第三夜:ハルを「可愛い」と思うとき
慌ただしかった土曜日のサロンも、ようやく客足が落ち着き始めた頃。
「お客さま。いかがですか?」
首元のケープを外し、短い髪を払いながら鏡越しに問いかける。
「……うわ。懐かし」
カットの間、静かに目を閉じていたハルが、自分の姿を確認して呟いた。
今回は、二人が出会った高校生の頃を再現したスタイル。
癖のないストレートヘアを薄く切り揃えた、短めのマッシュカット。
月に一度のペースで私の働くサロンにやってくるハルは、毎回「なんでもいい」と丸投げするため、好きなようにハサミを入れさせてもらっている。
爽やかに額を出したり、色っぽく流したり。
今回は、少し母性本能をくすぐる雰囲気にしてみた。
その姿に、ふと、初めて言葉を交わした日の記憶が蘇る。
それは、私の高校最後の文化祭だった。
私が所属していた茶道部は『江戸の茶屋』をテーマに出店していた。
女の子たちが『お茶屋の娘』として色鮮やかな着物に身を包む中、ちょうど『店の用心棒の武士』を担う番だった私は、一人だけ袴姿をしていた。
そこへ、男友達に連れられて面倒くさそうにやってきたのが、ハルだ。
なぜか男装姿の私に興味を持ち、何度か話しかけてきた。
私が考案した、串の一番下の団子に餡子が入っていればもう一本もらえる『下剋上団子』。
ハルは見事、その当たりを引いた。
『下剋上成功、おめでとうっ!』
全力で祝福すると、彼は小さく吹き出した。
帰り際、なぜ一人だけ男装なのか尋ねられ、明日は着物を着ることを伝えると――。
『じゃあ。その写真、送ってください』
流れるようにスマホを取り出され、気づいたら連絡先を交換していた。
そこからハルとの日々は始まったのだ。
◇
そんな懐かしい記憶に浸りながら、本日最後のお客さんであるハルの会計をする。
短くなった襟足を眺めていると、思わず本音が口からこぼれた。
「うん。可愛いっ」
ハルは、クレジットカードの暗証番号を入力していた指をピタリと止め、「あ?」と軽く睨んできた。
「褒めてるんだってば」
「……あとで覚えとけよ」
「きゃー。こわーい」
いつものように軽口を叩き合っていると、同僚の男性スタイリストがバックヤードからカウンターへやってきた。
「あっ、マナちゃんの弟さん?」
ハルの眉がピクリと動く。
周囲の温度が数度下がったような錯覚に陥り、慌てて否定する。
「……違いますよ! 夫です」
同僚はなぜか「え、マジか!」と少し驚き、私たちの顔を見比べる。
「笑い方が一緒だから、姉弟かと思った!」
そして、ちょっと嬉しいことを言ってくれた。
「てか、こんなイケメンが旦那さん!?」
無邪気に感心する同僚に対し、ハルは静かに微笑み返している。
けれど、長年一緒にいる私には分かった。
その瞳の奥が、一切笑っていないことが。
◇
サロンではまだ若手の方である私は、いつもなら閉店後の片付けを担うところだが、特別に早上がりをもらっていた。
週末で休みこそ取れなかったものの、今日は――二回目の結婚記念日なのだ。
湿気が肌にまとわりつく、夜八時の都心。
先に店を出て待つ、ハルの元へ急ぐ。
早歩きで大通りに出て、事前に聞いていた色の車が路肩に停まっているのを見つけ、駆け寄った。
スモークガラス越しに、眼鏡をかけた夫の横顔を確認し、助手席のドアを開ける。
そして、パタン、と重いドアを閉め、外の喧騒を遮断した直後――。
シートベルトを引き出そうとした腕が掴まれ、有無を言わせず唇を塞がれた。
「……っ!?」
驚いて抗議しても、くぐもった声が漏れるだけ。
強引で、少しだけ乱暴な感触に、さっきの出来事を根に持っていることを悟る。
手に持ったままのベルトを押し込められ、ガチッとロックされる鈍い音が響いた。
「…………っ……」
息が乱れてきたところでようやく解放されると、暗い車内でもわかるほど不機嫌な瞳に捉えられた。
「……なんなの? アイツ」
「……え? ああ……最近、新しく入ってきた人で……」
「そんな情報は、どうでもいいんだよ」
前を向き直ったハルは溜息を吐きながら、シフトレバーを荒っぽく引いた。
「何? 『マナちゃん』って」
「…………」
どうやらその呼び方と、彼の地雷のひとつである『弟間違い』のダブルパンチが気に障ったらしい。
