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第4話 王太子は、捨てたものの価値を知る

ルキウス様から魔力譲渡を受けてから、私の体調は一時的に驚くほど回復していた。


 もちろん、病そのものが治ったわけではない。


 私の星脈は、相変わらず自力で巡ることを忘れている。

 今は、ルキウス様から与えられた魔力によって、かろうじて命をつなぎ止めているだけだ。


 それでも、自分の足で立ち、歩けるまでにはなった。


「本当に、よろしいのですか」


 姿見の前で、マルグリットが心配そうに私のドレスの裾を整えている。


 今日のドレスは、淡い銀色だった。

 派手ではない。

 けれど、歩くたびに星明かりのような光を帯びる生地で仕立てられている。


 マルグリットが、私のために選んでくれたものだ。


「ええ。これが、私の最後の区切りになるから」


 今日、王宮で開かれるのは、春の訪れを祝う大規模な夜会だ。


 王族はもちろん、高位貴族や他国の外交官も集まる。

 ただ華やかなだけの宴ではない。

 王家の威信を示す、公的な場でもある。


 婚約破棄されたばかりの公爵令嬢が、顔を出すには不向きな場所だ。

 本来なら、領地に引きこもり、噂が過ぎ去るのを待つのが「正しい」振る舞いなのだろう。


 けれど、私にはもう時間がない。


 それに、逃げるように隠れて死ぬつもりもなかった。


「……ルキウス様には、すべてお話ししてあります。万が一、フェリクス殿下が無理に私を連れ戻そうとした時は、陛下へ正式に奏上してくださるそうです」


 ルキウス様は、私の病についても、婚約破棄の経緯についても、すでに国王陛下へ内密の報告書を上げてくださっていた。


 私がそれを知った時、驚きはした。

 けれど、同時に納得もした。


 彼は感情だけで動く人ではない。

 私を守るために、必要な手順を踏んでくれる人だ。


「だから、大丈夫よ」


「……それでも、心配です」


 マルグリットの声が震えた。


 私は振り返り、彼女の手をそっと握る。


「私も、少し怖いわ」


「カミラ様……」


「でも、言わずに終わる方が、もっと怖いの」


 私は鏡の中の自分を見た。


 青白い顔。

 細くなった首筋。

 それでも、背筋だけは真っ直ぐに伸ばした。


 王太子妃候補としてではない。

 ローゼンベルク公爵令嬢としてでもない。


 ただ、私自身として。


「行ってくるわ」


 マルグリットは唇を噛み、それから深く頭を下げた。


「どうか、ご無事で」


 公爵邸のエントランスへ向かうと、そこには漆黒の礼装に身を包んだルキウス様が立っていた。


 いつもの軍服とは違う、夜会用の装い。

 黒を基調にした礼装は、華やかさよりも静かな威厳を感じさせる。

 けれど、その身から漂う圧倒的な存在感と、隙のない立ち姿は変わらない。


 彼は、私が階段を降りてくるのを見ると、静かに歩み寄った。


 そして、私の手を取る。


「美しい」


 無表情のまま発せられた、低く真っ直ぐな声。


 お世辞など絶対に言わない人だと分かっているからこそ、そのたった一言が、私の頬を熱くさせた。


「ルキウス様も、とても素敵です」


「そうか」


「はい。……私などのエスコートをお願いしてしまって、申し訳ありません」


「俺が、君の隣を歩きたいと言った」


 ルキウス様は、私の手をそっと自分の腕に添えさせた。


「誰にも、君を笑わせはしない」


 静かな声だった。


「俺が守る」


 その言葉の強さに、胸の奥がぎゅっと鳴る。


 私は小さく頷き、彼と共に馬車へ乗り込んだ。



 ◇ ◇ ◇



 王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、ざわめきが波のように広がった。


「あれは……ローゼンベルク公爵令嬢?」

「なぜここに? 殿下から婚約破棄されたと聞いたが……」

