第四話 焼く列
角灯を北の列の入口へ並べた。
夜の園は足元の草も、棚の柱の割れ目も、見えるところだけが本当になる。
「今朝の紙を出してください」
私はダリオに言った。
「助言のみ、と書いたところは?」
「三行目です」
羽根ペンを受け取り、その行に線を引いた。上に短く書き足す。
消したのは私。書いたのも私。これは、あとで誰にも動かせない。
ピオと園の働き手たちが、北の列の入口へ戻ってきていた。門の外には、苗床で会った川向こうの男も、仲間を連れて立っている。
「これから私の言うことに、そのまま従ってください」
「もちろんです。うちの園にも、来年がありますから」
「助かります。あとで名前を聞かせてください。今夜の持ち場を決めます」
深く息を吸ってから続けた。
「杭で囲った北の列を丸ごと切ります。今年の実はなくなって、冬までの仕事も減ります」
誰も何も言わない。
「――加えて」
「これで必ず止まるとは言えません。切っても、雨が来れば先へ行くかもしれません。止まらなければ、この木は無駄に減ることになります」
「それでも切るんですか」
ピオは眉をひそめる。
「切ります。決めたのは私。ベラーニ家でも、あなたたちでもありません」
言い切った。
「先に接ぎ穂を取ります。ピオ、角灯をこちらへ」
いちばん古い木の、棚のいちばん高いところ。今年伸びた枝をナイフを使って斜めに落とす。切り口を灯へ寄せて確認する。
内側は白い。
もう一本。白い。三本目は褐色の筋が走っている。これは捨てる。
「白いものだけ濡らした布に包んで蔵へ。取った順は崩さないで」
蔵前にいた若い働き手が、両手で枝を受け取った。
「この木は今夜なくなります。でも、この枝は残ります」
それ以上は言わなかった。働き手は布を抱えて走っていった。
◇
鉈が入ったのは、暮れの鐘から一刻ほど後だった。
太い株は根元で落とす。ピオが鉈を振り、川向こうの人たちが棚から枝を引き下ろす。落とした枝は積まず、風下にある焼き場へ運ぶ。
「運ぶ道は一本にして。行きと帰りで、すれ違わないように」
「水の桶は焼き場の南側へ。北側には置かないで。風が来ます」
声を出し続けた。持ち場と、動作と、次の一手。それだけでいい。理由を聞かされても、誰も覚えていられない。
◇
火は思ったより素直に上がった。生木は焼けにくい。枯れ枝を下に組み、上から重ねていく。生木の皮がはぜるたび、乾いた音が返った。
煙の臭いが、鼻の奥にまで残る。低く流れた煙が、蔵の壁で折れた。
半分ほど運んだころ、風が強くなった。
西から。昼のうちに向きを変えたのと同じ風が、夜になって勢いを増したようだ。
熱が頬の片側へ寄った。次に息を吸うと、煙で咳が出た。
「火が来たぞ!」
誰かが叫んだ。焼き場の石を越え、地面に赤い筋が走っている。乾いた草だ。三年、ろくに刈られない草だった。
「水は南。北から回らないで。ピオ、鉈を置いて土を掛けて」
走った。草の火は踏むと消える。だが、そうする間に、風下で次の火が立つ。
熱が脛へ当たった。煙が目に刺さり、赤い筋が分かれた。
――怖い。
石を越えた火は、蔵ではなく杭の外、北の裏へと向かった。
杭の外、北の裏には切らないと決めた木が残っている。いちばん古い棚もそこにある。
火は草を伝って、棚の柱へ行く。乾いた蔓が上に乗ったままだ。
草の焼ける音が、古い棚の下へ近づいている。
「棚を落とします」
なんとか声が絞り出せた。咳はそのあとにした。
「杭の外の棚。母屋側の大きいほうから。倒す向きは焼き場へ。火の口を先に断つ」
ピオは動かなかった。
「ヴィオラ様。あれは杭の外です」
