第3話 死神騎士は、命を分ける
セシリアへの訪問を終えてから、数日が過ぎた。
私の「清算」は、静かに進んでいた。
不義理をしていた親戚へ手紙を書いた。
幼い頃に世話になった元家庭教師には、感謝の言葉とともに贈り物を手配した。
昔、きつい言葉で遠ざけてしまった令嬢には、遅すぎる謝罪を書いた。
やらなければならないことは、まだたくさんある。
けれど、私の身体は、少しずつ確実に限界へ近づいていた。
――その日の夜。
自室の机に向かい、私が口述した手紙をマルグリットが清書してくれていた時だった。
「カミラ様、次の宛先は……カミラ様?」
不意に、視界が真っ白に染まった。
立っていられないどころではない。
座っていることすらできず、私の身体は糸が切れた人形のように、椅子から滑り落ちた。
「あ……」
「カミラ様!!」
床に倒れ込んだ私の身体は、氷のように冷え切っていた。
胸の奥で、心臓が悲鳴を上げている。
息を吸おうとしても、肺に空気が入ってこない。
痛みに身をよじると、目尻から涙がこぼれた。
その雫は床に落ちる直前、星屑のような淡い光を放つ。
そして、音もなく消えた。
星涙症が、確実に進行している。
「どうしよう、お身体が氷みたいです……! すぐにお医者様を――」
「だ、め……」
私は震える手で、パニックに陥るマルグリットの腕を掴んだ。
グレアム医師を呼んでも、治療法はない。
私の死期が近づいていると、改めて告げられるだけだ。
マルグリットは泣きじゃくりながら、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「……通信石……っ!」
彼女は弾かれたように立ち上がり、テーブルの引き出しを開けた。
そこには、先日王宮でルキウス様から渡された、あの黒曜石がしまってある。
「マルグリット、いけな……」
夜更けに、特務騎士隊長を私用で呼び出すなど、あってはならない。
しかも、私はすでに王太子の婚約者ではない。
私が止めるより早く、マルグリットは黒曜石を両手で固く握り締めた。
「失礼は、私がいくらでも謝ります。ですが、カミラ様を失うくらいなら、どなたに叱られても構いません!」
そう言って、彼女は自分のわずかな魔力を通信石へ流し込んだ。
それから、三十分も経たなかったと思う。
公爵邸の門が開く音がした。
続いて、数頭の馬が駆け込んでくる音。
深夜にもかかわらず、正式な来客として正面玄関から通された足音が、真っ直ぐに私の寝室へ向かってくる。
扉が開いた。
「――カミラ嬢」
そこに立っていたのは、漆黒の軍服を夜風に冷やしたルキウス様だった。
息が、わずかに乱れている。
馬を飛ばして来たのだと、すぐに分かった。
彼はマルグリットから詳しい事情を聞くまでもなく、ベッドに横たわる私を見て、顔から血の気を引かせた。
恐ろしいほど無表情な彼が、この時ばかりは明らかな焦燥を浮かべている。
ルキウス様はベッドの傍らにひざまずき、私の冷たい手を取った。
「ルキウス、様……申し訳、ありま、せん。こんな、夜更けに……」
「喋らなくていい」
低い声だった。
けれど、叱責ではなかった。
ルキウス様は、私の手を両手で包み込む。
彼の大きな手から、じんわりと温かな魔力が流れ込んできた。
「……星脈が、ほとんど止まりかけている。俺が魔力を流して循環を助ける。だが、これは一時しのぎに過ぎない」
彼の声は、ひどく強張っていた。
ルキウス様は片手で軍服の懐を探り、一冊の古い手記のような書物を取り出した。
年季の入った革表紙。
端は擦り切れ、何度も読み返した跡がある。
「星涙症の文献を探していた」
「文献、を……?」
「あの回廊で、君の涙が光るのを見た。星涙症の兆候だとすぐに分かった。だから、王宮の禁書庫と辺境伯家の古い記録を調べた」
ルキウス様の黒曜石の瞳の下には、うっすらと疲労の影が落ちている。
彼はあの日から、自分の執務の合間を縫って、私の病を調べ続けてくれていたのだ。