「それに、エスコートしているのは……特務騎士隊長殿ではないか」

「死神騎士が、女性をエスコートしているだと……?」


 無遠慮な視線と、ひそひそとした囁き声が四方から突き刺さる。


 これまでの私なら、公爵家の威信を保つため、完璧な作法と愛想笑いでその場をやり過ごしていただろう。


 けれど今は、取り繕う必要を感じなかった。


 ただ静かに、前を向いて歩く。


 隣には、ルキウス様がいる。

 彼がそばにいてくれるだけで、どんな視線も、もう恐ろしくなかった。


 広間の中央へ進み出た時だった。


「カミラ様」


 人混みをかき分け、一人の少女が進み出てきた。


 セシリア・ノーランド男爵令嬢だった。


 以前のように、フェリクス殿下の影に隠れて怯える少女ではない。

 顔は青ざめていたが、その瞳にははっきりとした意志が宿っている。


 セシリアは私の前まで来ると、大広間の全員が注目する中で、深く頭を下げた。


「カミラ様。私、あなたに心からの謝罪を申し上げたくて、この場へ参りました」


 ざわめきが、一段と大きくなる。


 王太子の新しい恋人だと思われていた男爵令嬢が、婚約破棄された公爵令嬢に頭を下げているのだから、当然だった。


 セシリアは震える息を吐き、それでも顔を上げた。


「私は、フェリクス殿下に利用されていました」


 その言葉に、大広間が静まり返る。


「殿下は『カミラ様は冷酷な女だ』と私におっしゃいました。ご自身がどれほど苦しんでいるか、どれほどカミラ様に縛られているかを、何度も私に語られました」


 セシリアの声は震えていた。


 けれど、逃げなかった。


「私は愚かにも、その言葉を信じました。カミラ様を傷つけていると分かっていながら、殿下に選ばれた自分に酔っていました。けれど、今は分かります。私は殿下の不満を満たすための道具であり、カミラ様を傷つけるための飾りだったのです」


「なっ……」

「殿下が、男爵令嬢を道具に?」


 周囲の貴族たちが息を呑む。


 セシリアは、もう一度、私に向かって深く頭を下げた。


「カミラ様。あなたを傷つけたこと、本当に申し訳ありませんでした。私はもう、殿下のお側には戻りません。これからは、自分の足で歩きます」


「……謝罪は、受け取りました」


 私は静かに答えた。


「けれど、これからどう生きるかは、あなた自身で示してください」


「はい」


 セシリアの瞳に、涙が浮かぶ。

 けれど、それは怯えの涙ではなかった。


 その時、広間の端から一人の壮年の男性が進み出た。


 王宮の実務を束ねる、筆頭文官だった。


「ノーランド男爵令嬢の言葉を、王宮文官として補足させていただきたい」


 筆頭文官は、居並ぶ貴族たちを見回した。


「ここにおられるカミラ様は、冷酷どころか、誰よりも国を思っておられた方です。フェリクス殿下が放置した政務の多くは、カミラ様が事前に調整しておられました」


 どよめきが起こる。


「南部水害の復興支援。東部辺境との境界線問題。王都慈善院への支援金目録。いずれも、カミラ様が関係各所と書簡を交わし、予算の不足を補い、貴族間の利害を調整したうえで、殿下が最終署名をするだけの形に整えてくださっていた案件です」


「まさか……殿下の功績とされていたものが?」

「では、実務は公爵令嬢が……?」


 続いて、王都慈善院の院長が進み出た。


 白髪の混じった小柄な女性だ。

 彼女は緊張で唇を震わせながらも、はっきりと声を上げた。


「私たち慈善院が昨冬を越せたのは、カミラ様が裏で予算を工面してくださったおかげです。殿下は支援金を削り、狩猟大会の予算に回そうとしておられました。それを止めてくださったのが、カミラ様でした」


 次に、東部辺境伯家の代理人が口を開く。


「境界線問題においても、カミラ様は双方の面子が立つ形で調停案を整えてくださいました。殿下からは一度も返答がありませんでしたが、カミラ様からの書簡だけは、常に正確で誠実でした」


