第五夜:空白の時間ごと閉じ込める
マナは『した』あと、いつもすぐ寝る。
薄暗い間接照明だけが灯る静寂の中、小さな寝息が溶けていく。
枕に沈む寝顔さえ見逃すのが惜しくて、ずっと眺めていた。
『そのときは誰とも、……ハルとも、付き合ってなかったんだから。ごはんくらい行くよ』
先ほどの言葉が蘇る。
そう。俺たちには――別れていた期間が、三年ほどある。
それが、俺の奥底に巣食う醜い執着の正体だ。
離れていた間のマナを見ていた男たちには特に、理性を焼き尽くすほどの嫉妬が湧き上がってしまう。
『ただの友達』だという男相手でさえ、この有り様だ。
もしも、彼女の肌を知る男と鉢合わせでもしたら――俺は何をしでかしてしまうかわからない。
普段なら、意地悪く焦らしてはその反応を楽しむことで、満足できるはずなのに。
久しぶりに、荒々しい感情をそのままぶつけてしまった。
浅い眠りの中にいる彼女の頬を人差し指でなぞると、くすぐったそうに小さく身じろぎした。
そのたしかな反応に安堵しつつも、苦い記憶へと引きずり込まれていく。
◇
別れを切り出したのは、俺だった。
専門学校を卒業し社会人になったマナと、大学生になった俺。
明確にズレていく生活スタイル。
忙しいはずなのに、お酒の付き合いなどに律儀に顔を出す彼女に、学生の俺は苛立って仕方がなかった。
ただ、試すつもりだった。
いつも「年上だから」と余裕のある態度で、甘えも、嫉妬も、我儘も言わないマナ。
「別れたくない」と、泣いてすがってほしかった。
気持ちは同じだって、確かめたかった。
けれど――。
『わかった』
そう言って力なく微笑むだけで、あっさりと手を離した。
愚かな期待や自尊心は、粉々に砕け散った。
それからの日々は、まるで色のない水槽の底に沈んでいるようだった。
誘われるがまま誰かと遊び、流されるように付き合い、無意味な時間を消費しても、心は凍りついたまま血が通わない。
別れを拒まなかった彼女のことも、切り出した自分自身のことも、心底恨んでいた。
それなのに、行き場を失くした熱は一向に消え去ってくれなかった。
連絡先を見つめたまま、いくつもの季節が虚しく通り過ぎていく。
マナの中では「過去の幼い恋愛のひとつ」として綺麗に消化されているかもしれない。
もし、それを突きつけられたら。
そう想像するだけで、耐えられなかったのだ。
毎日ネクタイを締め、大きなビルに通うようになっても。
雑踏を歩けば、無意識に姿を探していた。
彼女が使っていたシャンプーの香りがするだけで、心臓が痛いほど跳ねて立ち尽くした。
未練がましく彼女の職場の隣街に部屋を借りたのも、いつか偶然すれ違えないかという、奇跡にすがる気持ちからだった。
会いたい。顔が見たい。
次に会えたら、もう二度と離さないのに。
そんな祈りのような執着が実を結んだのは、スーツの下で肌が汗ばむような、初夏の夜の交差点だった。
信号が青に変わり、押し出されるように歩き始めた視界の先。
行き交う人波の中、向かいから歩いてくる姿を見つけた瞬間、周囲の動きや音、すべてが止まった。
『……ハル!』
俺に気づいて、ただ懐かしそうに目を細めたマナ。
考えるより先に、その腕を掴み、走り出した。
突拍子もない俺の行動に目を丸くした彼女は、何かを問いかけていたが、騒ぎ立てる自分の心臓の音に掻き消されて何も聞こえない。
無我夢中で手を引く。
人目から離れ、湿気の籠もる薄暗いトンネルに差しかかったとき、耐えきれずにキスをした。
欲しくてたまらなかった、懐かしい香りと、柔らかな感触。
初めこそ驚いていたマナも――やがて背中に手を回し、応えてくれた。
そのまま自分の家に引きずり込み、空白の時間を埋めるように、すべてを注いだ。
乱れたシーツの中で息を切らしながらも、必死に熱を返してくれた彼女を腕に閉じ込め、ただ一言、懇願したのだ。
『やり直そう』ではなく――『結婚して』と。




