第四夜:全部、俺のマナだから
マナがまた隣で笑ってくれるようになるまで、気が遠くなるほどの時間、暗闇を彷徨った。
一度失ったものを再び手に入れた人間は、どうしたって臆病になる。
あるいは、狂気じみた執着を抱えることになる。
俺の場合は、間違いなく後者だった。
他の男が、マナのことを気安く呼ぶだけで、視界に入れるだけで、虫唾が走るのだ。
シャキッ、シャキッ。
心地よいリズムで、彼女が俺の髪を切り落としていく音が、耳元で響く。
時々首筋に触れる、柔らかな指先。
真剣な作業の合間に、時折こぼれる微かな吐息。
毎月カットしてもらっていてもいまだに慣れることはなく、ただ自分の中に溜まっていく熱を必死に追い払う。
「お客さま。いかがですか?」
微笑みとともにかけられる声が、脳に直接届く。
他の男性客にもこうしているのかと思うと、腸が煮えくり返りそうになる。
けれど、俺はもう学生でもあるまいし、分別もなく嫉妬をぶつけるわけにもいかない。
マナはこの仕事に、プロとして、信念を持って取り組んでいるのだと、頭ではわかっている。
だから、腹の底で渦巻く真っ黒な感情は、静かに目を閉じてやり過ごすしかなかった。
◇
薄暗いペンダントライトが、磨き上げられた木のテーブルに柔らかい影を落としている。
上品に漂うガーリックとハーブの香りが、少し開けられた窓から入り込む夜風と混ざり合っていた。
「結婚二年、おめでとうっ」
火曜日。約束していた記念ディナーの日。
弾むようなマナの声で、二つのフルートグラスを合わせると、チリン、と涼やかなガラスの音が響いた。
立ち昇るきめ細やかな泡が、黄金色の液体の中で微かな音を立てて弾けている。
隣駅にあるお気に入りのバル。
アンティーク調の家具が並び、普段足を運ぶ店よりもやや照明が落とされている空間は、二人のお祝いによく馴染んでいた。
「二年かあ。早いねえ」
マナはそう言ってスパークリングワインに口をつけると、「あ、美味しい」と瞬きをした。
「ハルは、何食べたい?」
メニューを手に取り、楽しそうに文字を追っている。
「マナ」
向けられた瞳を逃さないよう、まっすぐ見つめながら言う。
数秒の沈黙のあと、彼女は呆れたように息を吐いた。
「もう、ふざけないで」
「本気だけど?」
自分のグラスを引き寄せ、爽やかなワインを一口含みながら、平然と返した。
喉の奥に微炭酸の刺激を感じていると、マナは上目遣いにこちらを睨んできた。
「……昼間、食べたでしょーがっ」
周囲の客の笑い声に紛れるほどの、小さな抗議。
白いブラウスから覗く首筋が、ほんのりと赤く染まっている。
カーテンの隙間から差し込む陽光の下、シーツの上で俺の手を握りしめる彼女が思い出された。
「夜はまだ、食べてない」
「え……夜も、するの?」
静かに目を見開きながら、確認してくる。
頬も熱を帯び始めたのは、アルコールのせいだけではないだろう。
「せっかく休み取ったのに、一回きりで終わるわけないから」
「…………」
わざと低い声で告げると、マナは少しだけ唇を動かしたあと、言葉を失った。
その指先から、そっとメニューを抜き取る。
いまだこんなふうに恥じらう彼女に、つい口角が上がってしまうのを隠しつつ、通りかかったウェイター向けて小さく手を挙げた。
◇
マナの寝言がうるさいという話題で笑い合っていたとき。
「……あれっ? マナ?」
横を通った男性客が、声を上げた。
そいつを見上げたマナの表情が、驚きから明るいものへと変わる。
「えっ、リョウ! 久しぶり!」
けれどその後すぐにハッとして、俺に「専門学校の友達!」と説明した。
一応、小さく会釈をしておく。
そしてマナは俺のことを「夫です」と、はにかみながら紹介した。
「……おお! 結婚したのは聞いてたけど、初めまして!」
屈託のない声。
美容専門学校の同級生だというその男は、近隣のサロンに勤めているらしく、軽い会話を交わして去っていった。
「……いやー、ごめんね。会うの三年ぶり? くらいだから、ビックリしちゃった」
残されたテーブル。
マナはグラスを持ち上げながら、俺の表情をちらりとうかがっている。
喉の奥が、急速に乾いていく。
「……付き合ってた奴じゃ、ないよな?」
「あ……うん。違うよ?」
「何もなかった?」
「うん。ただの友達」
「本当に?」
「…………」
あいつの、マナへの表情や、俺を紹介され微かに揺れていた瞳の奥。
それらが、『ただの友達』という言葉を疑わせる。
案の定、マナの唇に小さな苦笑いが浮かんだ。
「うーん……ごはんに行ったことはあるかな」
「二人で?」
「まあ……そうだね」
「何回?」
「ええ? 二、三回かなあ?」
記憶を辿るように、視線を斜め上に向けている。
手元の白ワインを呷る。
冷えた液体を流し込んでも、胸の奥のつかえは取れない。
無言のまま、グラスをテーブルの上に戻した。
それを見て、やや肩をすくめるマナ。
「……もー。そんなに怒る? そのときは誰とも、……ハルとも、付き合ってなかったんだから。ごはんくらい行くよ」
「…………」
「ハルだって、たくさん彼女つくってたんだし」
マナは、野菜のキッシュをフォークで切り分けながら、小さく抗議した。
俺がどれだけの虚無を抱えてあの数年を過ごしたか、こいつは何もわかっていない。
◇
「美味しかったねえ」
店を出た。
あの後から互いに口数はやや減ったものの、料理も酒も満喫することができた。
「歩いて帰る?」
振り返ったマナの長い髪が、初夏の夜風にさらりと揺れた。
薄い雲から顔を出した月明かりが、彼女の肌を青白く照らしている。
気がつけば、その細い手首を掴んでいた。
そのまま、足早に歩き出す。
「ハル? どうしたの?」
マナの戸惑う声が、アルコールの回った頭をすり抜けていく。
「……どこ行くつもり?」
大通りから外れ、薄暗い路地裏へ足を踏み入れる。
前方に浮かび上がる、けばけばしいネオンの看板。
「家に帰ってからで……いいんじゃない……?」
俺の意図に気づいたのか、繋いだ手に微かな抵抗の力がこもった。
「無理」
ただそれだけ言って、ひときわ暗い入り口の奥へと連れ込んだ。
◇
扉が閉まる音と共に、外の世界から遮断される。
部屋に入るなり、壁に押し付けるようにして、甘く香る首筋へ顔を埋めた。
「…………っ……」
「さっきの奴とは、飯だけ?」
「…………え……?」
「触らせてない?」
肌に唇を這わせながら、低い声で問い詰める。
「うん……何もないよ……」
掠れる声を聞き届け、そのままベッドへと押し倒した。
柔らかなシーツに沈み込む身体を、逃がさないように上から覆う。
熱を帯びた肌に、何度もキスを落としていく。
潤んだ瞳、熱い吐息、僅かに歪む眉。
その表情のすべてを見逃さないように、決して視線を外さない。
全部、俺のマナだから。