 次々と明かされていく、私の裏側の仕事。

 そして、フェリクス殿下の怠慢。


 私は驚いて彼らを見た。


 私が頼んだわけではない。

 彼らは自らの意思で、危険を承知で真実を語ってくれている。


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 私がしてきたことは、無意味ではなかった。

 誰にも見られていないと思っていた日々を、覚えていてくれた人たちがいた。


「誰がそんなデタラメを言っている!!」


 その時。


 大広間の入り口から、怒声が響き渡った。


 血走った目で、髪を乱したフェリクス殿下が立っていた。


 彼は荒々しい足取りで群衆をかき分け、私の前まで歩み寄ってくる。


「カミラ! やはりお前か! お前が裏でこいつらを操り、私を陥れようとしているのだろう!」


 フェリクス殿下は、ルキウス様の隣に立つ私を睨みつけた。


「嫉妬に狂って、こんな茶番を仕組むとはな。だが、もういい。お前の怒りは十分に分かった」


 彼は、ひどく上から目線で、歪んだ笑みを浮かべる。


「許してやる。セシリアとはもう終わった。私が迎えに来てやったのだ、喜べ」


 広間の空気が凍った。


 けれど、フェリクス殿下だけが、それに気づいていない。


「お前には私が必要だろう? お前は私を愛していたはずだ。さあ、戻ってこい」


 その言葉に、私は呆れることすらできなかった。


 彼は本気で信じているのだ。


 私が彼を愛していて、彼なしでは生きられないと。


 私は、ルキウス様の腕からそっと手を離した。


「カミラ嬢」


 低い声が、私を気遣う。


 私は小さく頷いた。


「大丈夫です」


 そして、一歩前へ出る。


「……お断りいたします」


 静かな、けれど広間の隅々まで届く声だった。


 フェリクス殿下の笑顔が、ぴしりと凍りつく。


「な……なんだと? 私がわざわざ折れてやっているというのに!」


「勘違いなさらないでください。私はあなたに嫉妬などしていませんし、戻る気も一切ございません」


「嘘をつけ!」


 フェリクス殿下が叫ぶ。


「お前は私を愛していた! 婚約破棄の時も、私との思い出を泣くように語っていたではないか!」


 私は、彼を真っ直ぐに見据えた。


 もう、何の感情も湧かない。

 怒りも、悲しみも、未練もない。


 ただ、終わったものを終わったと告げるだけだ。


「あの時申し上げた『お菓子を食べた日が一番幸せだった』という言葉の続きをご存じですか?」


 フェリクス殿下が息を呑む。


 私は静かに続けた。


「――それ以外、あなたとの日々に幸せなど一つもなかった、という意味ですわ」


 大広間が、水を打ったように静まり返った。


 フェリクス殿下の顔が、赤から青へ、そして真っ白へと変わっていく。


 彼は唇を震わせた。

 やがて、顔を真っ赤にして激昂する。


「き、貴様ぁっ! 王太子であるこの私を愚弄するか!」


 フェリクス殿下の視線が、私の隣に立つルキウス様へ向いた。


「だいたい、なぜお前はそんな顔色で立っていられる? 婚約破棄の日、あれほど倒れそうだったくせに……そこの特務騎士から、怪しい術でも受けているのだろう!」


 私は息を呑んだ。


「お前が私を拒むのも、そいつに洗脳されているからに違いない! 近衛兵! その男を捕らえろ! その怪しい術を今すぐやめさせろ!」


 広間がざわめく。


 ルキウス様が行っている魔力譲渡を止められれば、私の命は本当に終わってしまう。

 それだけではない。

 私の命を救おうとしてくれている彼を、罪人にしようとしているのだ。


「やめてください! ルキウス様は、私の命を――」


 私が言い終わるより早く。


 ルキウス様が、音もなく私の前に進み出た。


 ぞわり、と。


 大広間の空気が、一瞬にして凍りついた。


「ひっ……!」


 フェリクス殿下が、情けない悲鳴を上げて後ずさる。


 無理もない。


 ルキウス様の体から立ち昇る、圧倒的な魔力。

 肌を刺すような殺気。


 「死神騎士」と呼ばれる男の、真の怒りだった。


 ルキウス様は、剣の柄に手をかけた。


 抜きはしない。

 けれど、それだけで十分だった。


 広間にいた近衛兵たちは、一歩も動けなかった。


「お前が捨てた方は、俺が命を懸けて守る方だ」


