↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ねえ、はやく降参してよ。 ――結婚したのに両片思い(?)。復縁夫婦の執着愛バトル。  作者: momomo
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/24

第二夜:結局、負けているのはいつも俺の方

「はーい! 帰って、帰ってー」


 時計の針が五時半を指した瞬間、上司の乾いた拍手がフロアに響き渡る。

 大きなガラス窓の外は、まだ明るい。


 火曜日は、どんなに仕事が山積みであろうと、問答無用でオフィスを追い出される。

 いわゆるノー残業デーというやつだ。

 一日だけ制限をかけたところで、他の日に深夜までPCと睨み合っていては意味がない気もする。

 けれど、それが『火曜日』に設定されていることについて、俺は大変満足していた。


 ◇


 ビルを出ると、夏の訪れを知らせる風が肌を撫でる。


 足早に駅へ向かう道すがら、あることを思い出して路地裏の茶葉専門店へと入った。

 真鍮のカウベルを鳴らして重い木の扉を開けると、そこでは柑橘やスパイス、焙煎された様々な香りが混ざり合っている。

 仄暗い店内の壁一面に並んだ瓶を一瞥し、手に取るのはいつも決まって、デカフェのジャスミンティーだ。

 家にある分は、先日使い切ってしまったのだ。


 レジへ向かうと、柔らかな雰囲気の女性店員が微笑みかけてくる。

 包装は不要と伝え、手早く会計を済ませて振り返ったとき、再びカウベルが鳴った。


「あれ? 幹本《みきもと》」


 入ってきたのは、会社の先輩だった。


「お疲れ様です」


「ここ、人気なんだろ? 嫁に買ってこいって頼まれてさ。ええと、名前、何だっけな……」


 独り言のように呟きながら、鞄のポケットからスマートフォンを取り出す。


「幹本は何にしたの?」


「ジャスミンティーです」


「へえ。洒落てんな」


 狭い通路ですれ違いざまに「それじゃあ」と短く会釈し、画面を覗き込む先輩を残して外へ出る。


 購入したばかりの茶葉を、鞄の奥へそっとしまった。

 茉莉花《ジャスミン》茶。これは、妻の茉奈《マナ》が好んで飲むものだ。


 ◇


 自宅のドアを開けると、廊下は真っ暗で、しんと静まり返っていた。

 リビングのライトを控えめな光量でつけて、そっと寝室へ足を踏み入れる。


 薄暗い部屋の中、ベッドの中央でマナが横たわっていた。

 規則的ながらも、いつもより少しだけ荒い寝息が聞こえる。


 屈み込み、前髪をそっと避けて手のひらを額に当てた。

 まだ熱い。


「……ん……ハル……? おかえり……」


 肌の感触に気づいたのか、重たげな瞼がうっすらと開く。


「今、何度?」


「夕方起きたときは……三十八度だったけど……」


 昨晩から熱を出した彼女は、せっかくの休日である火曜日を、布団の中、一人で過ごしていた。


 枕元に転がっていた体温計を手に取り、電源を入れて手渡す。

 マナは力なく腕を伸ばし、なんとか脇の下にそれを挟んだ。


 静寂の中、電子音が微かに響く。

 パジャマの中から抜き取られたそれを受け取り、液晶を確認した。


「七度八分か。あんま変わってないな。飯つくるから、待ってて」


 乱れた黒髪を優しく撫でると、潤んだ瞳が甘えるようにゆっくりと瞬きをした。


 ◇


「……美味しいっ」


 熱で少し赤らんだ頬を緩ませ、マナがスプーンを口に運ぶ。

 細かく刻んだ根菜と卵を落とした、消化の良いおかゆだ。


 その姿を確認したあと、キッチンに戻り、先ほど買ってきたばかりの茶葉の封を切る。


 熱湯を入れて温めておいた二つのマグカップを空にして、ガラスのティーポットには茶葉を落とす。

 適温に冷ましたお湯を静かに注ぐと、小さく丸まっていた葉がゆっくりと解け、清らかな黄金色とともに茉莉花の甘い香りが広がった。



 それらをコトッ、とテーブルへ置いた。

 陶器の鳴る音に気づいたマナは、顔を上げる。


「あ……買ってきてくれたの?」


「そう。切らしてただろ」


 ポットを傾けて注ぎ入れながら答えた。


 食後の薬と水の入ったグラスも用意すると、俺も向かいの席に腰を下ろし、自分のおかゆに手をつける。


「ありがと。なんかハル、優しい」


 湯気越しに、弱々しくはにかむ顔が見えた。


「別に。いつもだろ?」


 そう返すと、マナはカップを両手で包み込みながら小さく笑った。


「お茶はよく買ってきてくれるけどさ。基本は、意地悪ばっかりじゃん」


 一口啜ると、ふう、と心地よさそうな白い息を漏らした。


「今日……ごめんね?」


 そして、上目遣いでこちらをうかがってくる。


「何が?」


「火曜日なのに、『できなくて』」


 病人のくせに、余裕ぶったからかいの響きが含まれている。


「残念なのは、マナなんじゃないの?」


 動じることなく、さらりと言い放った。


「いやいや。絶対、ハル!」


 負けじと張り合ってくるが、その目尻は楽しげに下がっていた。


 俺の視線は、彼女の熱を帯びた首筋や、カップにかけられた細い指先に向けられている。

 こういうとき、どうやってこの強がりを降参させようか、静かに算段を巡らせてばかりいる。


「まあ、そうかもな。だから、治ったらよろしくな?」


 ジャスミンの香りを味わいながら、わざと低い声で囁いた。


「……っ」


 さっきまでの悪戯顔はどこへやら、分かりやすく言葉を詰まらせ、恥ずかしそうに視線を逸らすマナ。

 自分から仕掛けておきながら、いつも最後はこんなふうに黙り込んでしまうところまで含めて、たまらなく夢中にさせられている。


 結局のところ、負けているのはいつも俺の方なのかもしれない。


 ちなみに――次の火曜まで待つ余裕などあるはずもなく、彼女の体調が回復したことを確認できた晩に、たっぷりとリベンジさせてもらったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。