーズンの佳境を迎える中、ハルと遊んでばかりいた。


 その日は、傘を持つ手の感覚すら奪っていくような、冷たい雨が降っていた。


 二人の学校は同じ最寄り駅だったため、いつもその改札前で待ち合わせた。

 少し遅れて到着した私が、屋根の下に入り、ブレザーや傘から雫を払っていたとき。



『あ、幹本』



 背後から、透き通った声が響いた。


 振り返ると、ハルの高校の制服にペールブルーのマフラーを巻いた女の子がいた。

 同じ雨の中を歩いてきたとは思えないほど、その長い髪はさらりと揺れていた。


『おー』


 その姿を認めた彼は、短く返した。

 隣にいる私の存在に気がついた彼女は、形の良い唇に小さな微笑みを浮かべ、静かに去っていった。


 私たちがホームに上がる頃には、一本前の電車に乗ったのか、その姿はなかった。



 暖房の効いた車内に、単調な走行音が響く。

 並んで座るシート。冷え切ったコート越しに、微かな熱がじわじわと伝わってきた。


 向かうのは彼の家。

 お父さんは単身赴任、お母さんは看護師で夜勤もあり、両親が不在がちなその部屋にお邪魔するのは三度目だった。


『今日、何観たい?』


 ぽつりと落とされた声。

 薄暗い部屋で肩を並べて映画を観るのが、いつもの過ごし方だった。


 一度目は、甘い恋愛映画。

 画面越しのラブシーンに目のやり場をなくしていると、隣から面白がるような視線を感じた。


 二度目は、ホラー映画。

『怖いのは苦手』というハルの嘘を真に受けて選んだら、結局、私だけが怯える羽目になった。

 彼の服の袖を強く握りしめる私を横目に、満足そうにしていた。


『マナ? 聞いてる?』


 ハルの問いかけに答えず、車窓を流れる雨粒を目で追いながら、尋ねた。


『……さっきの子、元カノ?』


 電車の揺れる音が、やけに大きく聞こえる。

 彼は、少しだけ驚いたように私を見た。



『へー。マナって、そういう勘あるんだ』



 悪びれない、落ち着いた声だった。


 彼女の微笑み。そして、二人の間に一瞬流れた、あの空気の理由。

 それらが私の中で、ひとつの結論に繋がっていく。


 私は、中学時代に一人だけ彼氏がいたことがあるけれど、手を繋ぐ程度のライトな付き合いだった。

 一方のハルは、二人きりになると、こちらのペースなんてお構いなしに遠慮なく手慣れた様子で触れてきていた。



 彼はきっと――あの子とも、そういう関係まで進んでいたのだ。



 そう察した瞬間、胸の奥が冷たい雨粒に打たれたように、ひやりと痛んだ。

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