「古い記録に、一つだけ生還例があった。波長が合う者からの、継続的な魔力譲渡。それが、この病の進行を食い止める唯一の手段だ」
ルキウス様は、私を見つめた。
「俺の魔力は、君の星脈と適合する可能性が高い」
「どうして、そんなことが……」
「さっき、君の手に魔力を流した時に分かった。拒絶反応がない。むしろ、君の星脈が俺の魔力を受け入れている」
波長が合う者。
それは、ただ魔力が強いだけでは駄目だ。
魂の形そのものが近くなければならない、奇跡のような確率だとグレアム医師は言っていた。
けれど、魔力を他者へ分け与える行為は、決して軽いものではない。
繰り返せば、分け与える側の命を削ることにもなる。
「君が許してくれるなら、俺は君に魔力を分けたい」
「な、ぜ……」
私は、掠れた声で問うた。
「なぜ、そこまでしてくださるのですか。私は、あなたに何も……返せ、ないのに」
私の問いに、ルキウス様は静かに目を伏せた。
「……君は、四年前の夕暮れを覚えているか?」
「え……?」
「王宮の庭園。君は、フェリクス殿下に置き去りにされ、一人でベンチに座っていた」
その言葉に、遠い記憶が鮮明によみがえった。
あの日。
私は朝から何も食べず、王太子妃教育の厳しい叱責に耐えていた。
ようやくフェリクス殿下とお茶を飲める時間になった時、私は少しだけ楽しみにしていた。
殿下と穏やかに話せるかもしれない。
今日こそ、努力を認めてもらえるかもしれない。
けれど、フェリクス殿下は私を見て、退屈そうに言った。
『お前といても息が詰まる』
それだけ言い捨てて、彼は私を庭園に残し、立ち去ってしまった。
公爵令嬢として泣くことも許されず、空腹と孤独に耐えながら、私はただ夕暮れの空を見上げていた。
その時だった。
『あの、これを』
不意に差し出されたのは、不格好に紙で包まれた、温かい焼き菓子だった。
見上げると、名も知らぬ少年騎士が立っていた。
彼は何も聞かなかった。
事情を尋ねることも、慰めることもしなかった。
ただ焼き菓子を私の膝に置き、一礼して去っていった。
あの焼き菓子の甘さと温かさが、どれほど私の凍った心を救ってくれたか。
だから私は、婚約破棄の場でフェリクス殿下に告げたのだ。
一度だけ、お菓子を食べた日が一番幸せだった、と。
あれは殿下との思い出ではない。
私を「王太子妃候補」ではなく、ただ空腹で寂しい一人の少女として扱ってくれた、名も知らぬ騎士への密かな感謝だった。
私は、大きく目を見開いた。
「まさか……あの時の、騎士は……」
ルキウス様は、静かに頷いた。
「俺だった」
たった一言。
それだけで、胸の奥に残っていた小さな灯が、ふいに大きく揺れた。
「なぜ……今まで、何も……」
「名乗るようなことではないと思っていた。それに、君は王太子の婚約者だった。俺が近づけば、君の立場を悪くする」
ルキウス様は、私の手を包んだまま言った。
「だが、王宮で君を見かけるたびに思っていた。君はいつも、誰よりも正しくあろうとしていた。誰よりも傷ついているのに、誰にも弱音を吐かなかった」
「……」
「国のため、王家のため、フェリクス殿下のため。君がどれほど自分を殺してきたか、俺は少しだけ知っている」
少しだけ。
その控えめな言葉が、かえって胸に響いた。
彼は、私のすべてを知ったような顔をしない。
勝手に理解者を名乗らない。
それでも、見てくれていた。
私が声を上げられなかった場所で。
「だから、あの日からずっと、君には生きてほしかった」
ルキウス様の声が、わずかに震えていた。
無感情な死神騎士などではない。
彼はただ、不器用なだけなのだ。
「死なせない。君がまだ望めなくても、俺は君に生きてほしい」
その言葉は、悲しいほどの熱を帯びていた。
私は、彼の手に包まれた自分の手を見つめる。
どうして、この人はこんなにも、私のために。
