第一夜:いまだに転がされ続けている私
火曜日の夜。
せっかく広めのソファに新調したというのに、触れ合った肌が少し汗ばんでしまうほどぴったりと身を寄せ、画面を見つめていた。
流れているのは、肩に回された甘ったるい腕にはひどく不釣り合いなホラー映画。
――バンッ!
「……っ」
突如響いた破裂音とともに、画面の暗がりからおぞましい影が飛び出す。
思わずビクッと肩が跳ねた。
「……ビックリした?」
そんな反応を面白がるように、耳元で夫のハルが低く囁いてくる。
「べ、べつに……」
強がって見せたものの、笑い声を殺して震えているのが肩越しに伝わってきた。
毎週火曜は、美容師である私の定休日と、会社員である夫のノー残業デーが重なる日だ。
夕食と入浴は早めに済ませ、こうして映画を観るのがお決まりの流れになっている。
「もうすぐ夏だし」と涼しい顔でこの作品を選んだ彼だが、本音はただ、私が怖がる姿を見たいだけなのだ。
負けず嫌いな私は、その思惑通りに怯えてみせるのが悔しくて、必死に平然を装うのだけれど。
この年下夫には、そんな強がりすら格好の娯楽として消費されてしまう。
◇
エンドロールが途切れ、テレビの画面がふっと暗転した。
静寂が降りたリビングには、初夏の夜風が網戸をすり抜ける微かな音だけが響く。
隣からは、お揃いのシトラス系のシャンプーの香りが、少し高い体温を帯びた空気とともに漂ってきた。
「どうだった?」
肩口に落ちた私の黒髪を指先で弄りながら、ハルが感想を尋ねてくる。
「えっ? まあ……そこまで怖くなかったかな。驚いたのも、一か所だけだったし」
「いや。三か所でしょ?」
「…………」
思わず息を呑んでしまった場面を、しっかり数えられていたらしい。
いつも私がカットしている前髪をセンターで分けた額の下。
鋭さと甘さが入り混じった視線で見つめられ、たまらずフイッと目を逸らした。
そっぽを向いた私の頬に吐息がかかるほど近づいて、彼は言う。
「じゃあ。次、何したい?」
その声に振り返ると、口元だけに薄く笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
まっすぐ向けられた瞳には、彼特有の意地悪さが滲んでいる。
『何観たい?』ではなく、『何したい?』。
一文字の違いに込められた意味に気づかないふりをして、黙って見つめ返した。
映画のあと、時計が十時を回った頃から始まる『夫婦の大切な時間』――。
彼はいつだって、私からその言葉を引き出そうと巧妙な罠を仕掛けてくる。
「……ハルがしたいこと、しよう?」
またしても意地っ張りな性格が顔を出し、つい悪あがきをしてしまう。
大事に伸ばしたストレートヘアを自分の指先でなぞりながら、視線だけを逸らした。
そんなささやかな抵抗に、ハルは小さく喉の奥で笑う。
「んー。じゃあ、ベッド行こっか」
ふわりと頭を撫でられ、隣の重みがスッと消えた。
予想外にあっさりとした誘いに、やや拍子抜けして顔を上げると、細身ながらも広い背中はすでに寝室へと向かって歩き出している。
残された僅かな熱の余韻を追いかけるように、私もソファから立ち上がり、後をついていった。
◇
寝室の仄暗い間接照明が、シーツの白をそっと照らしている。
ひんやりとした布地の上に腰を下ろし、密かに速まる鼓動を悟られないよう息を整えた。
しかし――。
予想に反して、ハルは長い脚をベッドに投げ出し、頭を私の膝の上にコロンと乗せてきた。
下から覗き込んでくる瞳は、私の反応を味わうように、ひっそりと弧を描いている。
動揺を隠すため、わざとからかうような響きを乗せて応戦を試みる。
「……甘えたいんだ? 可愛いねえ、ハルは」
少し湿り気を帯びた柔らかい髪に指を差し込み、ゆっくりと梳く。
「可愛い、可愛い」と重ねるたび、形の良い眉が微かに寄るのがわかった。
その不満げな表情に、ふと、懐かしさをおぼえる。
私が通っていた女子高の文化祭で、近くにある高校の制服に身を包み遊びにきていたハルと出会った。
二つ年下というだけで、弟がいる私にはどうしても『生意気な男の子』にしか見えなかった。
子供扱いされることに苛立った彼と、よく喧嘩をしたものだ。
もちろん、膝に伝わる確かな骨格の重みも、見上げる顔のシャープな輪郭も、今ではすっかり大人の男性のそれであって、私よりもずっと頼もしいのだけれど。
「俺も、可愛がってやろっか?」
不意に、髪を撫でていた私の手首が、ハルの骨ばった手指に捕らえられた。
静まり返った寝室に、挑発的で甘い声が響く。
「可愛がって、ほしい?」
触れた場所から、じわりと熱が伝わってくる。
それでも私は、精一杯の余裕を装って、彼を見下ろした。
「いいよー。今、私が可愛がってる番だし」
「早く素直になれって」
そんな囁きとともに、腕を強く引かれた。
景色が反転し、あっという間にシーツの海に沈められる。
降ってくる無数のキスを受け止めながら、手のひらをその背中に添えた。
細身のシルエットに隠された、幼少期から大学まで水泳で鍛え上げられたしなやかな筋肉の起伏をたしかめる。
「……どんなのがいい?」
深く交わる視線。
逃げ場のない空気の中で、彼はさらに意地悪な顔をつくっている。
「……ふつうの」
「先週みたいなやつ?」
「ちがうっ! あれは無理!」
「なんで? 喜んでたじゃん」
艶を含んだ声で囁きながら、目を細めて笑う。
そのあざといくらい整った笑顔に、心臓がまたひとつ大きく跳ねてしまう。
「……喜んでないっ! とにかく無理!」
「あんときのマナ、可愛かったのにな」
「……っ」
言い返す言葉を塞がれるように、再び重なる唇。
いつまで経っても、私はこの子の手中で、心地よく転がされ続けているのだ。