 氷のように冷たい声が落ちる。


「二度と名を呼ぶな」


 その重圧に耐えきれず、フェリクス殿下は無様に床へ尻餅をついた。


「や、やめろ……私を誰だと思っている! 私は王太子だぞ!」


「もはや、王太子ではない」


 広間の奥から、重厚な声が響いた。


 群衆が割れる。


 国王陛下が、数人の重臣を伴って姿を現した。


「ち、父上……!」


 フェリクス殿下が縋るように顔を上げる。


 けれど、国王陛下の顔には、深い失望と怒りが刻まれていた。


「フェリクス。お前の所業は、すべて耳に入っている」


「父上、これは違います! カミラが私を陥れようと――」


「黙れ」


 国王陛下の一言で、フェリクス殿下の声が止まった。


「正式な婚約を私情で破棄し、王家と公爵家の信義を傷つけたこと。カミラ嬢の政務調整を己の功績として扱いながら、国政を怠ったこと。さらに、重篤な病にあるカミラ嬢の治療を妨害し、その命を危険に晒そうとしたこと」


「びょう……?」


 フェリクス殿下が、呆然と私を見た。


 国王陛下は、さらに続ける。


「ルキウスから、事前に報告は受けていた。お前がカミラ嬢を無理に連れ戻そうとする恐れがあることもな。ゆえに今宵は、重臣たちと共に事実を見届けることにした」


 フェリクス殿下の顔から、完全に血の気が引いた。


「ち、違う……私は、ただ……」


「ただ、なんだ」


 国王陛下の声は冷たかった。


「己が捨てた相手が有用だったと知り、取り戻そうとしただけか。己を拒んだ相手の治療を、怪しい術と決めつけ、止めさせようとしただけか」


「……」


「お前は王太子でありながら、人を人として見ていない。己を満たす道具としてしか見ていない」


 広間に、重い沈黙が落ちる。


「もはや、お前に次期国王の資格はない。フェリクス、お前を本日付で王太子から廃し、東の離宮へ謹慎させる。正式な処分は、枢密会議にて追って下す」


「そ、そんな……嘘だ、嘘だ! カミラ!」


 近衛兵に両腕を掴まれ、フェリクス殿下が立たされる。


「カミラ、待て! お前が父上に言えば、こんなことにはならない! なあ、私は知らなかったんだ! お前が病だなんて、知らなかった! だから――」


 私は、彼を見た。


 最後に一度だけ。


「知ろうともしなかったのでしょう」


 その一言で、フェリクス殿下の顔が凍りついた。


「私が何をしていたのかも。何に苦しんでいたのかも。何を望んでいたのかも。あなたは一度も、知ろうとなさらなかった」


「カミラ……」


「もう、私の名を呼ばないでください」


 フェリクス殿下は何かを言おうと口を開いた。


 けれど、言葉にはならなかった。


 近衛兵に引きずられるようにして、彼は大広間から連れて行かれる。


 途中、何度も私の名を呼んでいた。

 けれど私はもう、振り返らなかった。


 私の心は、一ミリも動かなかった。


 かわいそうとも、ざまあみろとも思わない。

 ただ、完全に、私の人生から彼という存在が消え去っただけだった。


「……カミラ嬢」


 ルキウス様が、そっと私の肩を支えた。


 温かい手だった。


「終わりました」


 私は、ルキウス様を見上げて微笑んだ。


 心の底からの、晴れやかな笑みだった。


「これで、私の言いたかったことは、すべて――」


 言いかけた、その時だった。


 ――ガクン、と。


 突然、全身から信じられない勢いで力が抜け落ちた。


 立っていることができない。

 私の身体は、ルキウス様の腕の中へ崩れ落ちた。


「カミラ嬢!?」


 ルキウス様の焦燥に満ちた声が、遠く聞こえる。


 胸の奥が、焼けるように痛い。

 息ができない。


 魔力譲渡によって一時的に抑え込まれていた星涙症が、これまでの無理を清算するかのように、一気に牙を剥いたのだ。


 視界が暗く沈んでいく。


 フェリクス殿下への未練など、何一つない。

 言いたいことは、すべて言ったはずだった。


 それなのに。


 暗闇に落ちていく意識の中で、私は必死にルキウス様の服を握り締めた。


 いやだ。


 まだ、離したくない。


 ルキウス様の魔力だけでは、もう足りない。


 三ヶ月という命の期限が、容赦なく私の星脈の最後の光を奪おうとしていた。

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