「私の命に、そんな価値があるのですか」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
私には、もう何もない。
王太子妃としての未来も、婚約者としての価値も、公爵家の駒としての役目も、すべて失った。
それなのに。
ルキウス様は、私を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺にとっては、世界より重い」
――ああ。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。
十八年間、必死に守り続けてきた冷たい壁が、彼の言葉で溶かされていく。
「……カミラ嬢」
ルキウス様は、私の手を握ったまま、低く告げた。
「魔力譲渡を行いたい」
私は息を呑む。
「ただし、君が嫌ならしない。君の命を救うためでも、君の意思を無視したくはない」
その言葉に、また胸が締めつけられた。
フェリクス殿下は、いつも私の意思を決めつけた。
お前は俺を愛しているはずだ。
お前は王太子妃になりたいはずだ。
お前は俺なしでは生きられないはずだ。
けれど、ルキウス様は違う。
私の命がかかったこの瞬間でさえ、私自身の意思を待ってくれる。
「俺を、受け入れてくれるか」
私は、小さく頷いた。
喉が震える。
「……お願い、します」
ルキウス様は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして、私の頬にそっと手を添える。
「怖ければ、すぐに止める」
「……はい」
彼は顔を近づけ、私の額にゆっくりと、祈るように唇を落とした。
「――っ」
触れた場所から、信じられないほどの熱と、圧倒的な魔力が流れ込んでくる。
冷え切っていた星脈が、彼の魔力に包まれる。
止まりかけていた命の巡りが、ゆっくりと押し流されていく。
強い魔力だった。
けれど、乱暴ではない。
凍りついた川の氷を割るのではなく、春の陽射しで少しずつ溶かしていくような、優しい熱だった。
彼の命そのものが、私の中へ注がれていく。
数分後。
ルキウス様が額から唇を離した時、私の呼吸はすっかり落ち着いていた。
指先には、確かな血の巡りが戻っている。
「……あ……」
痛みが、嘘のように引いていた。
代わりに、全身を満たす温かな魔力が、私を現世に強くつなぎ止めている。
ルキウス様は深く息を吐き、私の額にかかった髪をそっと払った。
「少しは、楽になったか」
「はい……。ルキウス様は、お身体は……」
「俺は問題ない」
そう答える声は、いつも通り低く静かだった。
けれど、彼の顔色は先ほどより少し青い。
肩で息をしていないだけで、負担がなかったはずがない。
「嘘を、おっしゃらないでください」
私がそう言うと、ルキウス様はわずかに目を見開いた。
「あなたの手が、少し冷たくなっています」
「……この程度、どうということはない」
「私には、どうということがあります」
口にしてから、自分でも驚いた。
これまで私は、自分の望みをほとんど言葉にしてこなかった。
誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分が黙って耐えればいいと思っていた。
けれど今、私は確かに思っていた。
この人に、無理をしてほしくない。
私は、彼の大きな手を自分から握り返した。
温かい。
けれど、先ほどより少しだけ冷たい。
この温もりを、手放したくない。
そう思った瞬間、息を呑んだ。
三ヶ月後に死ぬと言われても、ちっとも怖くなかった。
すべてを清算して、綺麗に消えてしまおうと思っていた。
なのに今、私は初めて、自分が死ぬことを想像して恐れを抱いていた。
自分の命が惜しくなったからではない。
この人の手を、離したくないと思ってしまったからだ。
ベッドの中で、私はルキウス様の手を握り締めた。
そして初めて。
死ぬことが、怖いと思った。