「知っている」
「セルヴァニ家のヴィオラ。それは家が認めた範囲を越えます」
会計役のモレッティが焼き場の端に立っていた。走ってきたらしい。息が上がっている。
「ええ。越えます」
「お止めください」
背後で草が燃え、火の粉が袖へ落ちた。手で叩くと、焦げた匂いがする。
モレッティは働き手たちのほうへ向き直り言った。
「手を止めなさい。越えた分は家の損失です。私には止める務めがあります」
誰も動かなかった。この人たちの賃金はベラーニ家から出る。
そうしている間も火は待たない。背中側の熱が強くなった。赤い筋は、もう裏のほうへ入っている。
どうすれば。
「ダリオさん!」
名前で呼んだのは、初めてだった。
彼は焼き場の端から、モレッティの前へ出た。
「モレッティさん。園内の指図は、家が私を管理役から外すまでは私にあります」
「あなたの裁量は、杭の内側までです」
「承知の上です。越えた分の損失額は、私の名前で載せてください」
ダリオさんは声を張らなかった。
「ダリオ・ベラーニ個人の借りとして、今夜の日付で」
「本気ですか」
「本気です。明日、家が私を管理役から外しても異議は申し立てません。いかなる処分も受けます。それも書いてください」
モレッティは帳面を開き、火の光の下でためらわずに書いた。止めるためではなく、記録するために。
「みなさん、聞いてください」
ダリオさんが声を上げた。
「今夜、どこを切るかを決めるのは、ヴィオラさんです。彼女の言うとおりに動いてください。費用と責任は私がすべて持ちます」
正しいとは言わなかった。それでも、私の指示を皆の前で通した。
「ピオ。母屋側の大きいほうの棚。倒す向きは焼き場へ」
「はい」
鋸が入った。
一本目の柱が軋み、舞った木屑が頬の汗へ張りついた。
二本目の柱に取りかかったところで、足元の草から火の粉が上がった。近い。瞳の表面が熱で乾きそうで目を細める。
水の桶が列を渡ってくる。
「そこまで下がって。ピオ、あと三回。三回で離れる」
棚は焼き場のほうへ倒れた。熱された空気が一度こちらへ押し返され、腕で顔を覆った。
柱と蔓が草を潰し、火の口が切れた。赤い筋が、そこで止まって細くなる。
何人かで踏んで消した。しばらく誰も顔を上げなかった。
◇
雨が来た。
一粒一粒が首に当たると、熱の残る肌に冷たかった。それから急に来た。焼き場の火が白く煙る。
雨が灰を打ち、焦げた匂いが濡れた土の匂いに変わっていく。
みんな空を見上げた。誰も声を上げなかった。
北の列はもうない。裏の棚もない。切り株が並び、雨に濡れていく。
「これで、よかったんでしょうか」
ピオが聞いた。
「分からない」
本当に分からない。雨が止んだあと、周辺の木を見なければ何も言えない。
「分からないけれど、決めたのは私。あなたたちが背負う分はない」
ピオは蔵のほうを見た。
「取った枝は、どうしますか」
「蔵の奥へ。後日、台木に接ぐ」
声は普通に戻っていた。そう気づいた途端、腕も脚もいっぺんに重くなった。
ダリオさんは焼き場の端にいた。雨をクロークでよけながら、モレッティが差し出した一枚に名前を書いている。三年前と同じ手つきだ。
あのときは、うちの家の名前を書いていた。
今夜は、自分の名前を書いている。
「ピオ。夜が明けたら、根を抜く場所に印を付けて。川向こうの人たちは先に帰してあげて」
「はい」
「それから、みなさん。誰も怪我をしませんでした。それがなによりです」
私の言葉に誰かが笑うと、周りもつられて笑いだした。すすや泥でひどい顔だ。
雨は本降りになった。