「……でも、『笑い方が一緒』って言われたね」
少しの照れくささと嬉しさが入り混じり、つい「へへ」と顔が綻ぶ。
「…………」
ハルは一度だけ横目でこちらを見やり、無言で車を発進させた。
今日はこの時間まで私の仕事があったため、記念日のディナーは、彼が休みを取ってくれた次の火曜日に予定している。
当日である今夜は、私が一番大好きなドライブデートをするのだ。
特別なとき、こうして車を借りて連れていってくれる。
街灯の光が、大人びた横顔を代わる代わる照らし出す。
さっきのように、嫉妬深くてすぐに苛々するところがありながらも、根は優しくて、私に甘い。
そんな彼を見つめながら、ずっと変わらない想いを抱くのだった。
◇
落ち着いて運転するハルに、時折話しかけながら過ごしていた。
高校を卒業してすぐに免許を取ったハルが、初めて助手席に乗せてくれたときは、前のめりで眉間に皺を寄せ『話しかけんな』と怒っていた。
それが今では、いつもの軽口を叩き合えるほどの余裕を持ち合わせている。
ふと、カーラジオから『恋に落ちた瞬間』というリスナーのエピソードと共に、甘いラブソングが流れてくる。
「ねえ。私を好きになった瞬間って、いつなの?」
「え?」
トンネルに入り、オレンジ色のナトリウムランプが車内を等間隔に流れていく。
ハルはしばらく黙って考えたあと、口を開いた。
「雷に、はしゃいでるの見たときかな」
ハンドルを握りながら、フッと思い出し笑いしている。
それは、二回目に遊んだ日のこと。
傘を持っていなかった私たちは、通り雨を避けるようにビルの上層階にあるカフェへ駆け込んだ。
窓際の席で、私は厚い雲の隙間に走る稲妻を夢中で眺めていた。
ふと、隣から手が伸びたと思ったら、私の頬にあるほくろに、冷たい人差し指がそっと触れた。
『濡れてる』
低い声とともに、彼が少し背伸びして付けた香水のような、澄んだ香りが漂ってきた。
射抜くような視線に、思わず戸惑ってしまったのを覚えている。
「それで? マナは?」
トンネルを抜け、再び街の夜景が広がったところで聞き返された。
「うーんとね。ゾンビゲームで、私を誤射して笑ってたとき」
それは、彼に誘われて行ったゲームセンターでのこと。
私が昔から得意だったシューティングゲームを二人でプレイしていたとき、ハルが誤って私のキャラクターを撃ち抜いた。
『……おまえがゾンビに見えたんだよっ』
普段は落ち着き払っている彼が、目を思いきり細めながら爆笑するのを見て、なぜか胸の奥がギュッと苦しくなった。
あのとき、ついに自分が何かに落ちる音が聞こえた気がする。
ハルは私が「可愛い」と言うといつも怒るけれど、決して子ども扱いしているわけではない。
「可愛い」と思うのは、愛おしさで心が鷲掴みされるような感覚をおぼえたときだ。
「え、それ俺より結構後じゃん。やり直し」
「なに? やり直しって」
その文句に思わず笑いながら、さらに過去の記憶を遡ってみる。
彼といると、ドキドキすることも、キュンとすることも、最初からずっと数え切れないくらいあったと思うのだけれど。
赤信号で車が停まる。
フロントガラス越しに、テールランプやネオンが作り出す滲んだ光の粒たちを眺めながら考えていた、その時だった。
目の前の光が遮られ――ふわりと、いつもの香りに包まれた。
軽い音を立ててキスをしたハルは、乗り出していた身を運転席へと戻した。
「はい。マナの負けな」
「……なにがっ!?」
「今、キュンとしただろ」
「なんで!?」
「空気でわかんだよ」
光に照らされたその横顔は、得意げに口角を上げていた。
悔しいけれど、事実だから言い返す言葉が見つからない。
さっき話していた、ゾンビゲームで遊んだ日の記憶と錯覚するようなデジャヴだ。
あの日、ゲームセンターを出ると、吐く息が白かった。
ビルの前に大きなクリスマスツリーが飾られていて、並んでそれを眺めていたら、突然、視界の光が遮られた。
端正な顔が目の前にあることに気づいたのと同時に、静かに唇を重ねられていた。
『付き合おう』
驚きと恥ずかしさで何も言えずにいた私は、その強い眼差しに――こくりと頷いたのだった。
信号が青に変わる。
ハルは滑らかな動作でアクセルを踏み込み、再び夜の街へと車を走らせた。




